何としてでも、復興を成し遂げる

福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会 半谷栄寿

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福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会 半谷栄寿

半谷栄寿さんのインタビュー第1回はこちら:
自然エネルギーを復興の原動力に
 
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故郷に帰るはずが…
 
 半谷さんは小学生の頃、小高町(現在の南相馬市小高区)の町長を務めていた祖父に連れられて、福島第一原発の建設現場を見学に行ったという。
 
「ここが日本の新しいエネルギーの基地になるんだ、という思いを子どもながらに持ちました」
 
 その思いは、大学卒業後、東京電力への入社へとつながった。
 
「電気事業に直接関わる仕事はあまりやっていませんでしたから、いわゆる異端でした。心血を注いだのは、たとえば1993年から7年間取り組んだJヴィレッジ。日本サッカー協会やJリーグと一緒になって、かたやサッカーのスポーツ振興、かたや交流人口の拡大による電源地域・福島県のあらたな地域振興策として、私自身が企画して、初期の経営もやらせてもらいました」
 
 2000年の電力自由化の後は、Jヴィレッジでの経験を生かすかたちで、自家発電サービスや介護事業などの新規事業を幅広く手掛けてきた。
 
「2010年6月に、新規事業担当の執行役員を最後に、東京電力を退任しました。そして、国立公園尾瀬の環境と利用をバランスよく促進するミッションをもった、尾瀬林業(東京電力子会社)の代表取締役常務に就任しました」
 
 ところが、その年の10月に父が他界する。
 
「父が天寿をまっとうしたとき、45年ぶりにUターンすることを決意したんです。2011年の1月には尾瀬林業と東電本社に辞任を申し出て、了承も得て、福島で『森の町内会』の活動をはじめようとしていました」
 
 だが、今度は災厄が降りかかる。

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南相馬ソーラー・アグリパークでの体験学習の様子

原発事故の加害者の側として
 
 2011年3月11日、あの大地震によって津波が、そして福島第一原発の事故が起き、半谷さんの故郷に襲いかかった。
 
「東京電力の執行役員を務めた身ですから、今度の大震災で起きた原子力災害について、私は加害者の側の人間です。ほんとうにお詫びのしようもない責任があります」
 
 地元出身者として被害者であると同時に、加害者でもあるという厳しい境遇。それでも、半谷さんは、すぐさま支援に向かうことを決断する。
 
「どういうふうに迎え入れられるか、正直不安はありました。だけど、それが不安だから行かない、行けないということは、やっぱりありませんでした。事故は許されないことだと思いますし」
 
 津波と原発事故で混乱する故郷へ、みずから向かっての支援。まさか東京電力の役員であったことを隠すわけにもいかない。
 
「冷たい視線を感じたことも、正直言えばあります。でも、それ以上に、祖父母や両親の生き様のようなものが勇気を与えてくれたというか、地域社会で築いてきてくれた信頼に助けられました」
 
 それでも、東京電力にいたという思いが重くのしかかっているのだろう。南相馬で復興事業に取り組む半谷さんの姿には、防げなかった原子力災害への贖罪の意識がにじむ。
 
「原子力災害による風評被害を払拭して、農業も工業も観光も、本来の評価を取り戻せたときにこそ福島は復興したと言えます。ものすごく時間がかかりますが、それを支えていくのは、長期的に復興を担っていける人材。そのために私ができることはといえば、体験学習を通した子どもたちの成長への支援なんです」
 
 何としても復興を成し遂げる。そのために、地域に貢献できる手立てを。半谷さんの揺るぎない覚悟が、周囲を動かし、理解と協力を呼び込んでいくことになる。

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ソーラーパネルの前に立つ半谷さん

志で走り出す構想
 
 半谷さんは「誰もが賛同する自然エネルギー」としての太陽光発電に焦点を定めた。ほんものの太陽光発電所をつくり、それを活用して体験学習を展開する。
 
「『福島復興ソーラー』という会社を、キッザニアと連携しながら立ち上げる構想を練りました。この案をキッザニアの住谷社長のところに持っていったところ、その場でご快諾いただけたんです」
 
 震災から、わずか5か月。8月下旬には南相馬で住谷社長とともに記者会見を開き、翌年度中に南相馬に太陽光発電所をつくり、その中に子どもたちが職業体験学習をできる場をつくる構想を公にした。
 
「まだ資金も集まっていない、土地も確保できていない。構想をまとめて、すぐに、いわば宣言したわけです。これが小さなスタートでした」
 
 この会見をきっかけに、いろいろな方々からの協力を得られるようになる。そのひとつが、「森の町内会」の活動に一緒に取り組んできた東芝からの支援だった。
 
「東芝さんにご相談に行ったのは9月でした。CSR部門の室長さんからは『やりましょう』と即答いただきました。社長さんのご内諾まで、とてもスピーディーに運んでいただいて」
 
 東芝も、家電製品を被災地に送るなどの「ものの支援」からの転換を、ちょうど模索していた時期だった。そこに持ち込まれた半谷さんの事業構想が、東芝のめざす「しくみの支援」の、具体的なひとつ目の事業として評価されたのだった。
 
「志は大切ですよ。志がなければ事業はありえません。住谷さんの賛同も、東芝の佐々木社長(当時)の賛同も、同じ志があってこそですから」
 
 東芝との間で正式に覚書が交わされたのは11月。だが、その内容は、単に支援の手をさしのべてくれるというものではなく、事業の継続性を厳しく求めるものだったという。

南相馬ソーラー・アグリパーク
ソーラーパネルと植物工場

志だけでは事業はできない
 
 東芝と半谷さんが交わした覚書は「条件つきの契約」だった。設定された条件が満たされれば太陽光発電所を一緒につくろう、満たされなければ残念ながら支援にはいたらない、というものだ。
 
「ビジネスマンとして培ってきた経験からいって当然のことです。志が一致しても、事業の前提条件をクリアーできなければ事業としては成り立たないんです」
 
 東芝との間で結ばれた条件は、 ・再生エネルギーの買取価格、買取期間、買取条件等の確認 ・建設用地の確保 ・必要な資金の調達 の、3つだった。
 
「1つめの再生可能エネルギーの買い取りについては、当時すでに法律はできていましたが、価格や期間などの詳細な条件は未定でした。2つめの建設用地については、まったく緒にもついていない。3つめの資金については、計画していた500kWの太陽光発電所の建設には2億円が必要だと見込んでいました。そこに東芝さんが1億円の出資を用意してくださるとのことだったので、残りの1億円をなんとかしなければなりませんでした」
 
 期限は、2012年の7月末日。まだ、国では復興庁の設置にも至っていない。わずか8か月あまりの間に達成するのは、いまから考えても途方もないことのように思える。
 
「ソーシャルな思いをビジネスとして推進していくためには、やっぱりこういう課題を乗り越えていかなくてはならない。一つひとつクリアしていってはじめて、実際の事業というものは動き出すんです」
 
 無謀にも思える挑戦。だが、決してあきらめることなく実現を追い求めるところに、天の配剤がはたらく。

植物工場内部-2(小)
植物工場の内部の様子

神様がシナリオを書いてくれているのだろうか
 
 津波と原発の二重の被害をうけていた南相馬市は、水耕栽培による植物工場の推進を、風評被害払拭と農業の復興策としてかかげていた。それが、半谷さんの構想と響き合う。
 
「太陽光発電と体験学習の構想と、市の植物工場の構想とを、いわば三位一体で進めようということでまとまったんです。それで、建設用地は市が確保してくれることになりました」
 
 南相馬市は、津波被災農地を円満に2.4ヘクタールを買い取り、市有地とした。同時に、半谷さんの構想を、市の「再生可能エネルギー推進ビジョン」に位置づける。
 
「南相馬市が復興交付金で植物工場を2棟建設し、私の方の福島復興ソーラーが太陽光発電所を整備して、一体的に2.4ヘクタールの市有地を活用することになりました。これで2つめの建設用地の条件がクリアされました」
 
 さらに、計画に植物工場がセットされたことで、思わぬところから支援の手がさしのべられる。
 
「被災地の農業復興のために役立つ太陽光発電所の整備を支援するという、まさにジャストフィットの補助金を農林水産省が新設してくれたんです。おかげで9,000万円の調達にメドが立ちました。3つめの資金の条件が、これでクリアできたのです」
 
 これが、2012年5月のことだった。さらに6月には、経済産業省が再生エネルギーの固定買取価格を発表する。
 
「私たちの計画では、税抜き38円/kWhで事業が成り立つように設定していました。それが、決定された買取価格は40円。ありがたいことに、想定よりも高くなったおかげで、1つめの条件もクリアされました」
 
 自分たちの努力以上に、立て続けに環境が整えられていくことに、半谷さんは「縁」のありがたさを痛感し、改めて感謝した。
 
「ほんとうに、なにか神様がシナリオを書いてくれているように感じました。官民一体になった取り組みで、2012年の12月には太陽光発電所と植物工場が同時に着工できたんです」
 
 太陽光発電所から植物工場には、100kW分の電力が15円/kWhという安価で提供される。植物工場は地元の農業法人に無償貸与され、サラダ菜やホワイトセロリなどを栽培する。収穫された野菜は、半谷さんがかつて自家発電サービス事業の顧客として信頼を得た地元のスーパーマーケット、ヨークベニマルに全量を仕入れてもらう。
 
「単に太陽光発電所や植物工場をつくるだけじゃなくて、地産地消のエネルギーを使う新しい農業と商業が連携して、この地域の産業の復興モデルをかたちづくっています。そして、この場所から、福島の復興を担う人材を育てていきたいんです」
 
 冬場の建設も滞りなく進み、施設は2013年3月11日に完成した。
 
「どうしてもこの日に間に合わせたかったんです。3月12日、東日本大震災から3年目が始まる日には、前を向いて復興に取り組んでいこうという志を全員が持っていましたから」
 
 こうして、地元の産業と人材を同時に育てる「南相馬ソーラー・アグリパーク」は、多くの課題を乗り越えてスタートをきった。(第3回「ソーシャルな志をビジネスのしくみとして成り立たせる」へ続く)
 
半谷 栄寿(はんがい えいじゅ)*1953年福島県小高町(現・南相馬市)生まれ。1978年に東京電力に入社。同社にて数々の新規事業を手掛ける傍ら、1991年に環境NPOオフィス町内会を設立し、古紙リサイクルや森林再生に取り組む。2010年に同社執行役員を退任。2011年9月に福島復興ソーラー株式会社を設立。さらに2012年4月には一般社団法人福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会を立ち上げ、現在に至る。
 
【取材・構成:熊谷哲】
【写真:shu tokonami】

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