シルバー民主主義「論争」を越えて<2>

島澤諭(中部圏社会経済研究所主席研究員)×小黒一正(法政大学教授)×亀井善太郎(PHP総研主席研究員)

DJ9A0985

5.政治に必要な哲学をいかに育てていくか
 
亀井 社会が大きく変わる中、現状維持のままでは、負担を先送りしている現状を止めることはできません。そのためには、制度の原理原則、その根本にある哲学を持って、政策を議論していかねばならないというところまで来ました。
 財政の問題は、破たんしなければよいではないかという人がいますが、ひとたび財政破綻ということになれば、どういう経済状態に陥るか、現下の大規模金融緩和している状態では正確には予測しがたいものがありますが、インフレにしても、通貨安にしても、厳しい思いをしている人たちがより厳しい思いをすることになることを忘れてはいけません。
 ですから、このまま放置するわけにかいきません。政治家は政策転換の必要性を言葉にして語らなければならない、アカデミアは具体的なファクトをベースに問題提起していかねばなりません、官僚は政策決定に必要な情報提供と政策オプションの提示、さらには具体化も進めていかねばなりません。
 それぞれ考えられる役割について、ざっくり申し上げましたが、もう少し深いレベルでお二人のお考えをお聞かせください。
 
いまこそ、政治家がリーダーシップを
小黒 もっとも重要なのは、やはり政治です。財政も最後は政治なんです。
 もっとも重要なのはリーダーシップで、島澤さんの本でも、政治の忖度という言葉がたくさん出てきますが、政治家が社会に忖度してはいけません。
 先ほど、亀井さんが言われましたが、「言葉」こそが重要で、我々はどこに行かなければならないのかということを、はっきり明確にメッセージとして発することが必要です。そういうリーダーシップが求められていて、それに呼応する形で、国民が自己の認識を変えていくのだと思います。
 いままでのシステムは、いままでうまく回ってきましたが、これはもう人口増加をベースにしていますし、これほど高齢者が増えなかった時代であればうまく回ったシステムですが、これからはそうじゃないということを認識しなければいけません。2050年頃には、4人に1人が75歳以上の高齢者になり、いまの制度が持続可能なはずがないのは明らかです。
 そういうようなことをやはり誰かが言わなければいけません。もちろん、アカデミアとして、自分自身も含めて、しっかり申し上げるべきことは申し上げていきますし、それはあらゆるメディアを使って発信していきますが、最終的には、それなりの地位にある総理なり政治家なりがきちんと明確なメッセージを発する、ここからじゃないと議論は進みません。そこが一番重要だと思います。
 
国民自身も、個人や家族でできること、政府がやるべきことの線引きを
島澤 私は、政治家と国民というのが、どっちがどっちというものではないと思っていまして、それは別に政治家が国民のレベルをあらわすとか、そういう議論の話ではなくて、結局、政治家は国民に選ばれないと政治家になれませんし、そうすると、国民が何を政治家に望むかが重要になってくると思います。
 ただし、国民が政治家を選ぼうとしても、立候補している人の中からしか選べないので、ですから、そういう意味で一蓮托生だと思っているんですね。
 それは、多分、いまの政治がなぜ長期的な視点が無くて、対処療法的な話、短期のものしかないかというと、国民も、ある程度、短期的な視点になっているからだと思います。すぐに成果を求めます。例えば、アスリートを育てて金メダル取れなかったら、予算のむだだとか言いますよね。そういうのがいろいろな分野に広がってきているように思います。
 それは、政治家だけにいろいろ求めてもだめですし、国民に求めても、政治家が何も言わなければだめですから、それはもう、政治家、国民、有権者という壁を取っ払って、全体にそういう視点をもたらさないといけないのだと思います。誰がそういうことができるかというと、いや、誰なんだろう、という、私には解がない問いかけでもあるんです。
 ただ、いまの日本を考えると、結局のところ、個人もしくは家族でやれることと、国がやるべき、政府がやるべきことの線引きをもう一回しっかりやらないといけないのは明らかなので、これはどこかで誰かがやらないといけません。
 日本に、右肩下がりの経済社会に合った哲学ができてないという話と同じなのですが、そういう哲学を誰かが語らないといけないと思います。
 それはもしかしたら、アカデミアの役割なのかもしれないですし、そういった人たちの、あるいは、先人の書物を読んで身につけた政治家かもしれないですが、それは誰でもいいと思いますね。どこかから、そういうこれからの時代に合った哲学というものをはっきり示すことが必要です。
 ここは、小黒さんと同意見ですが、どこかでそういう議論を起こさないと、恐らく、感覚は昔のまま、でも、体はいまの、もうよぼよぼというので合わないというか、生きていけないので、感覚も体に合った、そういうものにしていくのが今後の日本の役割だと思っているので、そういうことができる人たちが欲しいなと、あるいは、そういう議論が出てくるような環境が生まれるといいなと思っています。
 
官僚は、徹底的に情報を開示し、政治と国民が選択できる選択肢を提示すべき
 官僚について言えば、いまの「できたらいいな」というような願望を示したような推計や、プレミアムフライデーのような願望に基づいた政策を出すのは止めたほうがよいでしょう。
 やはり、官僚の皆さんに期待したいのは、データとファクトとロジックに基づいて、きっちり政策、企画立案をやって、それを政治の側が受ける、受けないというのを決めていけばいいと思います。ただ、データがあったとしても、結局、データというのはロジックによって解釈されないと生きたものにならないので、では、どういうロジックに基づいてそのデータを解釈したのかというのを、やはり官僚側は徹底的に開示していく必要があります。
 先般、官僚が直接国民に語りかけるようなことをやっていましたが、それは何となく違うなと思っています。やはり、国民に語りかけるのは政治家の仕事です。官僚の仕事は、あくまでも、政治に対して幾つかの選択肢を提示することにあります。なぜなら、民主主義国家においては失政の責任は官僚ではなく政治家がとるものだからです。
 その選択肢は何で生まれてくるかというと、根本的な哲学があって生まれてくるものだと思いますので、哲学軽視というこれまでの風潮は、今後の日本では変えていかないといけないと思っています。
 
政治家、官僚、アカデミアが鍛えられる「場」が必要
小黒 イギリスのシンクタンクでチャタムハウスというのがありますが、そこで行われる議論のような感じで、役所の人でも、政治家でも、平場でみんなが政策などを発表し、徹底的な意見交換できる「場」が必要だと思います。
 学者にとっても、まだ、アイデア段階なんだけれどもと言って、さまざまな人たちが徹底的に叩かれ、そして、建設的な意見が加えられて、一段レベルがあがるわけです。
それは、政治家にとっても同じで、自分の考えや視点が鍛えられることにつながります。そういう公的な空間が日本にも必要です。
 いまの言論は、書いたら書きっ放し、言ったら言いっ放しで、どちらかというと、いろんなものが同じ方向に向くばかりになってしまっていて、議論の多様性が落ちている感じがします。
 
亀井 いろいろな見方があるでしょうが、僕は、民主主義、デモクラシーのベースは、ハーバーマスのカフェ、社会のことについて自由に語り、対話できる空間だと思います。ご指摘のとおり、安心して発言できるし、批判があったとしても、建設的なものであることが不可欠です。
 哲学というのは、個人がよく生きるための哲学と、社会が共有する哲学というのがそれぞれあって、福沢諭吉の言葉で言えば、前者が私智私徳、後者が公智公徳なのだと思います。
 哲学というのは、相対的なものですので、自由に対話ができる空間において、自分と相手の違い、とくに、よって立つもの違いを知ることはたいへん重要であり、それこそ、哲学を磨くことに直結すると思います。
 シンクタンクや政治の世界では有名な「チャタムハウスルール」というのがありますが、ここで誰が何を話したかということは外ではお互い言いませんというルールです。そうしたルールを持つ場があることは、社会のひとつのインフラとして機能していて、日本では、まだそういう場がつくり切れていないなとも感じています。私たちも日本のシンクタンクとして「場」の機能をあらためて考えなければいけないと感じました。
 最後にシンクタンクであるPHP総研への宿題もいただきました。あらためて、それぞれがしっかり頑張っていかなければならないと感じることがたくさんありました。ここでのお話も、いろいろな形で具体的に活かしていきたいと思います。島澤さん、小黒さん、ありがとうございました。
 

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