「地元から出ていた人間」の強みを生かして

NPO桜ライン311 岡本翔馬

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高田大隅つどいの丘商店街にあるSAVE TAKATAの事務所(2013.10.22撮影)

岡本翔馬さんのインタビュー第1回はこちら:「誰もいないなら、自分がやるしかない
 
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支援者と避難所をつなぐハブの役割を
 
 岡本さんが会社を辞めて陸前高田に帰った5月末には、被災地の状況も必要とされる支援も、震災直後とは変わっているところが多かった。
 
「震災直後の3月には、生鮮食品や冷凍食品を支援物資として受け取っても、保存できる場所がなかったんです。一中は電気の復旧は早かったけど、3月には冷蔵庫なんてなかった。だから理科室に断熱シートをはりめぐらしてむりやり冷蔵室にしたりしていたんですが、5月末には業務用の冷蔵庫も入っていました」
 
 だが、それはあくまで高田一中の話。市内の周辺部では5月末になっても依然として電気が通らず、3月と状況があまり変わっていない避難所もあった。
 
「ただ、ものに関してはある程度行き渡ったかな、という状況でした。必要なものって刻々と変わるんですよね。最初はやっぱり食糧系。それが落ち着いてくると医療系とか」
 
 食糧や医療が整ってくると、やや嗜好品よりの生活用品も求められるようになってくる。そのサイクルは早いものだと4~5日で変わるという。
 
「僕が5月末に帰ったときは、発災から2か月弱が経過して、だいぶ生活は安定してきたと感じました。慣れもあったでしょうね。ただし、先の見えない避難生活からくるストレスは、3月より明らかに高くなっていました」
 
 陸前高田に帰ってきた岡本さんが真っ先に取り組んだのは、支援者と避難所のコーディネートだった。テレビの避難所中継が一中に集中していたので、物資ばかりでなく支援者も一中に集中していた。
 
「支援に来ていただけるのはもちろんありがたいんですけど、あまりにも多いのですべて受け入れることはできない。だから、あるところで断らなくてはいけなくなるじゃないですか。そうすると、支援の手がなかなか届かない避難所では、『なんか一中は支援を断っているらしいよ』なんて話が広がって。悪循環です」
 
 そこで、岡本さんたちは支援者と避難所のハブの役割を担えないかと考えた。

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陸前高田市内の様子(2013.10.22撮影)

避難所の事情にあった支援者を
 
 例えば炊き出しを申し出る支援者がいたら、どれだけの提供が可能かヒアリングするところから仕事は始まる。
 
「何人分くらいを想定しているのか、炊き出しに必要な資材は一式そろっているのか、どんなメニューを考えているのか、調理スタッフは何人いるのかといったことを、それぞれの支援者から聞き取るんです」
 
 次に、ヒアリングの結果を踏まえて、支援者を最適な避難所に振り分けていく。
 
「100人の避難所なら、100人分の資材を持っている支援者に行ってもらうのがいちばんいいですよね。50人分送り込んでも、50人は食べられないんじゃしょうがないし、持てる能力を最大限発揮できないところに割り当ててももったいないだけですから」
 
 市内に点在するさまざまな規模の避難所を把握し、「今回の支援者は、この避難所に」と割り振りを判断する。だが、避難所の条件は、避難者の人数だけではない。
 
「その頃は学校や公民館などが避難所になっていたんですが、調理器具の揃い方もまちまちだったんです。一中のように早い段階で冷蔵庫やガスコンロがそろった学校もあれば、なにひとつ持っていない避難所もある。そういうところには、炊き出しに必要な道具を一式持っている支援者をあてないといけないんですよね」
 
 マッチングと言葉にすると簡単だが、日々移り変わる避難所の事情を把握しながら、お互いのニーズに見合った支援となるようつなぐのは骨の折れる仕事だった。

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NPO桜ライン311 代表 岡本翔翔馬

地元民だけど、被災者じゃない
 
 支援者に対してヒアリングをすることは、被災者の思いを代弁することでもあった。
 
「支援に入ってきてくれる人たちに、『食材は何人分用意してますか』『どういう支援ができますか』と、率直に聞くようなことは被災者にはできないんですよ。やっぱり、自分たちのために『来てもらっている』という感覚が強いですから」
 
 そういったことは、やはり地元の人間ではない方がうまくやれるのではないかと思った。
 
「だけど、完全に外の人間だと、今度は避難所とうまく交渉できない場合があります。陸前高田の中でも、そのあたりがちょっと難しい地域もある。そういう意味では、一旦外に出て帰ってきた僕はちょうどいい立ち位置にいて、やれることはたくさんあると感じました」
 
 完全な被災者でもなく、完全な第三者でもない。その微妙な立ち位置が、逆にとてもうまく作用した。同郷同士の共感が被災者と話をするときの風通しをよくし、外に出ていた経験がよけいなしがらみに縛られず動けるようにしてくれた。
 
「家族や友達が苦しんでいる地元に支援に向かいたいけど、自分自身にも家族や生活があって、やりたいけどやれない、という人たちの思いを背負っている感じも、正直ありました」
 
 動きたいと思いながら動けない人も多かった中、きっぱり仕事を辞めて地元に戻るのは、相当な覚悟を要する決断だったはずだ。
 
「そんなに大したことじゃないんですよね。やらないで後悔するよりは、やって後悔したいじゃないですか。引き返せばよかったかな、って思うところももちろんあります。でも、たとえばもう一回過去を選べるとしたら、それでも100%帰ってくるでしょうね。今から思えば、もっとうまくやれると思うし、やりたいこともたくさんありますから」
 
 飄々としながらも、岡本さんの思いにブレるところはない。

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地元の人々の発案で始まった桜ライン311(写真提供:NPO桜ライン311)

住民自らが考える地域の未来
 
 こうして始まった「SAVE TAKATA」の活動。この取り組みを礎に、次の展開として岡本さんが現在取り組んでいるのが、「桜ライン311」の活動だ。
 
「米崎町の仮設住宅の自治会長をやっている佐藤一男さんから、相談したいことがあると呼ばれたんです。そこで桜ラインの原型になる話をしてもらって」
 
 佐藤さんは、現在桜ライン311の副代表を務めている。緊急支援から、陸前高田市の「これから」を考えるプロジェクトへの節目だった。
 
「実は僕、すごくうれしかったんです。当時、支援と言えば外部の人による緊急支援的なものばかりでした。そんな中で、地元の方から、地域の復興とか、町のこれからを考えた取り組みが生まれようとしていたんですから」
 
 NPOなど外部から来た人々が中心となって取り組んでいる復興支援活動を、地元の人たちで担う復興活動にしていく。その受け皿のモデルになっていきたいと、岡本さんは考えている。
 
「陸前高田市の津波の到達地点に桜の木を植えて、後世に残すということをやっています。全長170kmくらいになると計算しているんですが、10mおきに1本くらいの間隔で植えたいと思っています」
 
 トータル1万7,000本の桜並木。この桜並木は何を目的にしているのか。

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津波到達地点に植樹された桜の若木

僕らみたいな思いを、もう誰にもしてほしくない
 
 陸前高田市の津波の犠牲者は1,735人。震災関連死を含めると2,199人にもなる。こんなにも多くの住民が津波の犠牲になってしまったことが悔しいと、岡本さんは言う。
 
「ぜったいもっと少なくてすんだと思うんです。1,100年くらい前に今回と同規模の津波が来ていたっていうことが、震災後の地質調査でわかったんですけど、それをこの町の人たちが知っていたらと思うと、本当に悔しくて」
 
 明治三陸津波、昭和三陸津波の記録は、石碑として市内数か所に残されていた。だが、それが町の人たちの生きた知識にはなっていなかった。岩手県大槌町のコラボ・スクールに通う吉田くんと同じ後悔がつのった。
 
「石碑がだめとは言わないですけど、今後どう伝えていくのか考えることは、残された人間の責務だと思うんです。僕らみたいな思いを、もう誰にもしてほしくない。もし今後似たような災害が起きて、また大勢の人が亡くなるようなことがあったら、僕らの震災の経験がなにひとつ役に立っていないことになる。それだけは何としても避けたいんです」
 
 スイスの再保険会社スイス・リーが2013年9月に発表したレポート「自然災害の脅威にさらされる都市のグローバルランキング」で、東京は「自然災害の影響を受ける人々が多い、世界で最も危険な都市」第一位と、非常に自然災害のリスクの高い都市とされた。
 
「世界的に見ると、日本はちょっと怖くなるくらい災害が多いんですよ、地震やら台風やら。日本に住んでいると、年に数回起きる災害なんて、割とふつうのことだと思ってしまうけれど、そのリスクをちゃんと意識するべきだと思うんです」
 
 耐震や治水の技術がどんなに進んでも、災害自体をゼロにすることはできない。災害が起こること自体はどうしようもないならば、いかに自分たちが受ける被害を減らす努力をするか。その普及・啓発のために、講演で全国各地に赴いている。
 
「咳をしたら手で押さえるじゃないですか。それと同じように、災害があったらこう対応する、ということが、一種の常識のようなレベルで身についていれば、日本の災害による死者って、限りなくゼロに近づけると思うんです」
 
 桜ラインの活動には、様々な願いが込められている。津波到達地点に並ぶ桜の木は、震災の象徴であるとともに、記憶を風化させないための仕掛けでもあるのだ。
(第三回「住民の、住民による、住民のためのまちづくりをめざして」へ続く)
 
岡本翔馬(おかもと しょうま)*1983年、岩手県陸前高田市高田町生まれ。仙台の大学を卒業後、東京で就職。震災を機に陸前高田へUターンすると同時に一般社団法人SAVE TAKATAを立ち上げる。その後NPO法人桜ライン311を立ち上げ、現在は代表を務める。
 
【取材・構成:熊谷哲(PHP総研)】
【写真:shu tokonami】
 

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