デジタル社会における憲法のあり方を考える(前編)

宍戸常寿(東京大学大学院法学政治学研究科教授)&山本龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)&亀井善太郎(政策シンクタンクPHP総研主席研究員)

3.自分以外の論考の読みどころは?新たに気づいたところは?
 
■新しい憲法論議に不可欠なインフォメーション・ヘルスの確保


亀井 新しい技術をうまく活用することを通じて、ひとり一人の人権とまさに開かれた公共を調和させることができる社会を目指すのがSociety5.0の概念です。この点に関しては、先ほど宍戸さんはバズワード化しているかもしれないと仰っていましたが、私たちはSociety5.0で何を目指したのか、あらためて確認することが大切です。
 
「個人の利益」といっても、これまでの社会では性別や年代といったステレオタイプ化された区分けの下で認識されていたに過ぎません。これからの社会では、デジタル化の活用によって、まさに現存在を尊重できる社会がすぐそこにまで来ているようにも思います。
 
地方自治体では、先ほど、山本さんが言われたロトクラシーが進んでいます。とはいえ、くじ引きで議員を選ぶのではなく、新しい施設整備の意見、既存の行政事業の評価・改善といったプロセスにおいて、住民基本台帳から無作為抽出された市民が代表として、そのプロセスに参加するというかたちです。私自身も、そうしたプロセスに専門家の立場から関わった経験がありますが、ロトクラシーは、地方自治体の硬直化した課題に対応する大きな効果があります。
 
また、ロトクラシーではありませんが、司法制度改革によって導入された裁判員制度によって、市民が刑事裁判に裁判員として参加するようになったことで、警察の捜査は科学的なエビデンスを以前よりも収集するようになりました。
 
一方、先ほど、宍戸さんが指摘されたマイノリティへの配慮は専門家がまさに担うべきところで、これは十分に留意しなければならないところでしょう。また、これも先ほど議論のあったように国政レベルにおいてエモーショナルな判断になりそうな政策課題にロトクラシーを入れるには、事前の情報共有や専門家による分析の提供等も含め、何らかのレイヤーが必要だと思います。
 
近年の政治や社会の動きを見ていると、日本に限らず、早い思考、システム1が優勢です。しかし、自分自身の思考をあらためて振り返ってみれば、最初から賛成や反対を決めて意思表示に臨むというのはなかなか難しいことです。この点について、そういうのが得意そうなアメリカ人と話してみたことがあるのですが、彼らも、最初から賛成や反対を決めるのは苦手だというのです。むしろ、誰かの考えや意見に耳を傾けながら、あるいは、実際の当事者の声を聴くことによって、判断が変わることもあるでしょう。まさに、遅い思考であるシステム2が動き出すきっかけが必要なのです。
 
そうした意味で、社会の意思決定のためには、お互いの考えや意見が言える場、そして、見える場、ある種のアゴラが必要なのではないでしょうか。党派争いのために対立し、なんでも主張し合うのではなく、また、自分の利益ばかりではなく、社会全体の利益を考えることができ、人の本来の社会性の源泉でもある相互扶助を実践することができる、そうした社会参加の場が必要なのだと思います。第1回座談会でも出ましたが、PoliTechの設計においても必要な考え方です。
 
山本 アゴラの必要性については強く同意します。フィナンシャルタイムズの記者であるジェマイマ・ケリーは、SNSを中心とする現在の言論空間を、市民が意見交換を行う公共的なアゴラではなく、観客がよく暴徒化した激情的な「ディオニソス劇場」になぞらえています。この劇場は、ディオニソスを祝すディオニューシア祭の会場となった場所ですが、言うまでもなくこのディオニソスは、葡萄酒と酩酊の神だったわけです。言論空間全体がディオニソス化するなかで、市民的な議論空間であるアゴラをいかに構築するかは、極めて重要な課題です。曽我部さんが論考で提案された「デジタル請願権」もそのための1つの有力な手段になりえます。ただ、デジタル請願権の実現にはいくつかの困難もあるでしょう。たとえば、請願者の同一性をいかに担保するのか。これは技術的に解決できるのかもしれませんが、エコーチェンバーの影響でシステム1を刺激された感情的、部族的な「請願」をどのように取り扱うのかも難しい。これを全面的に認めると、ディオニソス劇場がむしろ政治に直結することになってしまいます。
 
いずれにせよ、国会をどのようにナッジ10 していくかという曽我部さんの問題意識には共感を覚えます。本来、参議院がシステム2の部分を担うことが期待されているはずなのですが、なかなかそうなっていない。そのなかで、議会での熟議をどのようにナッジしていくかが重要です。
 
亀井 そうですね。システム1をヒートアップさせるのではなく、システム2を稼働させる、そういうPoliTech、そして、現実の政治の対応が求められますね。これからのデジタル技術の発展にも依るでしょうが、賛成/反対の対立を煽らず、どちらも合意できることを見えるようにしていく工夫も必要でしょう。テキスト分析をAIでやれば、かなりのところまでできるようになるはずです。
 
山本 「憲法論3.0」はそういう話にもなると思いますね。カナダの哲学者ジョセフ・ヒースは、最近「啓蒙主義2.0」を唱えていますが、それは、理性を個人の頭のなかに存在するものと捉えた古典的な啓蒙主義を批判し、理性をある種の社会的事業として捉えます。理性は単独で行使されるのではなく、制度的な支援を得て社会的に共同行使されるのだと。そのためには、「対話」を促すための技術やアーキテクチャーを構築・設計していくことが重要で、技術系の専門家とのコラボレーションも必要になると思います。
 
亀井 そうですね。私たちはそういう人たちとも話をしなければいけないでしょう。
 
宍戸 国民の公共空間への参加に繋げて、個人のイメージについて話したいと思います。先ほど、亀井さんがアメリカ人の話をされましたが、そこで言うアメリカ人は、「正しく説得するし、正しく説得される気概を持っている人間」がイメージされていますね。
 
亀井 たしかに。仰る通りですね。
 
宍戸 山本さんが仰る「遅い思考」であるシステム2は、そこがポイントですよね。日本の政治の場では、システム2に対応する対話が大きくスキップされています。たとえば、統治機構改革論において、小選挙区制で政権交代を目指すことそれ自体は1つのモデルで良いと私は思いますが、最後の投票に至るまでのプロセスや、投票で選ばれた国会議員の活動や政治活動一般はシステム2、集合的に正しく説得されるための対話の部分がしっかり機能しないと、ただ「白黒付けました」というシステム1だけになってしまうのではないでしょうか。
 
亀井 まさに。そこはすごく大事なところです。
 
宍戸 イギリス政治もブレグジットをやるぐらいですから、システム2が決して万能とも思わないのですが、少なくとも議会のなかでどういう議論があり、政官が動いているのかということが見えることは大切です。
 
その観点で上田さんの論考(「日本の統治構造とウエストミンスターシステム」)が提起した問題は、ウエストミンスター・モデルを日本で取る/取らない、良い/悪いではなく、大事なことは、イギリスのモデルには集合的にシステム2をやろうとする仕掛けが内在しているけれども、日本には何も無い、あるいは、見えない部分でシステム2をやっているということをどうするかだと思います。
 
それから、個人、有権者の投票ばかりが問題になりますが、その手前で、候補者を見たり、自分が候補者に働きかけたり、候補者と考えを投げ掛けたりする議論こそが大切でしょう。アメリカのプライマリー11 のようなしくみは、本来的、理想的に機能すれば、有権者と候補者が対話するなかで、政策や候補者同士が連携したり、議論を収斂させる過程になり得ると思うのです。
 
そのプライマリーが今、トランプ現象のあおりで、システム1的に党を乗っ取るための手段として使われてしまっているように思います。山本さんが仰ったように、認知科学的な話、PoliTechな話と、あるべき集合的な意思決定を、しっかり結びつけた議論をすることが重要です。
 
亀井 極めて重要なポイントですね。日本の場合で考えてみますと、そこで問われるのが、先ほど、山本さんもお話された参議院の役割です。参議院が中央と地方の調整を担うことや、院内に独立財政機関を設置することを目指すべきではないでしょうか。ここは二院制の意義にも適合します。
 
システム1とシステム2の議論で言えば、第一院である衆議院は内閣に近いですから、どうしてもシステム1的な判断に寄っていきます。一方、これから起きてくるであろう天皇制に関わる議論であるとか、新しい国際秩序についても、民主主義/非民主主義、法の支配/人の支配といった議論を、早い思考であるシステム1で、エモーショナルに進めてしまうのは危なっかしいことになります。
 
それこそ、統治機構のあるべき姿を探求する「憲法論2.0」、また、デジタル化等の社会の変化を捉えた「憲法論3.0」をしっかり踏まえて、私たちの統治機構のなかで、誰がどこでシステム2を駆動させるのか、そこをしっかり自覚しておかねばなりません。統治機構改革研究会でも、政府、議会、政党、それぞれにおいて中長期の検討や議論が不在となってきたことを大きな課題として提起しました。これにも繋がる話ですね。
 
宍戸 社会全体がシステム1に寄ってきている要因の1つは、プラットフォームサービスのあり方による部分も大きいのではないかと思います。それは、山本さんが指摘された2つ目の論点ですね。
 
山本 全くその通りです。legitimacyとrightnessの関係も、意外なほどにシステム1とシステム2の関係に似ています。
 
亀井 そうですね。
 
山本 結局、1990年代の政治改革では、システム1寄りの、非常に分かりやすい直線的・単線的な政治が目指されました。その流れとプラットフォームのビジネスモデルとが合流しているのが現在の政治社会状況です。プラットフォームの台頭により、労働組合やマスメディア、さらには政党のような中間集団、言わば強制的に作動してきたシステム2が弱体化し、すべてがファスト化しています。システム1的な世界にグッと引き寄せられている状況とも言えます。これはよろしくない。
 
そこで、「何とかしなきゃ」と考えて出てきたコンセプトが、先ほど申し上げたインフォメーション・ヘルスなのかなと思います。食事のアナロジーで考えることには批判もあるでしょうが、さまざまな食材を、バランス良く、ゆっくり噛んで食べるというのが健康の秘訣だとすれば、情報についても同じことが言えそうです。「タイパ」(タイム・パフォーマンス)が重視されるように、「デジタル」と「ファスト」との相性が良いのに対して、「デジタル」と「スロー」とは相性が良くないと考えられてきました。しかし、その発想には一部修正が必要でしょう。テクノロジーは、熟慮の再現を目指すものでもなければならない。政治過程に目を向けても、ロトクラシーや請願権、さらには参議院改革、独立行政委員会等、legitimacyと直結する単線的でファストなものを抑制する「政治のシステム2」を積極的に駆動させることが必要になると思います。
 
亀井 本来、rightnessを担うべき官僚機構が、legitimacyと直結する単線的でファストなシステム1に引きずられているのも問題です。本来、彼らは高い専門性を持って、一つひとつ丁寧に行政を動かしていかねばなりませんが、政治からは「それでは遅い」とか「そんなことは要求していない」と怒られ、メディアからは「失敗した」と叱責され、自分たちは何をしていけば良いのかが分からない状態に陥っています。システム2を駆動させる意義や方法論には、そんな彼らの専門性の回復のヒントがあるかもしれません。
 
後編を読む2022年10月7日掲載
 

【関連報告書】

【提言報告書】PHP「憲法」研究会『憲法論3.0 令和の時代の「この国のかたち」』

BOOK1_2

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政策シンクタンクPHP総研

 
10望ましい行動をとれるよう、人を後押しするアプローチのこと。行動経済学、政治理論、そして行動科学の一概念で、多額の経済的インセンティブや罰則といった手段を用いるのではなく、「人が意思決定する際の環境をデザインすることで、自発的な行動変容を促す」のが特徴。
11予備選挙(primary election)のこと。

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