拡大フェーズの混乱と代表の交代を迎えて
――現在は何か国でe-Educationの活動を展開されているんですか?
三輪:現在はアジアの6か国です。いちばん多いときでは、アフリカや南米も含めた12か国へ映像授業を提供していたのですが、私が代表になってから、私たちの中で確固たる成功モデルをつくるまでは、一旦展開国数を抑えようということになったんです。
――バングラデシュで手応えをつかんで、一旦世界中へ拡大した後、縮小されたということになると思いますが、それぞれどんな転機があったのでしょうか。
三輪:e-Educationの活動が3年目を迎えた2012年、当時はアツが代表を務めていて、私はJICAとe-Educationの二足のわらじを続けていたのですが、元リクルートで日本ではじめて民間人校長になられた藤原和博先生が、その後の活動展開に悩んでいたアツに「お前はもっとクレイジーであれ、破壊的な人間であれ」とおっしゃったんです。その言葉に感化されて、アツは五大陸全部にe-Educationの映像教育を届けたいと、「五大陸ドラゴン桜」というコンセプトを掲げて、ヨルダンやルワンダへもプログラムの提供を始めました。
実を言うと私は五大陸ドラゴン桜には大反対で、「アツは一体なにをやっているんだ」と思ったんですが、一方でその頃になると、アツも多少有名になってきていた。e-Educationの活動を知って、「自分たちも海外で挑戦したい」という学生が全国からどんどん集まって来てくれるようになっていたんです。半年や一年間大学を休学して、お金も要らないから、e-Educationの旗の下でドラゴン桜を咲かせたいというチャレンジングな学生たちから応募があり、私も彼らを応援したいと思ったことで、アツがやりたいことと、私がやりたいことが合致しました。アツはe-Educationのプロジェクトを広げたい、私は勇敢な大学生のチャレンジを応援したい。そこで、2012年からは、アツは海外で新しい道を切り拓く、私は日本で集めた学生をそこに送ってプロジェクトをマネジメントする、そういった役割分担へと流れが変わって行きました。
しかし、そこから2013年になり、10か国を越えたあたりから、いろいろな面で限界を迎え始めました。
ひとつはJICAとe-Educationのダブルワークで活動していた私自身の限界です。JICAの仕事も本当にやりがいのある、充実したものだったので、帰宅が終電近くなってしまうことも多かったのですが、さらにそこからe-Educationの活動をやるんですね。海外とスカイプミーティングをして、助成金の申請のための書類を書いて。休日はイベントなどでお話をさせていただいたり、企業の方と交渉したり。そういう生活をしていて、私自身がこのままではいけないと思うようになりました。
考えた結果、2013年10月にJICAを退職してe-Education一本にシフトしたんですが、そうすると、次々と海外へプロジェクトを広げていく中で、一年目のバングラデシュでできていたようなクオリティやこだわりが徐々に薄れてきてしまっていることに気がつきました。自ら現地に行って、映像やプログラムのつくり方を一から教えるということはやはり難しくて、クオリティコントロールがままならないまま、国が広がって行っていた。さらに、このままでは半年以内に資金がショートすることもわかりました。現地でがんばっている学生が「こういうものをつくりたい」と提案してくれても、予算が渡せなくなりつつあった。
また、「ゼロから作り上げる」というe-Educationの一年目の活動のイメージに憧れを持って入ってきてくれる学生が多かったんですが、活動が2年、3年と続いてくると、全然違うフェーズになってきていました。彼らが思い描いていたストーリーと、実際の仕事に乖離が生まれてきていたんです。
税所篤快が思い描いてきたものをなんとかかたちにしたいと思ってやってきてはいたものの、かかわる人数が10人、20人になってくると、それぞれ思いも違うし、目指している社会像も違っていた。そうした中で、これ以上国を広げるということに難しさを感じるようになりました。