「子どもが売られない世界をつくる」―かものはしプロジェクトの挑戦

かものはしプロジェクト 共同代表 青木健太 (聞き手:PHP総研 山田花菜)

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「変える人」No.28では、「子どもが売られない世界をつくる」をミッションに活動するNGO「かものはしプロジェクト」の青木健太氏をご紹介します。2002年の任意団体設立から14年目を迎えた2016年6月、かものはしプロジェクトが下した大きな決断とその背景を伺いました。
 
――まずは青木さんが共同代表を務める「かものはしプロジェクト」立ち上げのきっかけについて教えてください。
 
青木:かものはしプロジェクトは、「子どもが売られない世界をつくる」をミッションに、カンボジアとインドで活動しているNGO団体です。共同代表である村田早耶香がスタディツアーで訪れたタイのシェルターで、売られていた子どもに出会ったということが原体験となっています。しばらくは村田が個人で活動をしていましたが、1年ほど経った頃に学生団体で僕ともうひとりの共同代表である本木恵介と出会い、プロジェクトとして活動を始めることになりました。
 
――もともと青木さんと本木さんは起業に興味を持たれていて、その活動の中で村田さんと出会われたということですが、社会的起業にとくに関心が高かったのですか?
 
青木:最初はそんなこともなかったと思います。友人たちと学生団体をやっていたんですが、その団体はテーマを広くとっていて、ビジネスはもちろん、教育などもやっていて、中学校に教えに行ったりもしていました。
 いろいろやってみる中で、いちばんぐっときたのが、RCFの代表の藤沢烈さんにお話を聞いた社会的起業で、社会起業家の発掘プロジェクトのようなものを一緒に始めようということになって、その段階で「そういえば団体メンバーの村田が何か言っていたな」と思い出して話を聞いてみることにしたんです。
 だから、最初は広いテーマでしたが、最後のほうは社会的起業というトピックがぐっと持ち込まれてきた、というご縁があったような感じです。
 2002年のことだったので、社会的起業という言葉も日本社会ではまだあまり浸透していなかったんですが、同じ頃にETIC.のSTYLEという社会起業家ビジネスプランコンテストのようなものが始まって、ETIC.もどんどんソーシャルイノベーション支援のような方向に移って行った。そんな時期でした。
 そうした学生団体の取り組みの中から、かものはしプロジェクトがNGO団体としてスピンオフしていったような感じですね。
 
――通常の起業にしても、社会的起業にしても、テーマや課題は本当にたくさんあると思います。もともと問題意識を持っていた村田さんに出会われたということがもちろん大きいとは思いますが、青木さんご自身が、児童買春という課題を選ばれたのには、なにか理由があるのでしょうか?
 
青木:いちばん最初、学生団体の活動として取り組み始めたときには、こんな言い方をすると語弊があるかもしれませんが、本当に大きな、大事な問題だと思えればなんでもよかったんです。自分がなにか背負うものがあるわけではない一方で、「世界にはいろんな問題があるよね」という感覚で、変な言い方になりますが、「それは十分にシリアスな、大きな問題である」とか、「解決するのは難しいけれど、解決できたらとても素晴らしい問題である」と思えればよかったんだと思うんです。
 そういう意味では、村田と出会って、児童買春という問題が目の前に置かれたということはやっぱり大きな出来事でした。とはいえ、自分も大学を辞めて団体としてやっているわけなので、自分のエネルギーとか人生の一部を費やして取り組むようになる中で、途中から納得感みたいなものはやっぱり問われるというか。この活動に取り組む意味みたいなものを確認する過程で、その課題が自分事化していくというか。そういう中でひとつあったのは、繰り返しになってしまいますが、「改めてこの課題は、疑いようもなくひどい問題である」ということでした。
 「いろんな見方があるよね」とか、「そうは言っても…」というようなフォローが入り込む余地のない、これはひどいなという感覚が、活動を通して被害者や支援者といった方々と出会う中で、疑う余地もなく強くなっていく。
 
――誰が、どんな角度から見たとしても、これはひどい、と。
 
青木:とくに私たちが対象としているような、未成年の子どもが売られるという問題はそうだなと思って。そこは大きいと思うんです。信じてきたというと変ですけど、自分たちの活動に納得感があって、ブレずに活動を続けてくることができた。
 僕自身はそこから、個人としてはだんだんと、自分自身の価値観とかライフミッションみたいなものがちょっとずつ変わっていくんですけど。

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――児童買春に関しては、現地の団体さんなど、ほかに活動されている方もいらっしゃったと思うんですが、その中でかものはしプロジェクトが「孤児院支援」「警察支援」「最貧困家庭の女性を雇用するコミュニティファクトリー事業」といった活動の手段を選ばれたのは、そこに強みというか、課題解決の鍵があるという確信があったんですか?
 
青木:そうですね、当時の見方の中での確信ですけど。
 いちばん最初は、日本人もこうした問題に加害者としてかかわっていたりもするので、そうした場合に日本人が罰せられるように法律を変えたり、そのために署名運動をしたりしたらいいんじゃないか、という発想があったくらいで、いろんなことがわかっていなかったんですね。
 そんな僕らに、藤沢烈さんが「行動力があるのはいいんだけど、そうやって思いつきで始めた活動は長続きしないし、ソーシャルインパクトがあまり出ない。それはやっぱりプランニングが甘いからだ」というようなことを言ってくださったんです。
 そこで、まずはプランニングに専念しましょうということになって、当時、烈さんがマッキンゼーにいたということもあると思うんですけど、調査と事業計画づくりだけを3か月間かけて徹底的にやったということが、すごく印象に残っています。
 徹底的にといっても学生ですから、いまから考えれば甘かったと思う部分もあるんですけど、その問題がなんで起きていて、どこで起きていて、どういうアプローチをしている団体がいて、空いている場所はどこか、自分たちがなにかしらの強みを生かせるとしたらどの部分かということを、一旦立ち止まってちゃんと考えた、ということが、原体験としてあります。
 そのときの体験は、うちの団体のDNAとしていまも受け継がれているように感じますね。
 
――それは現地に行って、聞き込みのようなことをやられたりとか。
 
青木:そうですね。
 
――その中で、自分たちの強みとして、いちばんコアになるものは、どんなものだと思われたんですか? 優位性を発揮できるというか、あるいは、先ほどのお話でいくと、「空いている場所」だったのかもしれませんが。
 
青木:そのときすごく意識していたのは、仕事をつくるということでした。カンボジアに十分な仕事があるわけではなかったし、そうした活動をしている団体もほとんどなかった。日本のほうが経済的に進んでいるのであれば、現地に仕事をつくるということはできるかもしれないということを当時考えたんです。それがいまも活動のコアになっているように思います。
 というのも、「子どもが売られる」という問題に対し、「予防したい」という思いが強くあったんです。好みのようなものもあるのかもしれませんが、この問題に一人でも多くの人が遭わないようにしたいという思いがあって。
 被害に遭った人をケアするとかリハビリをするといったことも、とても大事なことではあるんですが、最初から被害者をつくらない「予防」ということに、僕たちはスタンスを寄せていきました。
 
――子どもが売られる問題には、「これから被害者になりうる人」と、「現在被害にあっている人」と、「売春宿からは救い出されたけれど苦しんでいる人」の三層の被害者がいて、それぞれに必要な取り組みが違う。かものはしプロジェクトの場合は、これ以上被害に遭う人を増やさないことを主軸に活動することにした、ということですね。
 
青木:とくに私はそうでしたね。もう一人でも被害に遭わないように、ということを強く思ったのが、スタンスを決めるひとつの理由になっていて、それはいまでもかなり強く意識しています。

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――現地に仕事をつくるために、最初はIT事業を始められたけれども、そうするとリーチできる層が本来思っていたのとは違うことに気がついた、ということもあったそうですね。
 
青木:そうなんです。現地に仕事をつくるといっても、僕たちも仕事をもっているわけではないし、なんなら自分たちも働いたことはないし、というような状態で、資本がなかった。工場誘致とかはできないわけですよね。
 ですがITであれば、資本がなくても始められると考えたんです。いろんな選択肢がありましたが、学生によるIT起業みたいなものが2002~2003年くらいに盛んになってきていたこともあり、ITを使って仕事をつくればいいんじゃないかということを、3か月のプランニングの段階で考えるようになりました。
 一方で、現地に渡って調査するにしても活動費が必要ですから、なにか収益のエンジンを持たなければいけないんじゃないかという話もあって。現地に仕事をつくりながら、活動費にあてる収益をもたらせるものって何だろうね、と考える中で、当時ITを選んだんですね。
 どちらかというと、資本がないからという理由が大きくて、僕たちがITになにか強みをもっていたわけではなかったんですけどね。僕が多少パソコンが得意だったくらい(笑)。
 
――資本がそんなに大きくはかからないとは言っても、パソコンなどのIT機器を準備する初期投資はかかりますよね? また、現地の人はどのくらいITリテラシーがあったのでしょうか。
 
青木:まずは日本側で仕事を企業から請けてちゃんと回せるようになりましょうということで、最初は日本側でIT事業を始めたんですね。同時にカンボジアの孤児院でパソコン教室を始めたんですが、実は、そのふたつは結局接続していないんです。
 日本でのIT事業とカンボジアでのパソコン教室事業というのは、接続する予定でどちらも始めたものの、接続する前に現地での活動を孤児院から農村に切り替えてしまったので。
 だから日本で、日本の学生や僕が、かものはしプロジェクトとしてIT事業でお金を稼いでいました、というのが「結果として起きたこと」ですね。かものはしは最初6年間くらいはそれで活動費をつくっていたんです。
 
――いまはかなり寄付を集められていると思うんですが、最初は寄付より事業収益で活動費を賄われていたんですか?
 
青木:活動開始当初はやはり寄付は集まらないですからね。2008年くらいまでは、メジャーな収入源はITだったんです。
 
――それは、なぜやめられたんですか? IT事業や孤児院でのパソコン教室が直接ミッションに結びつかなかったということはもちろんあると思いますが、稼げる事業をひとつ持っていて、そこであげた収益をお金にならない事業の活動費に回すというのは、とても安定的なモデルだと思うのですが。
 
青木:その「稼げる」という観点からも、ITの賞味期限が来ていたんです。ITにもいろいろ変遷がありましたけど、僕たちがやっていたWebの一部をつくる作業も賞味期限が来はじめていた。今後もIT事業を続けるのであれば、当然儲かる領域に事業をシフトしたり、技術を高度化したり、なにかしていかなければいけないわけですよね。
 という中で、ミッションとつながらなくなってしまったIT事業の改革に注力するよりも、当時集まりつつあった個人からの寄付をあつめることに全力で集中したほうがいい、という判断をしたんです。ありがたいことにそういう時期だった。
 ITの最後の時期というのは、別の人に仕事を渡して僕自身はカンボジアに行っていたということもあり、わざわざITでもう一回事業を作り直そうという人がいなかったということもあったと思います。
 
――それまでと同じようにIT事業を収益の柱としていくためには、内容も高度化していく必要があって、そのための人材育成の手間やコストを考えると、そこに投資していくのも、ミッションと合ってもいないのに変だな、というような感じになったわけですね。
 並行して支援対象を孤児院から農村に切り替えられたのは、どのような経緯があったのですか?
 
青木:2004年に初めてカンボジアに事務所を開くことになり、駐在員を二人雇って、最初は村田も一緒に行ったんですけど、現地の孤児院でパソコン教室を始めたんです。それはそれで、孤児院からは喜ばれて、ニーズはあって、身に着けたスキルを生かして進学や就職するような人もいたんですけど、現地で実際に事業をしながら感じる感覚と、最初学生のときに調査したものっていうのは、情報量というか、ものが違ったとでもいうんでしょうか。ギャップがあったんですね。「これはこれで社会的に意義があるけれど、この事業では僕たちが本来目指している予防とは遠いから、子どもが売られるという問題を解決したいのであれば農村に行くべきだ」という意見が現地の駐在員から出てきたんです。
 もう一度調査・分析をしてみたら、子どもが売られるという問題の背景には、農村部の貧困があった。「いい仕事があるよ」と騙されて売られてくる農村の最貧困層の家庭の子どもが圧倒的に多かったんです。それで話し合いを重ねて、ターゲットを孤児院から農村に変更したということがありました。

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コミュニティファクトリーで生産されているコースター

――そうして農村で始められたのが、農村の女性の皆さんが生産した商品をカンボジア土産として販売する、コミュニティファクトリー事業ですね。農村の女性ということですから、もともと農業をされていたのではないかと思うのですが、そこで農業の強化ではなく、お土産づくりという新しい仕事をつくることにされたのはなぜですか?
 
青木:3つ理由があって、ひとつは僕たちに農業の強みがなかったことです。専門知識などの強みをもって農業の支援をしている団体さんはほかにもあったので、うちがわざわざやる意味があるのかという問題がまずひとつ。
 それ以上に大きかったのは、僕たちがターゲットとするような最貧困家庭の方は、土地を持っていないということです。どんなに収益性や生産性の向上施策を考えても、土地を持っていない人々の収入にはつながらない。だから農業の技術向上や農産品の加工といったことは、僕たちにとってそんなに大きな選択肢ではなかった。
 もうひとつはマーケットの問題でした。たとえば有機野菜をつくりましょうといっても、カンボジアに有機野菜のマーケットはなかった。やっぱりツーリストのほうがマーケットとして魅力的だったので、ツーリストに対して売れるものをということで、お土産品となるハンディクラフトに踏み切ったというところがありますね。
 
――いぐさを材料としたものづくりを選ばれたのは?
 
青木:最初はI love Cambodiaっていうブランドで始めたんですけど、始めるにあたって、マーケティングのようなことをやりました。いぐさでつくることにしたのは、まず対象とする女の子たちは、働いた経験もあまりなく、小学校も途中でやめている子が多かったので、彼女たちが覚えやすい、シンプルな作業が多いものにしたいと思ったことがひとつ。シルクとかを材料にすると、工程が難しくなってしまうんです。長い目で職人育成をやるというのもひとつの価値だと思いますが、かものはしの活動には合わないので、3か月から半年あればある程度トレーニングが終えられるような、シンプルにやれるものがいいよねと。また、当時そんなに競合が多くなかったということもあります。
 
――コミュニティファクトリーでつくった商品は、どんな層を対象に売られているのですか?
 
青木:アンコールワット目当てに来るツーリスト向けです。現地のお土産として。いまでもマジョリティはそこです。
 自分たちの工場を始めたのは2008年ですが、コミュニティファクトリー事業が動き始めた2006年頃は、観光産業は伸びつつあったのに、お土産をつくっているようなところはほとんどなかったんです。カンボジアで売っているお土産の8割は海外製という状態(笑)。
 
――お土産物あるあるですね(笑)。
 
青木:中国とか、マレーシアやベトナムからお土産を買ってきて、それっぽいものを並べておくっていう(笑)。ツーリストにはそんなにわからないですからね。日本でもそういうことはありますよね。温泉地のお土産だけど、別にその地域でつくっているわけではないものとか。
 絶望的にカンボジアにものづくりの能力がなくて、買ってきたほうが安いという状況だったからなんですけど。

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――いま、コミュニティファクトリーで働いているのは、どんな方々ですか?
 
青木:農村の最貧困層の家庭から、16歳から22~3歳の女性を中心に採用するようにしています。シングルマザーの方を採用したこともありますし、家族がいて、お姉さんだったりお母さんだったりといった方が多いですね。
 
――たとえば貧困が理由で売られるとか、だまされて連れて来られるといった場合に、被害者となる子どもの家族には、父親、男性も含まれますよね。男性に向けてというのは、とくにアプローチはされていないんですか?
 
青木:うちは女性だけです。
 理由はいくつかあるのですが、あんまり偏ると問題なんですけど、開発の現場ではよくある話で、基本的に女性が収入をもったときのほうが、家族全体が裨益する率がすごく高まるんです。男性が収入をもった場合は、ギャンブルとか自分向けに使ってしまう可能性がすごく高い。かものはしとして、その人の収入を支えるだけでなく、その弟さん、妹さんが学校に行けるようにしたいということを考えたときに、女性が収入をもてるようにしたほうがいいということがありました。
 また、男性は肉体労働ができるので、女性よりも仕事があるんですよね。一方で女性のほうが家族の傍にいたがるので、農村での暮らしを続けながらできる仕事が必要とされていたこと、コミュニティファクトリーで扱うハンディクラフトのようなものは、伝統的に女性が取り組むものとされていたこともあって、女性に絞っています。
 
――男性で働かせてほしいと言ってくる人はいないんですか?
 
:自分たちで応募してくるようなことはないですね。こちらが女性しか採用しないと明確に打ち出してやってきたこともあると思いますけど。また、働きたい人の公募はしていないんです。コミュニティファクトリーのスタッフは、ワークショップを開いて採用するというスタイルをとっています。
 
――ワークショップというのは、どんな方向けにどんな内容のものを?
 
青木:けっこう厳しい基準を設けているのですが、最貧困層の方で、とくに家庭に困難を抱えているような方だけを対象としています。ですが、まずその特定にコストがかかるんですよね。僕たちだけだと農村の情報をぜんぶ持っているわけではないので、村長さんとかコミュニティの市長さんみたいな人と連携して、まずはそちらで貧困家庭をある程度洗ってもらって、その人たちを呼んで、本当に彼らに仕事を提供すべきかどうかを判断する。
 口コミの場合もありますが、そうやって対象となる方を特定したら、「こういう工場でこういう学びや収入が得られますよ」という話をして、応募してくれた方には、家庭訪問を行います。ひとつの家庭につき1~2時間かけて、丁寧にヒアリングして、持っている土地の大きさや資産、収入と支出といったものを全部チェックして、基準に当てはまる人から採用するという感じです。
 
――これまで述べ何名くらい採用されたんですか? 常に何名くらいいて、卒業された方はどのくらい?
 
青木:今は常時だいたい65名から70名くらいの人が、フルタイムで働いてくれています。100人くらいこれまで卒業していると思うので、述べだと170名くらいですね。
 
――卒業されていく方というのは、工場で働くことで得た収入で自立して、次のステップに行かれるんですか?
 
青木:いろんなタイプがあって、これまでは自分で就職先を見つけてきて、卒業していく人が多かったです。スタッフと、大丈夫なのか、本当にちゃんとやっていけるのかということを、進路相談みたいな感じで相談したりして。あとは結婚してやめていく人も多かったですね。
 最近は卒業支援にも力を入れ始めたので、次のステップへという感覚も強くなってきているように思います。
 
――一回辞めて、戻ってくるようなことはないんですか?
 
青木:ありますよ。
 
――コミュニティファクトリー以外ではなかなか厳しい、と。
 
青木:コミュニティファクトリーだと農村の近くにあるので、家族の面倒を見ながら、家族と一緒に過ごしながら、安定的に収入が得られますが、そういう仕事はほかにほとんどありませんから。
 卒業支援を始めたいまとなっても、ちょっと心折れて、ということもありますね。ただ、これもけっこう難しいんですよね。そういう人たちを受け入れOKにしてしまうと、出たり戻ったりすればいいじゃないか、というふうになってしまいかねないので。
 
――最貧困層に絞って支援をすることで、だんだん格差が埋まっていくのかなと思うんですが、同じ農村の中でも最貧困層としてかものはしの支援対象になる人と、そうならないくらいに稼げる人の差があるのは、土地の有無に起因する部分が大きいのですか? どのような要因でそうした格差が生まれてくるのでしょうか。
 
青木:土地はやっぱりひとつの大きな要因としてありますよね。土地があれば、年間を通して食糧が手に入るし、レジリエンスというか、なにかあったときにも、土地を売ったりすればどうにかなるという部分があります。土地がない人だと、たとえば病気になって手術しなければならないとなった場合、借金をするしかない。借金生活に入ると抜け出すことは非常に困難です。だから土地というのがまずひとつ大きな要素です。
 もうひとつは、家庭環境ですね。兄弟の中で元気な人たちが多くて、お兄ちゃんが出稼ぎをして、ちゃんと定期的にお金を送ってくれるというような家庭だったら、収入がけっこう安定します。ほかの成功パターンとしては、土地は持っていないけれど、豚や牛、鶏を飼っていて、それを丁寧に管理して利益をちょっとずつ出しています、というような家庭もあります。そういうことができるような賢さというか生活力、僕たちはライフスキルと呼んでいるんですが、それがあるかどうかに分岐点があって、ライフスキルがある家庭は収入が安定するので、中学校卒業とか、なんなら高校進学も視野に入れられる。
 農村内での格差は、そうした条件の違いの積み重ねの結果だと思います。
 
――コミュニティファクトリーでは、商品の生産だけでなく、そうしたライフスキルのトレーニングにも取り組まれているんですね。
 
青木:かものはしではただお金を稼ぐだけではなくて、ものづくりを通した学びを大切にしていて、問題解決のトレーニングやクメール語の読み書きに、工場にいる時間の2割ほどを充てています。
 この前採用した女の子は、12歳で小学校をやめて、隣の県に出稼ぎに行って、橋の建設現場で働いていたんですね。15歳になったとき、コミュニティファクトリーの存在を知って応募してきてくれたんですが、うちで働く方が、実は収入は減るんですよ。橋をつくっているほうが稼げる。だけど、橋の建造はものすごくハードな肉体労働だし、学びがないって言うんですね。その子は12歳まで小学校に行っているので、だいたい読み書きはできましたが、流暢ではなかったし、キャリアプランなんて誰も立ててくれない。コミュニティファクトリーではまさにこの1年半くらい、そうしたトレーニングにすごく力を入れています。
(第二回「カンボジア支援の終了とコミュニティファクトリーの独立」へ続く)
 
青木 健太(あおき けんた)*2002年、東京大学在学中に、「子どもが売られない世界をつくる」ことを目指し、村田早耶香氏、本木恵介氏とともに「かものはしプロジェクト」を立ち上げる。IT事業部にて資金調達を担当した後、2008年よりカンボジアに駐在し、コミュニティファクトリー事業を担当。
 
【写真:長谷川博一】

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