被災地支援の現場から防災へ

一般社団法人 防災ガール 代表 田中美咲 (聞き手:PHP総研 山田花菜)

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2、クリエイティブやデザインの力で課題を解決する
 
――防災ガール立ち上げ前は、東北で被災地の支援活動をされていたということですが、田中さんが「防災」に取り組むようになったきっかけをお伺いできますか? 
 
田中:私は2011年4月に新社会人になった年代なのですが、大学卒業・就職の直前に東日本大震災が起きました。震災直後は、30人くらいの仲間とスカイプをつなげて、「我々学生は何をすべきか」というミーティングを行ったりしていました。私を含め4月から社会人になったメンバーは現地にはなかなか行けなかったのですが、後輩の大学生たちが現地に入って、定期的にスカイプなどで連絡を取り合っていたので、現地の最新情報が入るような環境はつくれていました。そうして、現地に行っている大学生メンバーと、現地で内閣府と連携しながら情報支援している大人たちと、何らかの特殊スキルを持っている現地以外の若者とが、どう連携しコミットしていくかと話し合っていたんです。
 
――現地の情報をやり取りしていた仲間たちというのは、どのようなネットワークだったんですか?
 
田中:私は立命館大学に通っていたのですが、京都の大学っておもしろくて、どの大学の授業を受けても単位が取れる「大学コンソーシアム京都」という制度があるんです。私はその制度を利用して、京都精華大学の「クリエイティブの可能性」という授業を取っていました。「クリエイティブやデザインの力で社会課題を解決する」という内容で、500人くらいの学生が集まっていたんですが、課題解決やクリエイティブ・広告などに対する意欲の高いメンバーだったので、震災直後からどんどん東北に行っていたんです。
 
――そこから田中さんが会社を辞められて、現地に移住されるまでには、どんなストーリーがあったのでしょう。
 
田中:私が初めて現地に入ったのは、7月の初め頃でした。入社したサイバーエージェントの人事部が主催するボランティア活動に参加させていただいて、陸前高田に行ったのですが、それまでは現地の情報はメンバーから上がってくるものの、「気仙沼はこう」「陸前高田はこう」という局所的なもので、被災地の全体像が把握できていなくて。現地の状況を見て、どのエリアがどんな状態なのかようやく自分でも分かってきました。
 
 その後も基本的には現地に行かず、情報整理をしたり情報発信をしたりといった後方支援をしていたのですが、やはり現地に行きたいという思いがどんどん募ってきて、結局社会人2年目の7月いっぱいで会社を辞めて、「助けあいジャパン」という公益社団法人に入りました。会社に在籍したままでは、土日に単発でボランティアをすることしかできなくて、「これで本当に役に立てているんだろうか」ともやもやしてしまって。「クリエイティブの可能性」の教授が、助けあいジャパンの代表を務められていて、いろいろ相談していたら、「だったら選択肢をやる。会社を辞めて一人で東北に行っても、それは一人の女の子のスキルでしかない。でも、うちの団体でこういう立場でやれば、そのスキルが活かせるのではないか」と言っていただいたのがきっかけで、福島県への移住を決めました。

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