シルバー民主主義「論争」を越えて<2>

島澤諭(中部圏社会経済研究所主席研究員)×小黒一正(法政大学教授)×亀井善太郎(PHP総研主席研究員)

 前回の鼎談では、世代会計を用いて、世代間の負担と給付の格差は、①現在世代とまだ生まれていない将来世代の間がもっとも大きい、②現在世代の中にも高齢世代と若い世代の間に格差があることを明らかにした。また、その根拠とされる「シルバー民主主義」と呼ばれるものは、高齢者の政治圧力で世代間の対立を煽るように言われているが、実際は、そうした単純なものではなく、むしろ、そのために具体的な政策手段の思考停止を招く虚構ではないかとの問題提起もされた。さらには、1月に発表された内閣府の中長期の経済財政推計には多くの課題があり、政策議論のベースになりえないという課題も見えてきた。
 2018年は日本の財政の今後にとって重要な節目の年だ。財政健全化、ひいては、世代間の負担の格差をいかに是正していくのか、これからの政治の枠組みの議論が求められる。変えられない政治を変えるために何が必要なのだろうか。
 「変える力」特集No.43後編では、現在、厳しい現実に向きえない日本の政治と社会の問題について、これに詳しい中部圏社会経済研究所主席研究員の島澤諭氏、法政大学教授の小黒一正氏、政策シンクタンクPHP総研主席研究員の亀井善太郎が鼎談を行った。

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1.厳しい現実に向き合えないのはなぜか
 
曖昧なシナリオでも見えてくる厳しい財政の姿
小黒 内閣府の中長期試算については、いろいろ課題はありますが、それでも、日本財政の中長期的な姿を読み取ることはできます。
 例えば、「ドーマー命題」を使って、債務残高の今後を予測することができます。ドーマー命題とは、「名目GDPの成長率が一定の経済で、財政赤字を出し続けても、財政赤字対GDPを一定に保てば、債務残高GDP比の比率は一定値に収束する」というもので、くわしく話すと時間がかかりますので、省略しますが、経済学から得られる知見の一つです。
 名目成長率と財政赤字のGDP比の見通しから、債務残高(対GDP)がどのあたりに収束するかを判断することができ、具体的には、債務残高(対GDP)の水準は、財政赤字(対GDP)の値を名目成長率で割った値に収束することが知られています。
 成長実現ケースというのは、もしかしたらなるかもしれませんが、やはりなかなか非現実的で高い水準だと思いますし、ベースラインケースも、過去のトレンドからは上振れしていますが、まあ、それでも、ベースラインケースの数字を使って計算すると、名目成長率は1.7、財政赤字は3.3%ですので、財政赤字を成長率で割る、つまり、3.3÷1.7で、大体2ですから、債務残高GDP比というのは200%に向かって収束していきます。今とあまり変わらないという前提で、推計を作っていることが見えてきます。
 でも、先ほど申し上げたように、例えば、経済成長率のトレンドは0.3%で、この値と財政赤字3.3%という値を使えば、3.3÷0.3ですから、11という数字になるので、債務残高は、GDP比1100%になってしまうわけです。これは持続可能ではない姿になってしまうわけです。
 前回計算の4.4%というベースラインケースですと、もっと厳しい水準になります。大体1200%を超えるような感じになってしまうことが、ある程度は読み取れます。こういう厳しい数字が出てくるようですと、名目成長率や長期金利などの前提について、もう少し学者やエコノミストが検証できるようなものを出してもらうようにしなければどうにもなりません。
 
厳しい事実を直視しない「ポスト真実」が拡がるのはなぜか
亀井 ご指摘の通りです。厳しい事実をいかに直視するかが問われています。
 先日、ある新聞で、厳しい財政にも関わらず、アカデミアがきちんと声を出していないとの批判がありました。これも「ポスト真実(post-truth)」と言っていいのかどうかわかりませんが、経済政策や財政政策について、経済成長についてはものすごい楽観的な見通しを提示しながら、一方で、財政の将来は見ないとか、もはや財政赤字や巨額の債務なんてものはないとか、科学的な知見によらず、また、具体的な根拠に寄らず、政策に関する発言をする有識者と呼ばれる人たちがいます。
 社会を占める声でいうと、メディアでも、ネット上でも、一定の存在感があって、こういう人たちが、社会はもちろん、政治家に対しても何か影響を及ぼしているようにも感じます。こうした人たちの存在、また、社会を巻き込む現象について、それぞれどうお考えでしょうか。
 
耳ざわりのよい話に飛びつく社会の構造
島澤 政治が中選挙区から小選挙区に替わり、民意の役割というのは相対的に大きくなったというのが最近の状況だと思いますが、そうした下で、政治家が民意に敏感にならざるを得ないという時に、どの民意を拾うかがポイントだと思います。
 もう一つ考えておかねばならないのは、先ほどの議論に戻りますが、やはり日本全体が貧しくなっていて、負担の余力がないことです。
 そういう時に、負担しなくても財政はきれいになります、金融緩和するだけで成長します、増税しないほうが成長するし、財政にとってもよいのだという言説があれば、そっちになびく人たちというのは、ある程度いると思うのです。
 そういう声は、これは実はあまりよい表現ではないかもしれないですが、右にも左にも必ず一定程度いて、政治家が国民に痛みを強いるような政策を提示すると、当然、民意のある程度の層が離反してしまうことになります。特に大きくなっているのは、無党派層と呼ばれる人たちの割合が一番揺れ動くわけです。こういうスイングボーターを政治家が意識すれば、どうしても負担を迫らない安易な政策を提示しがちになってしまいます。
 利害関係に手を突っ込むのではなく、すべての人がうまく果実を受けられるような政策というものになびいてしまうわけです。実際のところ、それは、すべての人ではなく、将来世代のことを忘れているわけですけれどもね。
 問題は、そういう安易な政策を売り歩いている人たち、先ほど、亀井さんが有識者と呼ばれた、この人たちのタイプを分類しますと、官僚経験者、政治家のブレーン経験者、あるいは、有名な大学の先生といった経験や立場を有する人がそうしたことを言うと、実は専門外であっても、まあ、国民も、政治家も、そんなものかと思うと思うんですよね。
 加えて、これは、政府というか、官僚側の問題ですが、先ほどの内閣府の試算ではありませんが、政府の試算を見れば、ちゃんと成長もするんだという数字がポンと出ていて、例えば、消費税引き上げないと財政は破綻するんだ、国債は暴落すると専門家が言っても、そんなこといつまで経っても起きないじゃないかと言われてしまいます。民意が重要になったことの裏返しにエリート層への不信もありますが、エリート層のひとつである学者が負担しなさい、負担しないとだめだと言っても、いままで外れてきたのに、何を言ってるんだ、うまい汁を吸ってきたのはおまえらじゃないかとなると、政治家は、反エリート的な政策に飛びつくというのは、仕方がないとは言えませんが、彼らの置かれた現状としてはあり得るのかなと思います。
 

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2.歴史の転換点にいるという認識の必要性
 
私たちは、いま、歴史の転換点に立っているのではないか
小黒 私は、歴史学者ではありませんが、日本の政治経済には80年周期みたいなものがあるような気がしています。明治維新は1868年。日本は開国して、途中から大陸に出て行き、日露戦争を含めて領土を拡大していくプロセスに入り、是非も含めて、いろんな見方はありましょうが、これでひとつの国家というか社会システムの成長プロセスに入りました。
 ところが、国際政治の枠組みが変わっていくわけですね。日本は後から参入したわけですが、領土の取り合いというのはちがうんじゃないかという声が出て来ます。実際のところ、先に進んでいた英国、米国、フランス等といろいろなところでぶつかるわけです。そうなると、国家の成長プロセスは止まります。
 実は、もっと前の1905年(明治維新から約40年後)、日露戦争に勝った時ぐらいからモデルが変わっていて、変えなければならなかったのに、それを変えられないまま、対中戦争が対米戦争となり、最後(明治維新から約80年後の1945年)に敗戦を迎えたわけです。
 戦後は、キャッチアップ型の経済構造で高度経済成長を実現しましたが、その頂点はプラザ合意の85年(敗戦から約40年後)で、その後は高齢化と人口減少、加えて、最近は貧困化も進み、この三つがトリプルダメージみたいな形になってきています。
 やはり、ここでも、過去の成功のモデルを変えなければいけない状況になっています。前編での話で言えば、国民に負の分配、そのお願いをしなければならなくなっていますが、それができていません。
 1945年からちょうど80年は2025年で、団塊世代が全員75歳以上になる時でもあります。だから、もっと何か深いレベルで、根本的な認識を変えなければいけ状況にもかかわらず、国民も、政治家も、できていませんし、専門家のほうも、もっと深いところを掘って、情報を出していかねばならないのですが、それもできずにいるのです。
 人生100年時代という言葉も、そういうひとつの根本的な認識を変えるキーワードのような気がしますが、それで、根本的な制度改革に手を付けているかといえば、そうはなっていません。
 もっと深いレベルで我々の社会システム全体の構造を変えていかなければいけない状況になっている、自己変革していかなければいけない話になっているにもかかわらず、その警鐘ができておらず、現状追認のような話ばかりが出てきます。それが、社会に対する忖度なのか、自己保身なのか、そこは何とも言えませんが。
 書店を見ても、とりあえずのおカネ儲けの本、それに、あなたはいまのままで大丈夫ですよという本ばかりです。それが売れるのはなぜかと言えば、買う人たちが、それが気持ちよくて、そういうところにはまってしまっているのです。いまのままではいけない、根本のところで意識も、社会構造も変えていかないと、と言っても、それを読む気力もないのですからね。
 ただ、やはり、それではいけないのです。もっと深いレベルで、いまの人口増加を前提にしてきた社会システムではもう無理だということを、社会全体で、きっちり認識していかねばなりません。そのために、専門家はそういうことを書かねばならないし、言っていかねばならないのだと思います。それこそアカデミアの責任なのです。
 
現実を直視しない方に向かうことに加担する官僚、アカデミア、政治家
亀井 専門家と言えば、官僚も、そういうことに対して、自分の機能を活かして、問題提起しなくなったように思います。ひとつの具体的事例は、内閣府の推計ですね。過去の検証をせず、薄い根拠で、将来は大丈夫だと安易に言ってしまうわけですから。
 アカデミアは、いま言っても、あまり支持されないし、叩かれるばかりなので、社会を相手に言うのはやめておこう、身内の学会に集中しよう、みたいな感じになっているように感じます。どちらかというと閉じる方向、閉じる方向へ向かっているように感じます。それでは、社会は本当の危機の正体や構造変化や意識変化の必要性は認識できません。
 
小黒 前回、世代会計の話をした時に、困っている人を中心にして議論するべきだという島澤さんのご指摘、まったくそのとおりだと思います。
 いまの政権でも、そういう意味では、現役世代の困難にも着目して、人づくり改革や子育てとか教育関係に少し力を入れるようにはなってきました。方向性としては悪くないのですが、やはり全世代型の社会保障を目指すのであれば、単に、その人たちへの給付を増やすという安易な方法ではなく、社会保障の全体像をどうしていくのか、また、その前にそうした議論のベースとなる、亀井さんも別のところで言われていますが、社会保障に関する哲学が必要です。そこがまずないと、あるべき方向に議論は進みません。
 
亀井 政治が先か、社会が先か、そこは、鶏か、卵か、どちらが先なのかと言えば、やはり、リーダーである政治家が引き受けなければならないことなんでしょうね。国民に忖度している場合ではありません。次なる時代に一歩踏み出すのが政治家の仕事であり、そうした次なる時代を結晶化した言葉を発するのが政治家の役割でもあります。古代から、政治家の仕事は言葉にすることだったわけですからね。
 言葉が出てきて、あっ、そっちへ行くのかなと社会が思い始めて、だからみんなが言えるようになるというのは、政治家のもっとも重要な仕事のひとつでしょう。
そこが突破できないから、80年周期で、ミゼラブルなところまで落ちないとまた次に進めない、戦争を終えるには御前会議がなければと次に進めなかった過去を繰り返してはいけません。
 
国民は気付いていて、気付いていないのは政治家だけではないか
島澤 最近気になっていることのひとつに、外国人タレントを使って、日本はこんなにすごいんだという話が、テレビやメディアで多くなったことがあります。私は、あれこそ、日本人の自信の無さの裏返しだと思うのです。
 国民の深層心理の中では、日本はもうこのままではだめなんだ、あるいは、もう没落していくんだという認識はできているようにも思えます。どういう言い方が適切かはわかりませんが、要は、国民全体の中で薄々、日本は昔と違うんじゃないかという認識は拡がっているように感じるのです。
 そこで問題なのは、政治家、それもいまの政権を動かしている人たちの年代なんです。彼らは日本が絶好調な時に若い時代を過ごしていて、その時の考え、経験というのが非常に刷り込まれていると思うんですね。そうすると、日本はまだまだ実は大丈夫なんだと、ちょっとやれば成長するんだというのがあるのではないか。その辺の認識のギャップが、いまの状況を生んでいるのではないかなとも思います。
 ですから、成長さえ実現できれば制度を変えなくてもよいのだと、悪いのは、これまで成長を実現できなかった官僚、学者なんだと。
 
亀井 政治が一周遅れになっていて、モラトリアムになっている、こういう認識でしょうか。
 
島澤 そのとおりです。非常に不安定な状況ではありますが、不思議と安定しています。ベストではありませんが、何も動きません。ある種の政治闘争も起きないし、政党内でも政争が起きにくいというのは、そこかもしれません。隘路に入ってしまったような話で恐縮ですが。
 

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3.2018年の政策議論に期待すること
 
亀井 さて、2018年の政治日程を見通してみますと、財政の持続可能性、ひいては、世代間の格差に関する議論が続きます。
 振り返れば、昨年の秋に総選挙がありました。ここで、安倍総理は、かつての三党合意に基づく2019年に予定されている消費税の増税を改めて約束したと同時に、その使い道については、三党合意ではその多くを借金の返済に充てるものでしたが、これを変更し、全世代型の社会保障に向けていくという政権公約を示しました。具体的には、幼児教育の無償化、子育て世代の支援を中心に、若い世代、現役世代に資源を配分していきましょうということです。
 すでに、選挙後の12月8日は「新たな政策パッケージ」として閣議決定され、これから具体化が始まります。先日の経済財政諮問会議でも、そうした方向性に沿って、夏までに次なる経済と財政の運営の枠組みを明示すると表明されました。
 春には日銀総裁の人事、秋には自民党総裁選があり、それが様々な影響を与える可能性もあるでしょう。
 こうした政治日程を考えたときに、ひとつには国会において、これは国民から見える政治の舞台です。もうひとつには、議院内閣制と事前審査が慣例化しているいまの政治体制では実質的な政策決定プロセスである、政府および与党において、どのような議論が行われるべきなのでしょうか。
 
いまの全世代型社会保障は形を変えた補助金行政の継続であり拡大
島澤 全世代型の社会保障というのが、いまの世の中の流れですが、これは、2009年に旧民主党が政権を取った時にさかのぼります。彼らが何をしたかといえば、若い人重視の「子ども手当」をやり、「コンクリートから人へ」というふうに、それまでとは違う、要は、現役世代重視の政策を打ち出して政権を取ったわけです。
 これは、ひとつの政策的なパラダイムチェンジになったというか、イノベーションが起きたと思っていて、要は、若い人も政策をやれば票を投じてくれるということを、おそらく、政治が学習したのだと思います。
 現在も、その流れは続いていて、高齢者の給付はアリバイ的にわずかながら削るふりをして、基本的にはそのままにしておいて、かつ、若い人向けの給付を行っていくようになっています。それが、いまの「全世代型の社会保障」の形なのだと思います。
 ただ、よく見てみると、幼児教育の無償化も、人にもらえるわけではなく、お金は事業者にいきます。大学教育に関しても同じでしょう。
 ですから、全世代型の社会保障と言いつつも、これまでのような企業や事業者への補助金の形は変わりません。けっきょく、補助金行政の継続であり、その拡大なんです。
 
選挙を終えた今こそ、世代間の構造問題に手を付けるべき
 内閣府の骨太方針が本当に「骨太」であれば、そういう形だけの全世代型の社会保障ではなくて、要は、社会保障の問題は、世代間のそもそもの受益、負担のアンバランスという問題がひとつある。これこそ構造改革すべきところです。
 もうひとつは、負担の先送りでいまの社会保障を賄ってるという、この流れを全部そのままにしたまま、改革というのはあり得ません。ですから、もし本当に骨太の方針が骨太であるとすると、そこを議論すべきではないでしょうか。
 今年は選挙がない年ですから、それを議論できる年だと思います。
 
亀井 加えて言えば、診療報酬、介護報酬のダブル改定のような直接の利害調整もちょうど終えたばかりなんですよね。選挙が終わり、直接の利害調整がしばらくないからこそ、長い目で見てやらねばならないことをきちんと問題提起できるものでなければなりません、その基本方針が示されるというのがすごく大事なところです。
 いまの島澤さんのお話は、二つの世代間格差のところでいうところの、結果的には、若い世代の給付が増えるだけで、高齢者の問題は温存したままだということですね。
 あなたたちがもらってるだけではずるいから、おまえたちにもあげるよ、それも供給者ルートで渡して、さらには、その渡した源泉はどこに行っているかといったら、まさに将来世代に行っている、こういう問題を指摘されているわけですね。
 
小黒 まったく同感です。受益と負担の構造を変えて、財政を持続可能にするためには、まず社会保障の改革のところをきっちりしないいけません。
 そういう心づもりは、政府の文書から若干は読み取ることもできます。昨年の12月4日閣議決定「新たな政策パッケージ」に文章として、次のようなことが書かれています。
 まず、2020年度のプライマリーバランスの黒字化は先送りとなるが、財政健全化の旗は決して降ろさず、2018年度における新たな骨太方針の策定において、プライマリーバランス黒字化の達成時期をまず明確化するということ、加えて、成長実現ケースだけでなく、ベースラインケースであっても、黒字化に向けて頑張るというメッセージを出しています。
 それから、別のところでもう一回、財政健全化の計画がうまくいっているかどうかを見直して、もっと新しいバージョンにすることも書いてあります。その裏付けとなる具体的かつ実効性の高い計画を示すというのが閣議決定した文書に入っているので、何か少し変えていきたいなということは考えていると思います。
 ただ、現実は、そんなに単純ではないかなと思っているのは、天皇陛下の退位や元号制定や様々な政策イシューもあり、また、もっとも重要なのは、2019年10月の増税判断がされるかどうかに話題が集中してしまい、新しい計画のブラッシュアップは小粒になってしまうことを懸念しています。
 

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4.政策議論のベースに必要なのは哲学だが……
 
本来議論すべきは制度、枠組みだが、そこまでできない懸念も
亀井 スケジュールとして考えると、6月くらいに骨太方針が出てくるとすれば、与党内の議論は、ゴールデンウイーク前後までに終わらせないといけなくて、そうなると、水面下では2月、3月の予算の裏で実質的な議論が行われていて、4月ぐらいから各部会に出てきて、ゴールデンウイークまたいで政調でとりまとめのような感じになりますよね。
 ただ、いまの小黒さんのご指摘では、そこに出てくるものは小粒なもの、本格的な議論には及ばない懸念があるということでしょうか。
 本来であれば、保険の適用範囲、終末期医療のあり方、年金制度等、これからの社会を考えながら、社会全体の負担を抑制するための方針や施策を具体的に考え、何をやっていくかということを示さないといけません。
 
小黒 そのとおりです。給付を抑制する時に、現行制度を前提にして抑制するには限界があります。本来であれば、医療でいえば、どういう薬を保険の対象にするのか、といった公的保険と民間保険の役割分担とか、そういう議論をしなければいけません。例えば、薬局で買える薬は保険の対象にしなくてよいのではないかとか、高額所得者の選択する特別な治療は外すか、自己負担を高めてもよいのではないかとか、そういう議論が求められているのです。
 医療費は全体で40兆円ありますが、入院が15兆円ぐらいで、外来が15兆円くらいです。その際、家計に対する財政的リスク保護の観点から、高リスクの治療は保険でしっかり守りつつ、低リスクの風邪などの場合はもう少し自己負担を増やすとか、そういうところから議論を始めないといけません。
 本当は、こういう話は、社会保障・税の一体改革で、2015年10月に消費税が引きあがっていて、そこからちゃんと一、二年かけて議論して、フレームをつくってもっと細部に落とし込んでいくという流れのはずだったのですが、先送りになってしまってしまい、ずっと積み残し状態です。
 
亀井 だから、それを数カ月でできるはずはないということですね。消費税の引き上げ先送りの影響は、ここにもあります。こうした議論から政治全体が逃げてきたわけです。
 加えて、すでにご指摘があった、子育てや教育といった新しい分野についても、単に給付を増やすだけでなく、もっと深いレベルで議論しておく必要がありますね。
 
子育てや教育も、単なる給付額だけでなく、制度設計の議論が必要
小黒 私、理論的には、人的資本市場というのは、株式の物的な資産を、外からお金、投資家から集めてやるというような、そういう市場がありません。だから、所得が高い家庭に生まれた人と、そうでない家庭に生まれた人の間に、受ける教育に違いが生まれてしまいます。つまり、所得格差、財産格差は、教育格差になるということです。
 教育は個人にとっての投資であり、そのための資金調達の方法として、株式市場のようなものが必要です。いま、自民党が議論し始めている「所得連動型奨学金」は、いわゆる「出世払い方式」で、将来、自分たちが獲得する賃金のベースの一定割合で返済する仕組みです。社会全体として、これからの知識経済における成長エンジンである人的資本に投資する機会をつくる、市場が存在しないために過小資本になっている現状をあらためるという理論的な背景も含んでいます。
 いくらもらえるのか、どこからとるか、という短期的な議論ばかりに終始しがちですが、こういう、理念や制度から立ち上げた議論が出てこなければいけません。
 
亀井 結果としての平等ではなくて、機会の平等を取る政策は何かという基本的な考え方に基づいて出てきた具体策ということですね。
 
小黒 高等教育の支援ということでは、無償の奨学金の拡充という方策もあります。しかし、高等教育に進めば、高卒の人や中卒の人と比べれば、賃金は5,000万円、場合によってうまくすれば7,000万円増える、そういう現実を考えれば、当事者の負担はあってしかるべきだと思うのです。機会の平等は担保しなければなりませんが、税金を投じる意味も考えなければなりません。
 先ほど、島澤さんがご指摘されたように、全体として貧困化が進んでいて、財政も持続可能な水準ではないとすると、負担と便益の関係もしっかり確保し、制度として相当スリム化しなければいけません。そういう、今後の社会の変化まで視野に入れた議論が、いまの政治に求められているのです。
 
パラダイムチェンジだからこそ、理念と制度から考えなければならない
島澤 今までは、右肩上がりの経済で、何も考えなくともうまくいきました。
これからはやはり、ある程度、国の哲学というか、政策の哲学がないと、国はうまく動いていきません。
しかし、小黒さんが言われるような深いレベルの話ができているかというと、現実はそうではありません。
 これはいまの政権とか霞が関とか、そういう話ではなくて、日本全体にないのだと思います。どちらかというと、非常に近視眼的になっていて、今日明日のことに精いっぱいで、骨太ではなくて、対処療法的な方針しか打ち出せていないのだと思います。
 ですから、本当に骨太の哲学的な話をどこかでやっておかないと、これからの日本、おそらく、難しいことになると思います。
 全世代型の社会保障というのは非常に大きなパラダイムチェンジのはずなのに、深く議論された気配は全くないのが気になるところです。
 
亀井 政策シンクタンクとしても同じことを感じています。外交・安全保障は厳しい環境認識もあって、深い議論への関心は高いのですが、財政や社会保障については、そういう関心を持つ人があまりいません。
 まさに、シフトするということは、根本にある考え方を変えなければいけないのだけれども、相変わらず、政策の方法論にみんな飛びつくのです。その典型が「こども保険」ですね。
 経済構造、社会構造の変化を踏まえ、その上で、どんなモラルハザードが起き得るのかとか、そういうところまで考えた議論というのが、永田町からも、霞が関からも、アカデミアからも聞こえてこないというのは、実は、結構これは根本的な問題です。
 
制度そのものの原則に立ち返り、哲学を持って考えることができるかどうか
小黒 私は、社会保障を立て直す時のキーワードは、保険の機能と、税の再分配の機能を完全に切り分けるということにあると考えています。
 保険原理はリスク分散機能です。リスクが起きた人をみんなで助けるという機能です。そこでは所得の高い、低いは直接関係ありません。むしろ、これはリスクを分散させるために多くの人が一緒に入る必要がありますから、所得が低い人も高い人もみんな入ってもらう必要があります。
 ただ、やはり、保険料の負担は難しい人もいますので、そこは税金を投入します。それが再分配の機能です。
 そもそも、税を入れるというのは、そういう理屈だったはずなのですが、いまの社会保障は、一般会計から年金と医療に30兆円投入しています。
 
亀井 ご指摘のとおりです。その原理原則を壊してきたのがいまの社会保障制度ではないでしょうか。だから、一般会計、つまり、税金の負担が30兆円にもなっているわけですね。
そういう制度にしてきた人たち、つまり、官僚や政治家たちが、保険原理と税原理を整理できるのでしょうか。
 
小黒 だから、大改革なんです。哲学を持たなきゃできません。でも、哲学があるかというとそこがあやしいのです。
 年金制度で見れば、いまは、年金は基礎年金の半分に国庫負担が入っていますが、これは所得が高い人も低い人も国庫負担が入っているということです。本来、高い人は入れる必要はないのです。
 医療や介護についても、国庫負担があり、同じような問題があります。また、現役の自己負担は3割ですが、これも所得の差はありません。所得の高い人に税金をどれだけ入れるべきなのでしょうか。
 
島澤 懐疑的にならざるを得ないのは、例えば、雇用保険の財源があるからと、様々な形で援用して一向に意に介さない現実があるわけです。非常に厳しい言い方だと思いますが、こうした体たらくの霞が関の官僚に原理原則に立ち返ることができると思えませんし、あえて原理原則に立ち返る困難にチャレンジするとは思えません。
 
亀井 いまの官僚は、骨太方針に、自分たちがここ数年間でやりたい政策や事業の文言が入っているかどうかしか、見ていません。原理原則や理念を持ち込むという発想からはかけ離れてしまっているように感じます。
 社会保障行政をずっと担ってきた人の中には、社会保障に哲学をきちんと持っていて、それは保険、それは税、と区分けできる人もいるように感じます。しかし、一方で、それは、現行制度を是認するため、それらの原理原則を随分ゆがめてきた人たちの歴史でもあります。
 重要なことは、そうした制度の原理原則、その根本にある哲学、そして、それが具体的に表現される言葉のあやを理解できる人が、いまの永田町にはいないし、霞が関でも承継できているようにも思えません。
 全体として、視野狭窄で短期的になっていて、長期的視野で、原理原則を見極めることができない、政策の根本に哲学を持つことができていない、これは、日本の政治の根源にある課題ではないかとも感じています。
 

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5.政治に必要な哲学をいかに育てていくか
 
亀井 社会が大きく変わる中、現状維持のままでは、負担を先送りしている現状を止めることはできません。そのためには、制度の原理原則、その根本にある哲学を持って、政策を議論していかねばならないというところまで来ました。
 財政の問題は、破たんしなければよいではないかという人がいますが、ひとたび財政破綻ということになれば、どういう経済状態に陥るか、現下の大規模金融緩和している状態では正確には予測しがたいものがありますが、インフレにしても、通貨安にしても、厳しい思いをしている人たちがより厳しい思いをすることになることを忘れてはいけません。
 ですから、このまま放置するわけにかいきません。政治家は政策転換の必要性を言葉にして語らなければならない、アカデミアは具体的なファクトをベースに問題提起していかねばなりません、官僚は政策決定に必要な情報提供と政策オプションの提示、さらには具体化も進めていかねばなりません。
 それぞれ考えられる役割について、ざっくり申し上げましたが、もう少し深いレベルでお二人のお考えをお聞かせください。
 
いまこそ、政治家がリーダーシップを
小黒 もっとも重要なのは、やはり政治です。財政も最後は政治なんです。
 もっとも重要なのはリーダーシップで、島澤さんの本でも、政治の忖度という言葉がたくさん出てきますが、政治家が社会に忖度してはいけません。
 先ほど、亀井さんが言われましたが、「言葉」こそが重要で、我々はどこに行かなければならないのかということを、はっきり明確にメッセージとして発することが必要です。そういうリーダーシップが求められていて、それに呼応する形で、国民が自己の認識を変えていくのだと思います。
 いままでのシステムは、いままでうまく回ってきましたが、これはもう人口増加をベースにしていますし、これほど高齢者が増えなかった時代であればうまく回ったシステムですが、これからはそうじゃないということを認識しなければいけません。2050年頃には、4人に1人が75歳以上の高齢者になり、いまの制度が持続可能なはずがないのは明らかです。
 そういうようなことをやはり誰かが言わなければいけません。もちろん、アカデミアとして、自分自身も含めて、しっかり申し上げるべきことは申し上げていきますし、それはあらゆるメディアを使って発信していきますが、最終的には、それなりの地位にある総理なり政治家なりがきちんと明確なメッセージを発する、ここからじゃないと議論は進みません。そこが一番重要だと思います。
 
国民自身も、個人や家族でできること、政府がやるべきことの線引きを
島澤 私は、政治家と国民というのが、どっちがどっちというものではないと思っていまして、それは別に政治家が国民のレベルをあらわすとか、そういう議論の話ではなくて、結局、政治家は国民に選ばれないと政治家になれませんし、そうすると、国民が何を政治家に望むかが重要になってくると思います。
 ただし、国民が政治家を選ぼうとしても、立候補している人の中からしか選べないので、ですから、そういう意味で一蓮托生だと思っているんですね。
 それは、多分、いまの政治がなぜ長期的な視点が無くて、対処療法的な話、短期のものしかないかというと、国民も、ある程度、短期的な視点になっているからだと思います。すぐに成果を求めます。例えば、アスリートを育てて金メダル取れなかったら、予算のむだだとか言いますよね。そういうのがいろいろな分野に広がってきているように思います。
 それは、政治家だけにいろいろ求めてもだめですし、国民に求めても、政治家が何も言わなければだめですから、それはもう、政治家、国民、有権者という壁を取っ払って、全体にそういう視点をもたらさないといけないのだと思います。誰がそういうことができるかというと、いや、誰なんだろう、という、私には解がない問いかけでもあるんです。
 ただ、いまの日本を考えると、結局のところ、個人もしくは家族でやれることと、国がやるべき、政府がやるべきことの線引きをもう一回しっかりやらないといけないのは明らかなので、これはどこかで誰かがやらないといけません。
 日本に、右肩下がりの経済社会に合った哲学ができてないという話と同じなのですが、そういう哲学を誰かが語らないといけないと思います。
 それはもしかしたら、アカデミアの役割なのかもしれないですし、そういった人たちの、あるいは、先人の書物を読んで身につけた政治家かもしれないですが、それは誰でもいいと思いますね。どこかから、そういうこれからの時代に合った哲学というものをはっきり示すことが必要です。
 ここは、小黒さんと同意見ですが、どこかでそういう議論を起こさないと、恐らく、感覚は昔のまま、でも、体はいまの、もうよぼよぼというので合わないというか、生きていけないので、感覚も体に合った、そういうものにしていくのが今後の日本の役割だと思っているので、そういうことができる人たちが欲しいなと、あるいは、そういう議論が出てくるような環境が生まれるといいなと思っています。
 
官僚は、徹底的に情報を開示し、政治と国民が選択できる選択肢を提示すべき
 官僚について言えば、いまの「できたらいいな」というような願望を示したような推計や、プレミアムフライデーのような願望に基づいた政策を出すのは止めたほうがよいでしょう。
 やはり、官僚の皆さんに期待したいのは、データとファクトとロジックに基づいて、きっちり政策、企画立案をやって、それを政治の側が受ける、受けないというのを決めていけばいいと思います。ただ、データがあったとしても、結局、データというのはロジックによって解釈されないと生きたものにならないので、では、どういうロジックに基づいてそのデータを解釈したのかというのを、やはり官僚側は徹底的に開示していく必要があります。
 先般、官僚が直接国民に語りかけるようなことをやっていましたが、それは何となく違うなと思っています。やはり、国民に語りかけるのは政治家の仕事です。官僚の仕事は、あくまでも、政治に対して幾つかの選択肢を提示することにあります。なぜなら、民主主義国家においては失政の責任は官僚ではなく政治家がとるものだからです。
 その選択肢は何で生まれてくるかというと、根本的な哲学があって生まれてくるものだと思いますので、哲学軽視というこれまでの風潮は、今後の日本では変えていかないといけないと思っています。
 
政治家、官僚、アカデミアが鍛えられる「場」が必要
小黒 イギリスのシンクタンクでチャタムハウスというのがありますが、そこで行われる議論のような感じで、役所の人でも、政治家でも、平場でみんなが政策などを発表し、徹底的な意見交換できる「場」が必要だと思います。
 学者にとっても、まだ、アイデア段階なんだけれどもと言って、さまざまな人たちが徹底的に叩かれ、そして、建設的な意見が加えられて、一段レベルがあがるわけです。
それは、政治家にとっても同じで、自分の考えや視点が鍛えられることにつながります。そういう公的な空間が日本にも必要です。
 いまの言論は、書いたら書きっ放し、言ったら言いっ放しで、どちらかというと、いろんなものが同じ方向に向くばかりになってしまっていて、議論の多様性が落ちている感じがします。
 
亀井 いろいろな見方があるでしょうが、僕は、民主主義、デモクラシーのベースは、ハーバーマスのカフェ、社会のことについて自由に語り、対話できる空間だと思います。ご指摘のとおり、安心して発言できるし、批判があったとしても、建設的なものであることが不可欠です。
 哲学というのは、個人がよく生きるための哲学と、社会が共有する哲学というのがそれぞれあって、福沢諭吉の言葉で言えば、前者が私智私徳、後者が公智公徳なのだと思います。
 哲学というのは、相対的なものですので、自由に対話ができる空間において、自分と相手の違い、とくに、よって立つもの違いを知ることはたいへん重要であり、それこそ、哲学を磨くことに直結すると思います。
 シンクタンクや政治の世界では有名な「チャタムハウスルール」というのがありますが、ここで誰が何を話したかということは外ではお互い言いませんというルールです。そうしたルールを持つ場があることは、社会のひとつのインフラとして機能していて、日本では、まだそういう場がつくり切れていないなとも感じています。私たちも日本のシンクタンクとして「場」の機能をあらためて考えなければいけないと感じました。
 最後にシンクタンクであるPHP総研への宿題もいただきました。あらためて、それぞれがしっかり頑張っていかなければならないと感じることがたくさんありました。ここでのお話も、いろいろな形で具体的に活かしていきたいと思います。島澤さん、小黒さん、ありがとうございました。
 

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