子どもたちが主体的に学べる居場所を

NPO法人東京シューレ 理事長 奥地圭子

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東京シューレ内部

「変える人」No.9では、日本のフリースクール設立の草分け的存在である奥地圭子さんをご紹介します。
 
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フリースクールとはどんなところか
 
 東京都北区に本部を置く東京シューレ。不登校という選択をした子どもたちが集まるフリースクールだ。来年で創立30周年を迎える。
 
「学校の外に、子どもの学びの場、成長の場、居場所がいるなって思ったんです。私自身の子どもの不登校から学んだこともあり、22年間務めた教師の仕事を辞めて、フリースクール『東京シューレ』を立ち上げました」
 
 「フリースクール」という名称は知っていても、学校や学習塾とどう違うのか、詳しくは知らない人も多いだろう。
 
「ひとことで言えば、学校外にある子どもたちの学び場、居場所。1992年からは、フリースクールに通った日数を学校の出席日数としてカウントすることが認められています。そうして通うこと自体は認められていますが、学校との違いはいろいろあります。卒業・進級させられないとか、公的な支援がないとか。フリースクールでは卒業させられないので、子どもたちは在籍している学校を卒業することになるんです」
 
 東京シューレでは、来てなにをするのかは、子どもたちが自分で決めることになっている。その子に合ったやり方は、それぞれ違うと考えるからだ。
 
「今日はお花見をする予定だったんだけど、この雨でしょう。室内でごはんを食べるだけになっちゃったから、子どもたち、あんまり来ないんじゃないかしら」
 
 奥地さんはなにげないふうに言ったが、「来ない」という選択肢も子どもたちに認められているのも、東京シューレの大きな特徴だ。

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漫画や本のたくさん置かれた日当たりのよい部屋

子どもとともにつくる東京シューレ
 
 たくさんの漫画や本が詰まった本棚が、カーペットの敷かれた部屋をぐるりと取り囲む。片隅にはピアノやギターが置かれ、壁際の棚には、さまざまなボードゲームが積まれているのも見える。ここに通う子どもたちは、どのように日常を過ごしているのだろうか。
 
「ふだんは時間割に沿って授業や講座を開いています。時間割はミーティングで設定したもの。どんな学習をしたいのか、どんな講師を呼んでほしいのか、子どもたちで話し合って決めるんです」
 
 東京シューレでの学習はすべて、子どもたちがなにをやりたいのか、どんな時間が欲しいのか、どんな過ごし方をしたいのかに基づいて、子どもたちがみずから決める。教科ごとの学習の時間もあれば、音楽やスポーツ、料理の時間もある。
 
「それをやりたいっていう子がひとりだけなら個別に対応するんですが、何人かいれば講座にします。その中から、自分が参加したいものを選んで参加するんです」
 
 さまざまに用意されているプログラムに「参加しない」という選択もある。東京シューレに初めてやってきた親には、時間割の説明とともに、そのことを必ず子どもに伝えるようにお願いしているという。
 
「でないと、『これが時間割だって』と言われると、だいたいの子どもたちは『これを全部こなすのか』と思ってしまいますから。学校のやり方が合わなくて学校と距離をとったのに、別の場所でまた同じようなやり方をしていたら意味がないですよね」
 
 学習プログラムだけでなく、合宿や旅行、周年祭のステージパフォーマンスなどのイベントもミーティングで決められる。子どもたち自身で発案し、計画を立てて、ユーラシア大陸横断旅行を実現したこともあるという。
 
「東京シューレのルールも、子どもたちがミーティングでつくっているんです。議長は子どもで、議題は誰がなにを出してもいいことになっています」
 
 状況に応じて、必要なルールは変わっていく。たとえば楽器の練習をしたい子どもと静かに読書をしたい子どもがいる場合、限られた空間の中でどう棲み分けるかを、子どもたち自身で考え、話し合う。
 
「時間で区切ったり、部屋を分けてみたりするんですけど、しばらくはうまくいってもやっぱりまた問題が出てきたりして。そうしたらまたみんなで考え直して、違うやり方を試してみるんです。なぜそのルールが必要なのか、子どもたち自身がわかって設定していますから、学校のように出来あがった校則があって、入学したら一方的に守れって言われるのとは全然違うと思います」
 
 東京シューレは、大人が与える場所ではなく、子どもとともにつくる場所。「子ども中心」のその原則は徹底されている。

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NPO東京シューレ 理事長 奥地圭子

「先生、怒ればいいじゃないか」
 
 「子ども中心」の奥地さんの考え方の素地は、22年におよぶ教師時代の実践で培われてきたものでもあった。中学生のときに『二十四の瞳』に感動し、教師を志したという奥地さん。新任教師の頃は授業がうまくいかないこともあったという。
 
「授業がはじまって15分も経つと、子どもたちががやがやしてきて、後ろを向いて消しゴムを飛ばしたりしているんです。どうしようかなって困っていたら、ひとりの子が私のほうを振り返って言うんですよ。『先生、怒ればいいじゃないか。前の先生だってそうだったよ』って。そんなこと言われたら、よけい怒れないじゃないですか」
 
 怒って静かにさせて行う授業では意味がない。子どもの視点に立ち、どうしたら興味がもてるか、どうしたら一緒に考えられるか、授業研究を重ねた。
 
「私が教師になったころはちょうど民間教育運動が盛んで、私もいろんな研究会にせっせと参加していました。自分の授業をテープに録って、テープ起こしをして、研究会に持って行って、先輩方にアドバイスをもらうんです」
 
 そうして授業を変えていくと、子どもたちが生き生きとしてくる様子が手に取るようにわかり、とても楽しかったという。
 
「社会の歴史で縄文時代から始めようとしても、子どもたちはその前がどうだったのか知りたいんですよね。そういう興味が大事だなと私は思っていたので、自然史の学習をしたりして。恐竜の大きさを体感するために、2階から子どもたちが出す指示に従って、別の子どもたちが校庭にやかんの水で恐竜を描いたりもしました」
 
 惹きつける授業をすれば、子どもたちの目は輝き、もっと学びたいという意欲も出てくる。そんな充実した教師生活を送っていた奥地さんが、教育に携わる場をフリースクールへと移すことになったのは、なぜだったのだろうか。

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大人が描く理想像が子どもを苦しめる
 
 奥地さんが22年間務めた公立小学校の教師の仕事を辞め、雑居ビルの一室を借りて東京シューレを始めたのは、1985年のことだった。それぞれの理由で、学校に行けない、あるいは行かない子どもたち。当時は「登校拒否」と呼ばれていた。
 
「学校へ行かないのは怠けだとか病気だとか言われて。学校へ行ける子がまともで、行けない子はどこかおかしい。そんな考え方が社会にあって、学校へ行かない子も、その親も苦しんでいました」
 
 そんな中で奥地さん自身も不登校に悩むことになる。
 
「1978年に長男が不登校をしたんです。実は当時は私も、不登校は“治す”ものだと思っていました。子どもは学校へ行かなければならないと信じていたんですね。でも、ある児童精神科医との出会いがきっかけで、いかに自分が学校を絶対視する価値観に染まっていたのかに気づかされました。ありのままの子どもを、受け入れてあげられていなかったんですよね」
 
 ほとんどすべての親、あるいは大人は、無意識に子どもの「あるべき姿」を決めつけている。理想の子ども像を描き、子どもをそこに近づけることが大人の役割だと思っていると、奥地さんは自身の反省を踏まえて指摘する。
 
「そんな理想像なんて大人が勝手につくったものでしかなくて、子どもたちのニーズとは違う場合も多い。なのに『みんなそうできているのに、なんでこの子だけ』と、大人たちも必死になる。そうすると、子どもは健気だから、親や先生の期待に応えなければと思って、もう必死になったり、理想の子どもを演じたりしますよね」
 
 だが、それが自分の望むものと違ったり、合っていないと、子どもたちは非常に苦しい思いをすることになる。親や先生の期待に応えられなくなったとき、「自分はだめな子だ」と罪悪感や自己否定感に苛まれ、その苦しみが不登校や暴力といったかたちで表れてくることさえある。
 
「毎日学校に行って、しっかり勉強していい点数をとって、なるべくいい学校に進学してっていう生き方を目指すことが、大人も子どもも常識みたいになっていますよね。そうじゃなくて、その子にはその子の個性があることを認め、その子が生き生きするにはどうしたらいいのか考えるのが、ほんとうの教育なんじゃないでしょうか」
 
 その気づきから、東京シューレに先駆けて1984年に誕生したのが、「登校拒否を考える会」、通称「親の会」。
 
「当時は『親の育て方が悪いから子どもが不登校になるんだ』なんて言われて、子どもばかりでなく親も辛い思いをしていたんです。そうした悩みを持つ親同士が支え合い、子どもに対する理解を深め、受け止めるための会をつくったんです」

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学校の外で教育の場をつくる仕事
 
 悩みを共有し合い、子どもの気持ちへの理解を深めた親たちが、わが子の不登校を受け止められるようになると、子どもたちも楽になってくる。
 
「そうすると、登校拒否を考える会に、親と一緒に出席する子どもたちも出てきました。そのうち、子どもたちがいつでも行ける場所が欲しいという声があがるようになってきて」
 
 そうした声の高まりを受け、奥地さんは教職を辞して、「学校外の子どもたちの居場所」をつくる決意をする。
 
「それまではずっと、学校を変えようと思っていた。だけど、学校を変えるスピードよりも、子どもたちが苦しい状態に追い込まれるスピードのほうが速いと感じたんです。だからやっぱり、学校の外に子どもたちを支えるものがいると思いました」
 
 70年代から80年代は校内暴力やいじめが多発し、校内の教室移動でさえ担任が先頭で誘導するよう指示が出るなど、学校側が管理体制を強めた時期でもあった。そうした学校への違和感がピークに達していたことも、いつ踏み出そうかと迷っていた奥地さんの背中を押した。だが、同じ志をもつ教師やPTAで活動している仲間たちからは、それは逃げではないかと言われ、議論にもなったという。
 
「だから私、言ったの。学校の中で学校を変えようとしている人はいるけれど、学校の外で教育の場をつくる取り組みはほとんどないじゃないかって。学校が絶対化してしまって子どもが苦しんでいるんだから、私はそっちをやる。結局は同じ仕事でしょう?って」
 
 こうして奥地さんは学校を飛び出し、親の会の会員のサポートのもと、日本のフリースクールの草分け的存在である「東京シューレ」が産声をあげた。

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やりたくないことは身につかない
 
 東京シューレ立ち上げ当初は新しい発見や気づきの連続で、反省することも多かったという。
 
「教師時代、私は学校の枠組みの中では“子どもとともに派”だったんですけど、東京シューレで子どもたちといろんなことに取り組んでいく中で、ほんとうの意味で子どもの立場に立っていなかったんだということに気づかされました」
 
 学校の教師は子どもに対して権力を持ち、上からなんとか子どもを教育しようとする。子どもたち一人ひとりを尊重したいと考えていた奥地さんでさえも、そうした学校の価値観に染まっていた部分があることに気づかされたという。
 
「心細い資金の中から費用を捻出して講師を呼んで講座をしているのに、参加しない子どもがいたりすると、どうしても気になってしまって。一回でやめておけばいいものを、何度も何度も『一緒にやらない?』と誘って、『奥地さんはしつこいなあ、元学校の先生だからね』なんて言われたりして(笑)。学校の教師って、ひとりも取りこぼさないように授業をするように努めていますから、輪に入ろうとしない子どもがいると、違和感をもってしまうんですよね」
 
 そうした文化の中で育ってきているため、新しく入ってきたスタッフも、そうした場面に出会うと、たいていは違和感をもっているようだと奥地さんは言う。慣れるまでに、だいたい2年はかかるそうだ。
 
「だけど、子どもがほんとうにやりたくなればやるようになるし、そうでなければむりやりやらせても身につかない。やっぱりそのときのその子を尊重するっていうことが大事ですよね」
 
 たっぷり休んで充電し、自らやる気になったときの子どもたちの学ぶエネルギーは目を見張るものがある。信じて待つことが必要なのだ。

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シューレを支えてきたふたつの「つ」
 
 まもなく30年周年を迎えようとしている東京シューレ。さまざまな苦労を乗り越え、ここまで活動を続けてこられた原動力はなんだったのだろうか。
 
「25周年を迎えたときに、なにが活動の軸なのかなって自分でも考えたんですけど、ふたつの『つ』なんですよね。ひとつめは『つくりだす』の『つ』」
 
 東京シューレは常に新しいものを創り出している。フリースクール、ホームシューレ、不登校新聞、フリースクール全国ネットワーク。さまざまなものを「つくりだす」楽しさが原動力のひとつ。
 
「もうひとつは『つながる』の『つ』。子どもとつながる。親とつながる。親の会や全国のフリースクールとネットワークをつくったりして活動していけば、どんどん新しい人とつながっていきますから。それを大人だけじゃなくて子どもと一緒にやるのがね、ますますおもしろいんですよ」
 
 この「つくる」「つながる」楽しさの中で、子どもたちが大きく変わるのを、奥地さんは見守ってきた。
 
「不登校は困るとか甘えとか、世間ではマイナスに見る人が多いんですけど、それは学校というひとつの環境の中でそうだっただけ。ほんとうに自分が認められる空間で安心できてくると、子どもが変わっていくのが目に見えてわかるんですよ」
 
 社会の常識とは違うことを言ったりやったりすることになったが、理解を広げていくプロセスは、手ごたえがあっておもしろいのだと、奥地さんは言う。
 
「一日も同じ日はなかったし、困ることもいっぱいあったけど、それをどうしたらいいのかみんなで一緒に考えたり、やってみたりすることで、次の展開が見えてくる。そうやってここまで来ました」
 
 そのときそのときで必要なことを考え、やってきた結果、いま取り組んでいるのは、子どもたちに多様な学びの機会を保障するための法律の実現に向けた活動だ。(第二回「受けたい教育を選べるしくみに」へ続く)
 
奥地圭子(おくちけいこ)*1941年東京生まれ、広島育ち。横浜国立大学卒業後、22年にわたり公立小学校の教師を務める。1984年に「登校拒否を考える会」通称「親の会」を立ち上げ、翌1985年に教師を退職、東京シューレを立ち上げる。
 
【取材・構成:亀田徹(PHP総研)】
【写真:shu tokonami】

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