子どもたちが主体的に学べる居場所を
学校の外で教育の場をつくる仕事
悩みを共有し合い、子どもの気持ちへの理解を深めた親たちが、わが子の不登校を受け止められるようになると、子どもたちも楽になってくる。
「そうすると、登校拒否を考える会に、親と一緒に出席する子どもたちも出てきました。そのうち、子どもたちがいつでも行ける場所が欲しいという声があがるようになってきて」
そうした声の高まりを受け、奥地さんは教職を辞して、「学校外の子どもたちの居場所」をつくる決意をする。
「それまではずっと、学校を変えようと思っていた。だけど、学校を変えるスピードよりも、子どもたちが苦しい状態に追い込まれるスピードのほうが速いと感じたんです。だからやっぱり、学校の外に子どもたちを支えるものがいると思いました」
70年代から80年代は校内暴力やいじめが多発し、校内の教室移動でさえ担任が先頭で誘導するよう指示が出るなど、学校側が管理体制を強めた時期でもあった。そうした学校への違和感がピークに達していたことも、いつ踏み出そうかと迷っていた奥地さんの背中を押した。だが、同じ志をもつ教師やPTAで活動している仲間たちからは、それは逃げではないかと言われ、議論にもなったという。
「だから私、言ったの。学校の中で学校を変えようとしている人はいるけれど、学校の外で教育の場をつくる取り組みはほとんどないじゃないかって。学校が絶対化してしまって子どもが苦しんでいるんだから、私はそっちをやる。結局は同じ仕事でしょう?って」
こうして奥地さんは学校を飛び出し、親の会の会員のサポートのもと、日本のフリースクールの草分け的存在である「東京シューレ」が産声をあげた。