デジタル社会における憲法のあり方を考える(前編)

宍戸常寿(東京大学大学院法学政治学研究科教授)&山本龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)&亀井善太郎(政策シンクタンクPHP総研主席研究員)

2.ご自身の論考のポイントは?憲法論3.0に込めたものは?
 
■デジタル化で高まる「言論空間の健全化」と「現存在配慮の実現」

山本 今後、安全保障や天皇の問題が不可避的に議論されることになるというご指摘はその通りだと思います。エモーショナルにならざるを得ないような論点を我々は控えている。だからこそ、「憲法論2.0」「憲法論3.0」の議論がとても重要だ、ということができます。「憲法論2.0」と「憲法論3.0」の議論を経由した天皇制論や安全保障論と、それを経由しない議論とでは、相当違ったものになると思います。「憲法論2.0」と「憲法論3.0」を重ねることで、健全な議会構造を構築し、またデジタル化をも踏まえた健全な言論空間を整備しておかないと、まともに「憲法論1.0」の議論を行うことはできません。逆に言えば、「憲法論2.0」と「憲法論3.0」を経由していれば、安全保障や天皇制についても我々はそれなりに熟慮できるかもしれない。
 
さて、私の論考(「デジタル化と憲法」)のポイントですが、1つは「言論空間」に関する問題です。1960年代にマーシャル・マクルーハン1 は、メディアが活字の世界からオーディオビジュアルの世界になっていくと、人間の原始的な感情や部族的な感情がもう1度、言論空間を支配することになると予言していました。
 
活字のメディアとオーディオビジュアルのメディアは違います。TikTokやYouTubeのようなオーディオビジュアルのプラットフォームが、特に若い世代を中心に拡大してきており、それによる思考形式の変化を考えなければならない。フェイクニュースや陰謀論の問題だけでなく、ヘイトスピーチやエコーチェンバー2 の問題も、究極的には言論空間の「構造」に関連した、人間の思考形式の変化によって引き起こされている部分があります。
 
こうした現状の「構造」のなかで「憲法論1.0」のようなコントロバーシャルな憲法問題を議論することは相当に危うい。これから安全保障等の問題を回避し得ないとすれば、これを議論する環境をしっかり整備しておく必要があります。言論空間の構造改革とでも言いましょうか。このような想いを、論考には込めました。
 
もちろん、この環境整備は主に表現の自由ないし知る自由・知る権利の再解釈によって行うことになりますが、プライバシー権の再検討も重要です。フェイクニュースやエコーチェンバーの影響力が増幅する背景には、人工知能を使ったプロファイリング技術があります。ユーザーのパーソナルデータを収集、高度に分析して、その属性や認知バイアス、政治的傾向を予測・推知し、レコメンデーションをかけていくわけですね。プライバシー権の再構成によって、プロファイリングの透明性が上がり、自己のデータに対するコントローラビリティが高まれば、商業目的のレコメンデーションや政治的なマイクロターゲティング等をある程度、川上で抑え込むことができます。
 
もう1つ、論考で主題化したのは、「プラットフォーム権力」です。プラットフォーム企業が、圧倒的なデータ量とアルゴリズムやAIの精度を背景に、国家権力に匹敵するような権力を持つようになっています。私は別稿で、プラットフォーム権力を、旧約聖書でリヴァイアサンと二対一頭の怪獣として登場する「ビヒモス」になぞらえましたが、現在の国際秩序はリヴァイアサンとビヒモスが対峙し、近代の主権国家体制そのものを動揺させているように思います。プラットフォーム権力をどのように統制していくのかも新たな憲法的課題だと言えるでしょう。
 

宍戸 私自身の論考(「Society5.0における立憲主義と法の支配」)のポイントの1つは、デジタル社会ですね。「憲法論3.0」が念頭に置いている、変化していく社会や国家社会のあり方は、もはやバズワード化されつつありますが、「Society5.0」の形を官民でいろいろ議論し、やってきたことにはそれでも意味があると考えていますし、この研究会では、そこから議論を始めてみたかったという想いがありました。
 
デジタル経済社会の捉え方に関する議論には、専らエコシステムの側から捉えていくやり方がありました。デジタル空間は、民主的な空間、水平的な社会を実現する起爆剤になることが期待されましたが、いつの間にかプラットフォーマー支配になってしまいました。そうした状況は改善しなければいけませんが、それだけであればデジタル空間の話に閉じてしまうと思います。
 
むしろ、曽我部さんの論考(「『個人の尊重』から見る、これからの憲法」)にあるように、伝統的な近代社会が掲げてきた個人の尊重等の社会全体をどうガバナンスしていくかという観点から、「憲法論3.0」が前提する社会の変化を捕まえ、それと法の支配や権力分立の原理をくっつけて議論を試みたのが私の論考のポイントです。経済社会の問題をガバナンスの変化のなかに取り込むため、少し強めに「デジタル現存在配慮」という概念を出してみました。
 
「現存在配慮」3 は、もともとドイツの行政法にあった議論で、資本主義後期以降の国家のガバナンスの課題を問題としています。どのように受け止めるか難しいところもありますが、私は、社会と国家を支える個人の自律的で多様な能力と意思と、現実の生活環境や状況とのズレを、国家が自らの活動で埋める作業のことを、広く「現存在配慮」と考えています。たとえば、都市の道路や水道の運営、鉄道等の移動や輸送手段の確保、さらには社会保障制度を含む多様な仕組みを、国家が直接的、間接的に確保することを含みます。
 
一方で、現存在配慮の実現のために強くなり過ぎてしまいかねない国家を法により統制するために、人権論の根っこの部分とガバナンスの話をくっつけてみました。さらに、「デジタル現存在」という形で、デジタル化した経済社会システムのなかで生きる個人の生存を考えました。そのことで、デジタル現存在を実現すると同時に、国家権力が強くなり過ぎないようにするためのガバナンスとして、法の支配や権力分立のバージョンアップを論じてみました。
 
研究会でも、現存在配慮に偏ると、世代間公平や、中長期的な国家政治における公共の実現が霞む可能性があるとの指摘を大屋さんから受けましたが、それはその通りだと思います。ただ、この提言報告書にはいろいろな論考があり、そのうちの1つとして読んでいただくのが良いのではないかと思っています。
 
亀井 「デジタル現存在」への配慮については、研究会でも盛り上がった論点でした。ご指摘の通り、現存在配慮の実現のために強くなりがちな国家の統制について、これからのデジタル化した経済や社会のなかでいかに実効性あるものとしていくのか、といった論点はもちろんのこと、そもそも、現存在配慮の拡大によって、未来に生きる人たちへの配慮が欠けてしまいがちとの意見も交わされました。今生きている人たちで意思決定を行う民主主義の限界を考える、ある意味、統治構造にも直結する問題提起だと思います。宍戸さんに示していただいた配慮すべき「デジタル現存在」という概念は、新しい憲法のあり方を考えるきっかけをもたらしてくれていると思います。
 
山本さんの論考では、デジタル空間へアクセスできないと、そもそも現代社会では理想を達成できない人たちが出てくるという指摘がありました。アクセスするための必要最低限の機器や通信を人々に付与するところまでを考えなくてなりません。ただ、これも誤解されがちですが、付与すること自体は目的ではありません。ハードウェアとか5G云々ではなく、「デジタル現存在」への配慮を実現するための手段であり、その根底にある憲法論が大事なポイントだと思います。
 
山本 現存在配慮の箇所は、興味深く読ませていただきました。デジタル空間への接続の自由、接続可能性は、単にデバイスを提供すれば良いという話ではありません。デバイスの提供を前提とした上で、考えるべきなのは、結局、人間間の関係性だと思います。
 
論考(「Society5.0における立憲主義と法の支配」)のなかで、宍戸さんが「デジタル基本権」の確立を提唱されていますが、私も強く賛同します。今年1月に、欧州委員会が『The Declaration on Digital Rights and Principles』(デジタル権利と原則に関する宣言)4 を出していますね。この宣言の第2章に「連帯と包摂」という章があります。このなかで、接続可能性とかデジタル教育、就労環境、労働の問題が明記されていますが、この辺は、先ほどのデジタル現存在と関連しているように思います。
 
1つ気になるのは、この現存在配慮を政府や政治家がどのくらい真面目に受け取ってくれているのか、あるいは、受け取るのかということです。今後、どういうルートでこういう議論を喚起していくのが一番合理的なのかを検討していかなければならない。手続的な検討が必要ということです。論考(「デジタル化と憲法」)では「ロトクラシー」5 の話にも触れました。現存在配慮はやはり、市民の声をしっかり反映していかなければならない。デジタル庁等では、「誰も取り残さないデジタル化」と謳っていますが、どうしても、効率性や経済合理性を重視する、インフラやイノベーションの話が中心になってしまい、市民のリアルなニーズを汲み取っていくことが難しくなっているように思います。これでデジタル現存在はまじめに議論されるのだろうか。この問題は、統治構造や政治過程論にダイレクトに関わりますね。
 
現在の統治構造ですと、デジタル人材交流等で官民連携は進み、そこに専門家等も関わっていくのですが、どうしてもビジネスの視点が強く出てしまう。デジタル専門性という観点で「民」を頼らなければならないので、官民が「協働」のかたちをとることになる。それ自体は悪いことではないのですが、それにより官が、「パートナー」である民間企業に忖度するという構造ができてしまいます。プラットフォーム企業によるロビイングの影響力も強いと言わざるをえません。
 
こうした政治過程では「市民」の視点が政策にうまく反映されず、デジタル現存在はどこかに行ってしまう危険があります。論考では、デジタル政策をバランス良く進めていくための1つのツールとしてロトクラシーに触れました。市民の声のフィードバックという点では、「デジタル臨時行政調査会」(以下、「デジタル臨調」)等にも期待しています。
 
現存在配慮に関してもう1つ気になっているのが、現在のプラットフォームのビジネスモデルが、いわゆる「アテンション・エコノミー」6 になっているということです。そこでは、ユーザーの認知プロセスに介入して、エンゲージメント(ページビューやサイト滞在時間)を強引に獲得することが行われています。
 
心理学の二重過程論によれば、人の思考には「早い思考」と「遅い思考」の2つのモードがあります7 。前者が「システム1」、後者が「システム2」ですね。アテンション・エコノミーの世界では、熟慮型のゆっくりとした思考モードであるシステム2を抑制して、生理的で直感的・反射的な思考モードであるシステム1を刺激してエンゲージメントを高める、アディクション(依存・中毒)の状態を作り出すことを行っていると言われています。ここでは、国家がそのような状況に対して何もしなくて良いのかが問われる。プラットフォーム上では、システム1が常に刺激されて、我々は瞳孔が開きっぱなしの状態にさせられているわけですね。常に興奮状態にあると言って良い。言論空間への国家の介入には十分な注意が必要ですが、そうした状況に対し国家が一定の役割を果たすことが、個人の尊厳や現存在配慮との関係では非常に重要なのではないでしょうか。
 
最近、東京大学の鳥海不二夫さん(計算社会科学)と、「情報的健康」(以下、「インフォメーション・ヘルス」8 )というコンセプトの重要性を主張しています。これは、現状のアテンション・エコノミーの世界では、商業的アルゴリズムにより、その人がクリックするであろう同質の情報ばかりがレコメンデーションされ、情報の「偏食」が起きているのではないか、それによりフェイクニュースや誹謗中傷投稿等への「免疫」が失われてきているのではないか、という問題意識を前提としています。このインフォメーション・ヘルスは、さまざまな情報を主体的に摂取できる「知る自由」(憲法21条)と関連しているだけでなく、「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」とする生存権(憲法25条)とも関連していると考えています。この「健康で文化的な」という文言をデジタル社会においてどのようにアップデートするかという論点も、現存在配慮との関係で重要になるかもしれませんね。
 
宍戸 デジタル社会において、国家がデジタル空間をハード、ソフト両面できちんと健全なものとして機能させ、人々がアクセスできるようにすることは、大きな課題です。
 
デジタル現存在の裏側にあたる話として、これまでの国会や社会は、その時点での使えるリソースないしテクノロジーで、人間を規格化して捉えていました。たとえば、生活保護について幾つかの扶助の類型を作り、そこに当てはめて給付したり、「この地域は過疎地だから」という粗い形で社会や人びとを把握したりして、それに対して、国が一定の手を打ってきました。
 
その最たるものが、社会保障における標準世帯のイメージです。しかし、そうした規格化が却って制度に死角を生じさせたり、人々の行動を歪めることがあります。たとえば、世帯の女性がパートで働く時に、一定の時間以上働くと税制上不利になるから働かないといった類です。国家による法規制が「アーキテクチャー」として人々の行動可能性を制約し、やがて、それが「合理的」な行動だということになって、全体最適ではない世界を生み出してしまっています。
 
私の頭のなかには、一度、国民一人ひとりを理想的な「個人」たらしめる政策をガッチリ実施できる「国家の能力」と、そこに参画する「個人の手続的な地位・権利」を構想した上で、“本当はそこまでできないよね”とか“管理社会は怖いよね”“この辺でやめようね”といった落とし所を考えたら良いのではないか、という考えがあります。
 
それと別に、山本さんの論考にあるロトクラシーに対しては、私はややネガティブなイメージを持っています。根本的には、提言報告書で論じた「rightnessとlegitimacy」9 をそれぞれに確保する、代表制民主主義を活性化させるという面では、ロトクラシーにはポジティブな面があるとも思います。反面、ロトで当たる人は、確率からして、先ほど申し上げた意味で「標準的」な人々が多くなるでしょう。本来、政治が配慮すべき、政策のサポートを必要とするマイノリティの声が上手く政治に反映されるかどうかは分からないと私は考えています。
 
ではどうするのか?という話ですが、目の前の問題について言えば、私は、曽我部さんが論考(「『個人の尊重』から見る、これからの憲法」)で書かれている「請願権」の現代化をデジタル技術で行なったり、規格上、困っていることが見えているが施策を打たれていない人たちに対応するため、内閣府共生社会部局をデジタル庁にくっつけて、子どもや女性、外国人問題をデジタルで一気にやってしまったら良いと思います。それが最初の戦略ではないかと思います。
 

1カナダ出身の英文学者、文明批評家。メディア研究と呼ばれる分野において重要位置を占める存在の一人とされる。一般に、メディアとは「媒体」を表し、メディアによる情報伝達の内容が注目されるが、マクルーハンは、メディアそれ自体がある種のメッセージ(情報、命令のような)を既に含んでいると主張した。
2似た考えを持つ者同士がネットワーク化することで、その考え方が相互に響き合い、過激化していく現象。
3現実社会のなかで「個人」の理想をある程度実現するための国家の統治活動と定義される。詳しくは、提言報告書『憲法論3.0』(pp.18)を参照。
4欧州委員会が欧州議会および欧州連合(EU)理事会に対し、欧州がどのようなデジタルトランスフォメーション(DX)を促進し守ろうとしているのかについて、明確な参考基準を示すことを提案した宣言(2022年1月26日)。プレスリリース(日本語訳)は、https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/IP_22_452
5Lot(抽選、くじ引き)とCracy(政治、支配)の造語。選挙ではなく、「くじ引き」で議員を選ぶという、「抽選制」民主主義の構想である。ロトクラシーは、選挙による民主主義とは異なり、一般市民から無作為抽出で議員を選ぶことで、一般市民の声を等しく政治に反映できるとされる。
6「関心」や「注意」を競う経済のこと。人々の関心や注目の度合いが経済的価値を持ち、貨幣のように交換材として機能する状況を指す。プラットフォーム事業者は行動履歴を取得することで、利用者の関心を強奪できるようになっている、とされる。
7ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者であるダニエル・カーネマンの著書『ファスト&スロー』で広く知られるようになった。人間の思考モードは大別して、2システム(情報処理モード)があり、これらを合わせて二重過程理論等と呼ばれる。
8情報空間のビッグバンとパーソナライズ化のなかで、ユーザーの興味関心に合った情報だけでなく、多様で幅広い情報に触れることで、情報摂取の偏り(不健康)が解消されている健康な状態を言う。
9legitimacyとrightnessは政治における2つの正しさのこと。つまり、国民によって選ばれたという legitimacy(みんなで選んだという「正統性」)と、社会として合理性や専門性に基づいて正しい選択がされるという rightness(専門性や合理性に基づく「正当性」) を指す。2つの正しさが同じ場合もあれば、異なる場合もあるが、いずれも尊重し、相克させながら、それぞれを高めていく必要がある。日本の平成期の一連の統治機構改革では、国民が選んだ内閣が統治機構の主体となったため、legitimacyに傾く動きが見られている。

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