憲法は社会の変化にどう応えるべきか グランドデザインを展望する(前編)

曽我部真裕(京都大学大学院法学研究科教授、憲法・情報法)&上田健介(上智大学法学部教授、憲法・統治機構)&大屋雄裕(慶應義塾大学法学部教授、法哲学)&亀井善太郎(政策シンクタンクPHP総研主席研究員)

新型コロナウイルスの感染拡大、新しい国際秩序に向けた世界の動き、デジタル化、人権問題など、さまざまな問題を背景にして今般、PHP「憲法」研究会が発表した提言報告書『憲法論3.0 令和の時代のこの国のかたち』(以下、『憲法論3.0』)。
 
憲法改正の是非ばかりではなく、こうした社会の変化にいかに応えるべきか、具体的な論点は何か、社会や政治はどのように動いていくべきか、『憲法論3.0』で登載した論考に込めた思いや考えについて、2回に分けて執筆陣が会し、議論しました。
 
第1回目の前編となる本稿は、曽我部真裕氏(京都大学大学院法学研究科教授、憲法・情報法)、上田健介氏(上智大学法学部教授、憲法・統治機構)、大屋雄裕氏(慶應義塾大学法学部教授、法哲学)に、「PHP憲法研究会の意義・『憲法論3.0』に込めたもの」「筆者が語る自らの論考のポイント」を語っていただきました。モデレーターは、PHP総研主席研究員の亀井善太郎が務めました。

1.PHP「憲法」研究会の意義、『憲法論3.0』に込めたものは?
 
■「この国のかたち」を問う憲法論議のきっかけに

曽我部 近年、憲法に関する世論の関心が高まっていることを感じますが、高まりは限定的という感じもしています。今夏の第26回参議院選挙の世論調査も同じ傾向で、回答を見れば、たしかに憲法への関心が高まっているようにも見えますが、それが社会全体の関心の高まりとは思えません。
 
歴史的に見ても、憲法に対する世論の関心は一貫して低いのです。最近は、保守イデオロギーの論者が改憲論を主張し、他方でリベラル派の対抗言説が存在する状況です。個別訴訟で見れば、つい最近の例では、大阪地裁では同性婚を認めない、現行法が合憲だという判決(2022年6月20日)があり、個別の人権に関する憲法論への関心を呼びました。
 
基本原理を発展させつつ、現代にふさわしいグランドデザインを展望するという意味では、憲法に関する議論は不十分です。こうした中、この問題を提起できたことは、この憲法研究会の意義と言えるのではないでしょうか。提言報告書のはじめにでも、憲法を「変えるか/変えないか、といった二元論ではなく、また、政治家や一部の専門家だけに委ねるべきでなく、幅広い国民全体の議論として、分厚い憲法論を興していかねばならない」と記されています。この研究会の意義は、そこに凝縮されていると感じます。
 
憲法論3.0』というネーミングは、2019年、PHP総研で出した提言報告書『統治機構改革1.5&2.0』を受けたものですが、前述の「憲法を変えるか/変えないか、といった二元論ではなく」というところに引っ掛けて言えば、「3.0」とはいわば、「第三の道」。つまり、護憲・改憲二元論のアンチテーゼとしての第三の道と言う意味を読み込んで良いのではないかと思います。
 
上田 憲法の巡る議論は、依然として、とにかく憲法典を改正することを自己目的化した主張と、とにかく憲法典を変えないことを自己目的化した主張がぶつかっている現状だと捉えています。「この国のかたち」の中身をどうしていくのかという大事な議論が、両陣営ともに不足しているように思います。
 
この憲法研究会に集まったメンバーは、変わっていく時代の要請に応じて憲法を見直し、必要なバージョンアップをしていく、その中身の議論をしようという認識を共有しており、その点に研究会の意義があったと思います。
 
憲法論3.0』のネーミングは、提言報告書『統治機構改革1.5&2.0』(PHP総研、2019年3月)があったからですが、そこでは統治機構の問題を「rightness」1 と「legitimacy」2 という軸で分析していくべきと提言されていました。その改革の方向性をさらに具体的な仕組みに落とし込んだ点に『3.0』の意味があると受けとめています。
 
亀井 時代の要請は大切ですし、これを見逃してはいけません。社会や経済のデジタル化、そして、新しい国際秩序への転換など、いずれも進行中の課題です。憲法が描く人権や統治機構など、いずれにも大きな影響があります。グランドデザインたる国のかたちを示す憲法がこれに応える必要があるのではないでしょうか。
 
上田 そうですね。デジタル化は、大きな環境変化です。さらに、グローバル化や少子化などの社会状況の中で、多様性、個々を尊重する動きが日本社会でも広がっていると思います。そうした中で、いかに国のグランドデザインを描くか。重なる部分として憲法を議論できたと思いますね。
 
大屋 現在の憲法を巡る議論を聞いていると、It’s the governance, stupid(統治こそが重要なのだ)と言いたくなります。つまり、憲法の問題は統治機構なのだと。
 
現在の時代状況として、保守とリベラルの対立構造があります。そうした中で、憲法典だけでなく、これを取り巻く附属法までを含めた憲法の役目は何かと言えば、1つめの役目は、国家としての集合的な理念を示すことであり、もう1つの役目は、人権の具体的な内容をきちんと示し、国家を抑制するということだとされます。
 
しかしそれをいかなる形で行うか、そして、現実的に政治的な意見対立をどうコーディネートするかが課題であり、それこそが「統治機構」だよね、というのが私の思うところです。そもそも、「国家理念がなければならない」というのはかなり特殊な、アメリカ、フランス的な思想です。それらの人工国家と違い、ある意味で、割り当て責任論的に「ここからここまでが日本の国境なので何とかして下さい」というのは、第2次世界大戦後の、国境変更を極度に嫌う主権国家体制の下ではある程度、所与のことではないでしょうか。それを今さら、国家理念でまとまらないと私たちは国ができないのです、という話ではないだろうと思います。
 
そういう意味で私は、理念を強調する保守派の改憲論に対しても、国際標準が出来上がってしまっている人権の具体的な内容を巡る議論に対しても非常に冷淡です。我が国の憲法典が非常に無力だからです。たとえば、プライバシー権は現行憲法のどこにも書いていないけれど、保護しないわけにいかない。そこで憲法典を変えられないから憲法13、14条で読み込みましょうといった議論を延々としています。
 
人権カタログ3 については、現行の日本国憲法が規範としての統制力を持っていない状態ですから、果たすべき最大の役割は、統治機構のコントロールのはずです。だからこそ、時代状況に最も敏感に反応していかねばならないはずです。国家理念はそう簡単に変わるものではなく、人権の具体的な内容についてもそう簡単に変わるものではありません。対して、統治機構は可変性が大きく、時代状況に対応しなければならない。
 
にもかかわらず、対応を放置した形で憲法を巡る議論の対立が進んでいます。これはいい加減過ぎるのではないでしょうか。やはり、憲法固有の役割として統治構造をコントロールすることは非常に重要です。いろいろな問題を憲法に基づいて処理したいからこそ、統治機構を語らねばならないというのが、私が思っているところです。

1みんなで選んだという正統性
2専門性や合理性に基づく正当性
3日本国憲法第三章で規定している憲法上保護される基本的人権で、「人権カタログ」と呼ばれる。

関連記事