シルバー民主主義「論争」を越えて<2>
前回の鼎談では、世代会計を用いて、世代間の負担と給付の格差は、①現在世代とまだ生まれていない将来世代の間がもっとも大きい、②現在世代の中にも高齢世代と若い世代の間に格差があることを明らかにした。また、その根拠とされる「シルバー民主主義」と呼ばれるものは、高齢者の政治圧力で世代間の対立を煽るように言われているが、実際は、そうした単純なものではなく、むしろ、そのために具体的な政策手段の思考停止を招く虚構ではないかとの問題提起もされた。さらには、1月に発表された内閣府の中長期の経済財政推計には多くの課題があり、政策議論のベースになりえないという課題も見えてきた。
2018年は日本の財政の今後にとって重要な節目の年だ。財政健全化、ひいては、世代間の負担の格差をいかに是正していくのか、これからの政治の枠組みの議論が求められる。変えられない政治を変えるために何が必要なのだろうか。
「変える力」特集No.43後編では、現在、厳しい現実に向きえない日本の政治と社会の問題について、これに詳しい中部圏社会経済研究所主席研究員の島澤諭氏、法政大学教授の小黒一正氏、政策シンクタンクPHP総研主席研究員の亀井善太郎が鼎談を行った。
1.厳しい現実に向き合えないのはなぜか
曖昧なシナリオでも見えてくる厳しい財政の姿
小黒 内閣府の中長期試算については、いろいろ課題はありますが、それでも、日本財政の中長期的な姿を読み取ることはできます。
例えば、「ドーマー命題」を使って、債務残高の今後を予測することができます。ドーマー命題とは、「名目GDPの成長率が一定の経済で、財政赤字を出し続けても、財政赤字対GDPを一定に保てば、債務残高GDP比の比率は一定値に収束する」というもので、くわしく話すと時間がかかりますので、省略しますが、経済学から得られる知見の一つです。
名目成長率と財政赤字のGDP比の見通しから、債務残高(対GDP)がどのあたりに収束するかを判断することができ、具体的には、債務残高(対GDP)の水準は、財政赤字(対GDP)の値を名目成長率で割った値に収束することが知られています。
成長実現ケースというのは、もしかしたらなるかもしれませんが、やはりなかなか非現実的で高い水準だと思いますし、ベースラインケースも、過去のトレンドからは上振れしていますが、まあ、それでも、ベースラインケースの数字を使って計算すると、名目成長率は1.7、財政赤字は3.3%ですので、財政赤字を成長率で割る、つまり、3.3÷1.7で、大体2ですから、債務残高GDP比というのは200%に向かって収束していきます。今とあまり変わらないという前提で、推計を作っていることが見えてきます。
でも、先ほど申し上げたように、例えば、経済成長率のトレンドは0.3%で、この値と財政赤字3.3%という値を使えば、3.3÷0.3ですから、11という数字になるので、債務残高は、GDP比1100%になってしまうわけです。これは持続可能ではない姿になってしまうわけです。
前回計算の4.4%というベースラインケースですと、もっと厳しい水準になります。大体1200%を超えるような感じになってしまうことが、ある程度は読み取れます。こういう厳しい数字が出てくるようですと、名目成長率や長期金利などの前提について、もう少し学者やエコノミストが検証できるようなものを出してもらうようにしなければどうにもなりません。
厳しい事実を直視しない「ポスト真実」が拡がるのはなぜか
亀井 ご指摘の通りです。厳しい事実をいかに直視するかが問われています。
先日、ある新聞で、厳しい財政にも関わらず、アカデミアがきちんと声を出していないとの批判がありました。これも「ポスト真実(post-truth)」と言っていいのかどうかわかりませんが、経済政策や財政政策について、経済成長についてはものすごい楽観的な見通しを提示しながら、一方で、財政の将来は見ないとか、もはや財政赤字や巨額の債務なんてものはないとか、科学的な知見によらず、また、具体的な根拠に寄らず、政策に関する発言をする有識者と呼ばれる人たちがいます。
社会を占める声でいうと、メディアでも、ネット上でも、一定の存在感があって、こういう人たちが、社会はもちろん、政治家に対しても何か影響を及ぼしているようにも感じます。こうした人たちの存在、また、社会を巻き込む現象について、それぞれどうお考えでしょうか。
耳ざわりのよい話に飛びつく社会の構造
島澤 政治が中選挙区から小選挙区に替わり、民意の役割というのは相対的に大きくなったというのが最近の状況だと思いますが、そうした下で、政治家が民意に敏感にならざるを得ないという時に、どの民意を拾うかがポイントだと思います。
もう一つ考えておかねばならないのは、先ほどの議論に戻りますが、やはり日本全体が貧しくなっていて、負担の余力がないことです。
そういう時に、負担しなくても財政はきれいになります、金融緩和するだけで成長します、増税しないほうが成長するし、財政にとってもよいのだという言説があれば、そっちになびく人たちというのは、ある程度いると思うのです。
そういう声は、これは実はあまりよい表現ではないかもしれないですが、右にも左にも必ず一定程度いて、政治家が国民に痛みを強いるような政策を提示すると、当然、民意のある程度の層が離反してしまうことになります。特に大きくなっているのは、無党派層と呼ばれる人たちの割合が一番揺れ動くわけです。こういうスイングボーターを政治家が意識すれば、どうしても負担を迫らない安易な政策を提示しがちになってしまいます。
利害関係に手を突っ込むのではなく、すべての人がうまく果実を受けられるような政策というものになびいてしまうわけです。実際のところ、それは、すべての人ではなく、将来世代のことを忘れているわけですけれどもね。
問題は、そういう安易な政策を売り歩いている人たち、先ほど、亀井さんが有識者と呼ばれた、この人たちのタイプを分類しますと、官僚経験者、政治家のブレーン経験者、あるいは、有名な大学の先生といった経験や立場を有する人がそうしたことを言うと、実は専門外であっても、まあ、国民も、政治家も、そんなものかと思うと思うんですよね。
加えて、これは、政府というか、官僚側の問題ですが、先ほどの内閣府の試算ではありませんが、政府の試算を見れば、ちゃんと成長もするんだという数字がポンと出ていて、例えば、消費税引き上げないと財政は破綻するんだ、国債は暴落すると専門家が言っても、そんなこといつまで経っても起きないじゃないかと言われてしまいます。民意が重要になったことの裏返しにエリート層への不信もありますが、エリート層のひとつである学者が負担しなさい、負担しないとだめだと言っても、いままで外れてきたのに、何を言ってるんだ、うまい汁を吸ってきたのはおまえらじゃないかとなると、政治家は、反エリート的な政策に飛びつくというのは、仕方がないとは言えませんが、彼らの置かれた現状としてはあり得るのかなと思います。