非常時に機能できる平常時のしくみを

NPO遠野まごころネット 理事長 多田一彦

図1
写真提供:遠野まごころネット

 東北新幹線や東北自動車道が縦貫している岩手県の内陸部と、三陸海岸に面する沿岸部の、ちょうど中間に位置する遠野市。その地の利を生かして、被災地の後方支援に取り組むNPO法人「遠野まごころネット」理事長の多田一彦さんをご紹介します。
 
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「被災地でボランティアをするなら、あそこにまず顔を出してみたらいいよ」
 
 岩手県で復興支援ボランティアを志す人たちの間で、評判のボランティアセンターがある。それが「遠野まごころネット」だ。
 
 震災が起きた当時、被災地支援の担い手となり得る内陸部と被災地となった沿岸部との時間的・空間的な距離が、支援実施の大きな壁となっていた。その両方に1時間前後という地の利に恵まれた遠野市に拠点をかまえ、復旧から復興へと進む中にあって精力的かつ継続的な被災地支援に取り組み、民間から行政まで幅広いネットワークを構築してきたからこその強みが、まごころネットにはある。どのような思いから立ち上げ、どのような努力を経て今日に至ったのか、理事長の多田一彦さんにうかがった。
 
混乱する物流
 
 震災発生のその日、多田さんは家族とともに福島県で行われていたスキーの大会に出場していた。手に入る情報は限られ、予想を超えた異常事態であることを直感した。
 
「自宅と事業拠点のある千葉に帰るべきか、実家と事業所のある遠野に向かうべきか、まず考えました。あのとき、千葉は連絡がとれたけれど、妻がいる遠野は連絡がとれない。そこで、子どもたちはタクシーで千葉の自宅に帰して、自分は遠野に向かいました」
 
 遠野で妻や家族、顧客、事業所の無事を確かめ、翌朝甚大な被害を受けた隣町の釜石と大槌町に支援物資を持って向かった。
 
「災害対策本部を探し、やっとの思いでたどり着いたのですが、本当に大変な状況がそこにはありました。何か出来ることをとの思いから、そこにあった地図を写真に撮って帰り、グーグルマップに落として地図を作り、次の日からは現地を歩いて、『どこに』『誰が』『何人くらい』で避難しているとか、なにが必要かを聞いて回りました」
 
 若い頃、遠野市役所で勤務していた多田さんは、当時の上司でもある副市長に連絡をとった。
 
「対策本部の指揮系統に速やかに人材をいれるべきだ、出来ることなら遠野市からもすぐにと。現地本部は本当に大変な状況で、家族の安否も確認できぬまま、寝ずに立ち向かっていた。出来るだけ情報を共有し、せめて苦情対応だけでも応援する必要があると思ったんです」
 
 そんな中、全国から支援物資が続々と集まってきたが、物流は混乱を極めた。
 
「大きなトラックで支援物資が届いても、その瞬間瞬間で必要なものが違います。当然、細々した気配りも難しいですね。食材は大量に届くけど、調味料がまったくないとか。だから即座に遠野市や他団体に物資のシェアを申し出て、必要なものを避難所に届けました」
 
 子どもの少ないところに紙おむつや粉ミルクが山のように届いたり、逆に支援する側の内陸部で品薄になったり。被災地の状況を正確に把握することが難しい状況下で、いろんな人や団体がばらばらに動く中で混乱が生じていた。

図2
写真提供:遠野まごころネット

ポイントは「少しはみ出させること」
 
 著しい支援のアンバランスを解消するには、モノや人を一旦集約し、効率よく被災地に振り向けなくてはいけない。それが「遠野まごころネット」の立ち上げにつながった。
 
「ニーズの把握や物資の配布もそうだし、現場も混乱していて、まったく統率がとれていませんでした。現地を知らない個人ボランティアが入ってはいけない場所に入り込んでしまって、かえって支援活動の妨げになっているようなことも起きていたんです。だから人や物資を一旦集めて、適切に再編して被災地に割り振ることが重要だと思ったんです」
 
 シャワー・トイレ完備の宿泊施設や送迎バスを用意するなど、サポート体制を整えた。また、多田さんは瓦礫撤去や物資支援などの緊急支援ではなく、早い段階から「復興」支援を明確に打ち出した。
 
「瓦礫は片付ければ必ずなくなるわけですから、そこが目標ではない、そこで気持ちが途切れるのがいちばん怖かったんですよ。ほんとうの支援は瓦礫を撤去してから始まる。まだ始まりにも立っていないんだということ、もう復興に向かっているんだと言うことを2011年5月にビジョンとして見えるようにしました」
 
 すると、それぞれに得意な分野をもった団体が手を挙げてくる。そこに、遠野まごころネットに集まっている個人ボランティアを加えてもらい、現地に入ってもらった。
 
「バラバラに取り組むのではなしに、ビジョンを示す。そうすれば、ある程度一定方向にみんなが動いてくれる。その状態まで持っていければ、修正をかけながら前に進んでいける。違う意見があればどんどん出してね、と言って、人や能力を最大限に生かせるようにしました」
 
 ボランティア同士の連携のかたちをつくっていく中で多田さんが大事にしたのは、「目的に対して手をつなぐのであって、立っている位置でつなぐんじゃない」ということだった。
 
「私たちの中に『こうでなければならない』というかたちは一切ないんです。自分たちがいいと思った支援活動に、立ち位置にこだわらず自由に動いてもらう。それを軌道修正しながら進んでいく、というかたちを大事にしていました」
 
 公平性を重視する行政は、枠組みを逸脱する動きを避けたがる傾向がある。だが、多田さんは逆だった。
 
「ポイントは、少し『はみ出させる』ということ。アンテナです。少しはみ出した部分がないと、次のヒントが見えてこないんですよ。はみ出したり飛び出したりしたところが良い取り組みなら、さっと人やサポートをつけてあげれば、そちらが主流になったりもします」
 
 そうやって遠野まごころネットでは、瓦礫撤去や被災者の心のケア、避難所のコミュニティづくりなど、さまざまな支援プロジェクトを展開してきた。

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遠野まごころネット理事長 多田一彦

自立に必要なのは、社会的環境「衣食住+業」
 
 被災者同士の交流の場として設けられた「まごころ広場」もプロジェクトのひとつだ。
 
「仮設の論理とか避難所の論理ではなくて、その間をつないで人が出会うような、コンパクトだが広がる可能性のあるコミュニティのかたちを、避難所の外につくらなくちゃいけないと思ったんです」
 
 大槌町の一番大きな仮設住宅地の間につくられた「まごころ広場」は、地元の人々が集まるコミュニティとしてだけでなく、いまでは雇用創出の場としても機能している。
 
「まごころ広場では被災者が被災者をケアすることが大切だと考えて、ボランティアの数を徐々に減らしていったんです。最後はボランティアがひとりだけで、地元のおばちゃんたちで運営してもらいました。いまでは独立して社団法人となり、お弁当屋さんをやっています」
 
 衣食住に加えて、生活の礎となる「業」がなければ自立はなし得ない。コミュニティ形成と産業育成を結びつけ、売り上げと雇用を拡大することが喫緊の課題だ。
 
「この地域の特徴からすると、一次産業と就労支援を結びつけて考えることも必要です。たとえば、就労支援センターで三陸の食材を活用した海鮮餃子をつくって販売もしています。農林水産省からは六次産業認定を受けました」
 
 この海鮮餃子はイオンでの販売を前提に、イオンと共同でレシピを開発した。
 
「生産者と流通業を直接つないでしまったほうが、地域経済がよく回るんですよ。販路を持つものは強い。だから、販路を確保したうえでレシピ開発に努めました。イオンさんも多大な協力をしてくれています」
 
 こうした取り組みは、ともすれば行政からの支援頼みになってしまいがちだ。だが、「平常時に機能しないものは非常時にも機能しない」と多田さんは言う。非常事態に備えるには、当たり前になっている価値観も見直す必要もある。
 
「行政に民間感覚を、ってよく言うんだけど、一方的に行政に依存していたら、やっぱりだめなんですよね。民間も行政感覚を持つ必要があります。良い意味での官の意識をもたないといけない。“お互いさま”の意識をもって、それぞれにやれることをやりながら、制度やシステムを一緒に作り上げていかないといけないんです」
 
 遠野市や盛岡市、北上市の後方支援の取り組みを参考にしようという動きは全国に広がりつつあるが、外部連携や広域的に連携するしくみを同時に入れておかなければ、いざとなったときにできる対応は限られてしまうのではないか。まごころネットの取り組みは、多くの示唆に満ちている。

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納得いかなくても一旦受け入れる
 
 地域に密着してほんとうにその地域に合ったまちづくりをする。そのために、多田さんは大きなネットワークとなった「まごころネット」をコンパクトにして、かつ全国にいるボランティアさんがそれぞれの地域に根ざして独立的な活動に発展させてもらいたいと考えている。
 
「大阪は大阪、東京は東京で、独立してその地域に軸足を置いて活動する。それでいて、つながりも保っているという体制が理想です。遠野一か所でつながるっていうのはやっぱり限界がありますから。そうして日本のどこかで何か起これば、近いところを拠点にして、みんなが援護していけばいい。まごころネットは応援してくれた人のいるところが全て地元なんです」
 
 その地域のことを思えばこそ、住民とけんかになる場合もある。被災地の住民と支援でやって来た人が、互いに遠慮し合い腹を割って話し合えないことも少なくない。
 
「やっぱり遠慮しないでぶつかっていかないといけないんですよね。むしろけんかできるくらいの信頼関係をつくりながらやっていかないと。それぐらいでないと、復興もそうだし、地域の活性化も難しいでしょう」
 
 とはいえ、現地で活動していると納得のいかないこと、不条理なものとぶつかることもある。
 
「一旦ぜんぶ受け入れて、許容するしかないですよね。“許容する”なんて言うと高飛車に聞こえるかもしれないけど、お互いが納得して前に向かって進んでいくためには、“受け入れる”って思わないと。まずは、そこから考える。そしてやはりダメだと思う部分はダメだと正直に言って、どうすれば良いかを一緒に考えていくんです」
 
 結局、それが問題への最短のアプローチとなるのだという。飲み込んでばかりいては、腹の底にたまっていくものがありそうだが、多田さんは飄々としている。
 
「仕事でもなんでも、いいときもあれば悪いときもありますよね。そのギャップがあるから、うまくいかないときに疲れるわけです。だから最初から、絶対問題があるし、大変なことが起きるって思っておくんです。そしたら別にたいしたこともないし、こんなもんか、と思える(笑)。そして必ず解決できると言う自信も持っておくんです。実力はなくても」
 
 現実に存在するものに、「嫌だ」とかぶりを振るだけでは何も始まらない。だから一旦は受け入れる。そして問題解決へ最短のアプローチを考える。復興支援に限らず、さまざまな場面に通じる考え方だろう。

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遠野まごころネットボランティアセンター前に立つ多田さん

人から地域をケアしていく
 
 多田さんが気にかけ、支援しているのは、被災地やまちづくりだけではない。
 
「支援っていうのは、ボランティアに参加する側も、救われることがあるんです。人に必要とされ、困っている人が満足することで、自分も満足感を得る。自己を存在させずに考え、他人が救われることを願い動き実現する。そしてそれを喜ぶ。それって自己満足だと思うんですけど、それはそれでいいんですよね」
 
 だからこそ、彼らのケアが重要なのだという。
 
「ボランティアに来る人には、自分の中で思い描いているイメージがあるんです。だけど、そのイメージと現実が合わなかったり、支援に深くかかわっていくにつれて自分の苦手だった部分に近づいていくことになると、悩みが深くなるんですよ」
 
 「なんでこうなるんだ」。その思いに苦しみ、それまでよりどころにしていたものに、今度は反発するようになってしまう。せっかくつくりあげてきた絆を、自ら壊してしまうこともあるという。
 
「だから、たまに会いに行ってお酒を飲みながらいろいろ話すこともそうだし、ボランティアに来てくれた人たち一人ひとりにと繋がって行きたい。現実にはなかなかそこに時間が取れないけど」
 
 支援活動を通して得られた気づき。そして人とのつながり。ひとつひとつの価値を再発見しながら、悩みの出口を見つける手伝いを多田さんは重ねている。
 
「自分がやっていること、これって自己満足なんだろうかそれで良いんだろうかと考えられるのは、だいたいの場合、できることをやりきった人間。自己の欲を実現するためにやろうとするのとは訳が違う。そこに気づくと、ひとまわり成長した自分自身に出会えるんじゃないかと思うんです」
 
 その思いの根底には、いまの世の中に対する危機感がある。
 
「やっぱり人の心が病むから世の中が病むんだって、最近つくづく思うんですよね。行政のせいとか国のせいとか、みんななにかのせいにしたがるけど、いちばん最初に病むのは人の心から。そのひとりの人に対して、何かを見つける手助けができたらいいですよね」
 
 一つひとつの地域と向き合い、一人ひとりのボランティアと向き合い、それぞれに最適な答えを一緒に探して行く。遠野という地の利を生かしてはじめられた活動は、多田さんのまごころとともに広がり、地域と人を癒し、育てている。
 
 
 
多田一彦(ただ かずひこ)*1958年岩手県遠野市生まれ。遠野市役所勤務を経て独立。関東を拠点に事業を営む。東日本大震災を機に遠野市でボランティア団体「NPO法人遠野まごころネット」を立ち上げ、現在まで理事長を務める。
 
【取材・構成:熊谷哲(PHP総研)】
【写真:shu tokonami】

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