なぜ今データ基本権が必要か 情報とプライバシーの未来<2>

山本龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)&宮田裕章(慶應義塾大学医学部教授)&亀井善太郎(政策シンクタンクPHP総研主席研究員)

政府がデジタル庁創設を掲げ、データの利活用を推し進める日本において、高度なネットワーク社会に見合ったプライバシー権利保護政策は喫緊の課題だ。気鋭の憲法学者・山本龍彦氏と、科学を駆使した社会変革を実践するデータサイエンティスト・宮田裕章氏の対談後編は、多様性に寄り添う社会で要となる情報政策について語っていただいた。

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■多元的な価値を生かす「多層的民主主義」社会を見据えた情報政策
 
1.デジタル・デバイド解消に向けた国の施策の重要性
 
亀井 情報社会の進展とともに、それを扱う我々の側のリテラシー向上は必須ですが、一方では、デジタル・デバイドの問題もありますよね。情報化の波に置いていかれてしまう存在を忘れてはならないという課題です。
 
山本 デジタル社会では、データとして認識されない人は存在していないに等しくなります。個人としてきちんと尊重され、自由を享受するには、データとして存在をきちんと認識してもらわないといけません。これは「データによる自由」ともいわれる問題で、非常に重要なテーマです。
 
亀井 例えば、スマートフォンを持っていないという人もいます。そうした人に、政府はいかにアプローチしていくべきでしょうか。
 
山本 デバイスの保障は、憲法25条の「生存権」にも関連すると思います。スマートフォンを持っているかどうかは、「健康で文化的な最低限度の生活」(25条)にかかわりますからね。情報格差の隅に追いやられてしまうような方達に向けて、国家が憲法上の責務として積極的に支援をしていくという方向になっていくんじゃないかと私は思います。
 
亀井 それもまた、データの基本的な権利だと考えるべきですね。
 
山本 そうですね。デジタル・デバイドのことを鑑みた時に、誰もがデータとして捕捉される権利についても考えていく必要があるということです。
 
亀井 「あなたは確かにいますよ」ということでしょうか。
 
山本 そうです。プライバシーや「データからの自由」との兼ね合いもしっかり検討しなければなりませんが、データを捕捉されている人と捕捉されていない人との間で、受けられる恩恵に格差が生まれてしまえば、それも問題なわけです。
 
亀井 アメリカのボストン市で起きた事案が、まさにそうですね。

山本 そうなんです。スマホからGPS位置情報を取って、人の動流解析を行い、今後、道路の補修が必要なエリアをAIに予測させたところ、高所得者が住んでるエリアに予測が集中してしまった。低所得者の居住エリアが外れてしまったのは、低所得者はスマホの所持率が低く、適切にデータが集まらなかったからだったんです。AIが学習するデータ自体に偏りがあると、こういう問題が起きうるわけですね。

亀井 そうすると、偏りなくデータが集まった方がいいと、みんなが認識する必要はあります。

山本 「データからの自由」やプライバシーに干渉しない形でこの問題を解消するには、データの切り分けが必要でしょう。僕はデータというものを、「個人に関するデータの世界」と、データに付着した「個人臭」が洗い流された「集合的なデータの世界」の2つに切り分けて考えています。「個人の世界」のデータについては、基本的には個人の情報自己決定権が重要です。その一方で、匿名加工情報など、「集合の世界」に落ちたデータについては、本人の同意や自己決定を噛ませる必要はない。そんな仕分けをして運用してもいいのではないかと考えます。

亀井 情報の切り分けを徹底できれば、デジタル・デバイドは解消できるという考え方ですね。

山本 ボストンの事件のようなことにはならないと思います。「集合の世界」のデータとして網羅的に収集すれば、プライバシーを侵害することなく、すべてのコミュニティーから情報を偏りなく集められる。ただ、「個人の世界」と「集合の世界」の垣根というのは、微妙なところもあります。例えば医療情報の場合、匿名化のために情報を丸めすぎれば、せっかく集めた情報が使い物にならなくなる。医療ビッグデータとして有用であるためには、一定程度、属性を残しておく必要もあるわけです。しかし、「個人臭」を一定程度残せば、「個人の世界」と「集合の世界」とが混濁する可能性が出てくる。

亀井 両者が混濁しないための工夫はできるのでしょうか。

山本 例えば、ひとたび「集合の世界」に落としたデータは、個人と紐付けないということを制度上徹底する。既に個人情報保護法にも、医療ビッグデータに関する次世代医療基盤法にも、「再識別行為の禁止」が組み込まれていますが、集合界に落ちたデータから再び個人を特定するといった行為について、ペナルティをこれまで以上に厳格化するなどの方法が考えられます。

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2.情報を「たどろうとする行為」への法制度を強化すべき
 
宮田 コロナ対策では、「集合の世界」が威力を発揮している。グーグルと協力して分析している「人の移動データ」などがそれに当たります。移動データの場合、同意を取れた人だけで集めてしまうと活用価値が限定的なものになります。

山本 そのとおりです。

亀井 グーグルなどにおける「集合の世界」のデータ運用の具体は、どのような立て付けなのでしょうか?

宮田 大まかに言えば、個人の属性はつぶしてわからないようにしています。そうした運用をしていて解析に使うことがありますよと、あらかじめ説明する形でグーグルが規約を取ったグローバルなデータが存在している。そうした集合のデータがあったから、今回、コロナ下でいろいろな予測が立てられたし、未来にむけた政策に活用されています。一方で「集合の世界」のデータ活用についてはプライバシーの侵害可能性など、様々な論点もあります。ただ、命に関わるようなテーマ、公衆衛生という観点で考えた時、「集合の世界」のデータ運用については、様々なアプローチでの活用可能性があります。個人に紐付け可能な状態で運用するデータと、侵害可能性がない状態で運用するデータと、使い方を分けることはその一案です。

亀井 「集合の世界」のデータを扱うには、どこでどのような説明責任を果たしているかが問われることになります。

宮田 そこが要でしょう。GDPR(国際社会において個人情報の保護を強化していく「EU 一般データ保護規則:General Data Protection Regulation」)が2018年に適用されてからの世界では、特にテックジャイアントたちは、「トラスト」をいかに示すかに注力しています。そうでないと自分たちが信用を失って、その次のフェーズ、つまり、データを活かして新たな社会や経済をつくる世界において生き残れないと理解しているからでしょう。

亀井 今、現状においては、信頼を獲得できていると考えてよいのでしょうか?

山本 日本においては「個人の世界」も「集合の世界」も、中途半端な理解しか得られていないのが現状でしょう。その結果、日本の個人情報保護法制は、過少かつ過剰な保護になってきたところがあるように思います。大事なところが十分に守られていないという意味では過小、守らなくていいものを必要以上に守っているという意味では過剰な保護になってきたということです。集合界のデータは、ソーシャルグッドのために、本来もっと積極的に使われるべきです。もちろん、そのためにはセキュリティーやガバナンスの構築、先ほどお話しした再識別行為の禁止などが必要ですが、「集合の世界」のデータ活用まで厳格に規制すべきではありません。「世界」に関する曖昧な理解の中、うまく発展できていません。

亀井 そうした理解が曖昧になってる原因は何でしょうか?

宮田 「集合の世界」をつくるときのステップが、まだ明確ではないという側面はあります。実際は、「これはまだ、丸めていない個人のデータでしょ?」というデータであっても、集合データだと言い張るケースも見受けられます。どこまでが個人で、どこからが集合で、どんなステップを踏んで安全性を担保しているのか、きちんとその過程も含めて説明することによって、これは「気持ち悪い」使われ方をしているわけではないと説明していく必要があります。データの使い方はもとより、「データのつくられ方」を含めた説明が必要です。その説明不足が生じると、「匿名化データだと謳っているのに、実際には個人のデータが見えるじゃないか」と突っ込まれてしまいます。説明の仕方は、もっと洗練させていく必要はあると思います。

亀井 日本は情報の扱いがこなれていないのが現状ですね。海外勢の情報運用はいかがでしょうか?

宮田 海外のテックジャイアントはむしろ、データ運用を「安全側」に振ってます。彼らは、誰に流出しても大丈夫だというぐらい個人情報を丸めた「安全な集合の世界」のデータをつくった上で、それをさらに一切流出させないよう、徹底して管理しています。

山本 かなり厳密な話をすると、丸めたはずの「安全な集合の世界」のデータであっても、技術を徹底して駆使すれば個人までたどれてしまいます。どこまで「丸めれば」集合データになるか、どこまでが「個人情報」で、どこからが「非個人情報」かという基準をめぐる形式的な論議というのは、実はあまり有効ではないと思います。むしろ大事なのは、「たどろうとする行為」自体を問うことです。今まで、日本ではプライバシー権の議論というのは、基本的には漏洩問題に焦点を当ててきました。だから、デジタルの時代になり、集約されたデータから個人を識別したり、内側でプロファイリングするといった行為自体がプライバシーの侵害だという意識を持ちにくかったのです。「外に漏れなきゃいいよね」というところで議論が止まっていました。これがドイツだと、意識がだいぶ違います。歴史上、ユダヤ人差別の問題と結びつくからでしょう。

亀井 ナチスの戸籍制度の問題とつながっているということですね?

山本 そうです。元々ドイツは、国が持っている戸籍制度とIBM社のパンチカードとを結びつけて、ユダヤ人登録制度をつくった歴史がある。こうしたデータの連結や分析から、ユダヤ人の選別を行った忌まわしき過去の教訓から、情報の自己決定権というものを確立する動きにつながったわけです。だから、ドイツでは、個人情報保護の問題は漏洩問題だけではありません。

亀田 彼らはプロファイリングの問題だと受けとめるのですね。

山本 はい。情報を付き合わせて、「たどろうとする行為」自体が権利侵害だという意識が強い。日本の場合には、そうした意識が社会規範として備わっていません。例えば、「次世代医療基盤法」は、匿名化した医療情報なら、集合の世界の情報として積極的に使ってもいいという法律です。そこには、「再識別行為の禁止」が条項として入っているんですが、漏洩に比べてペナルティが重くありません。

亀井 意識としてのウエイトが高くないわけですね。

山本 僕は、再識別行為の禁止に対するペナルティをガーンと上げちゃうほうがよいと考えています。そうすれば、「再識別することが良くないんだ」という社会規範が生まれるからです。たどろうと思えばたどれるかもしれない情報であっても、たどろうとする行為への抑止力を法制度として組み込んでいくことが重要だろうと思います。

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3.トラスト形成の新機軸

亀井 日本は海外に向けて、「Data Free Flow with Trust(DFFT:信頼性のある自由なデータ流通)」というコンセプトを打ち出し、その実現に向けて「大阪トラック」という、データ流通や電子商取引を含むデジタル経済に関する国際的なルール作りを進めるプロセスの立ち上げを宣言しました(G20大阪サミット)。しかし、それをどうやって実装していくのか、具体的な道筋が見えないという批判もあります。今秋設置予定のデジタル庁の方針として、ビジョンメイキングは色々なされているようですが、翻って、役所の人たちのデータ運用の現状を見たときに、率直に言うとDFFTの理念には程遠いという印象は否めません。

宮田 もちろん、官によるデータ運用には抜本的な改革が必要でしょう。ただ、役所だけがトラストをつくるという発想も違うと思います。「トラスト」っていうのは双方向性なんですよ。

亀井 一方的に作られるトラストじゃなく、双方向のコミュニケーションによってみんなで構築していくものだということですね。宮田さんは近著『データ立国論』(PHP研究所)で、「多層的民主主義」という概念を示しながら、「データでつながる世界では、社会善的な価値観がより重要になって、『みんなにとってよいあり方とは?』を常に問い、トップダウンだけでなくボトムアップで社会を作り上げる意識が必要になる」といったことを書かれていました。

宮田 はい。我々が、官の情報運用を見守ってプレッシャーをかけるということも民主主義だし、必要な方策が出てきたら、やっぱり声を上げなきゃいけません。あるいは、声を上げることができない人たちに寄り添って「声なき声」を拾い上げるということも、行政だけじゃなくて我々が、シビックテックだったり、クラウドファンディングだったり、民間の力を使いながら見ていく必要があるでしょう。
 
山本 トラスト形成に欠かせないのは、コミュニケーションできる人の存在です。細かく説明すればいいというものでもありません。最近、「プライバシー・テクノロジー・パラドックス」と呼んでいる概念があります。これは例えば、暗号計算をはじめ、プライバシーを守るテクノロジーというものは複雑で、説明されても一般の方々には理解不能だったりします。そうすると、説明すればするほど、かえってトラストが失われるというパラドックスがあるわけです。そうすると、語る内容もさることながら、データの責任者、あるいはトップが顔を出してコミュニケーションをとっていくという姿勢が実はすごく重要になってくる、そういう風に思います。
 
亀井 誠実な「語り部」の存在ですね。
 
山本 はい。単にデータを示すだけじゃなくて、注釈を付けて人々が理解できるような形でそれを提示できる「語り部」が必要だと思います。
 
宮田 そうですね。今後はデータをどう取って、どう示すのかというコミュニケーションの誠実さがより強く求められるでしょう。データを取る上での仮説や、誠実にデータ分析に取り組む信念、あるいは、情報を取る上での中立性を、適切に社会に提示していく姿勢が問われます。
 
山本 結局、情報を扱う上でのビジョンをいかに持っているかだと思うんです。政府は結局、デジタル改革関連法でデータ基本権に関する原則を引っ込めてしまいました。今の政府にトラストが足りないという意見が出てくるのは、多分、デジタル化によって自由と民主主義をどう実現していくか、という語り部としての役割をあきらめてしまったところがあるのでは。そこは、少し批判的に見てもいいかなという感じはしますね。
 
宮田 やはり国であっても、企業であっても、「データ基本権」的な概念が強く必要だと思います。

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4.多様性に寄り添う社会に要となる「データポータビリティー」

山本 宮田さんが著書で示されている「多層的民主主義」という概念も、キーになってくるでしょう。テクノロジーによって、社会の多元的な価値が捕捉されるようになってきたわけです。そもそも、何が善い生き方か、という大きな価値観、大きな物語を社会で共有できなくなってきている。そうすると、コミュニティーによって何が社会的な善なのかが違ってきてもおかしくない。それをそれぞれのコミュニティーにおいて、例えば「信用スコア」や地域通貨という形で実現していく。仮に、自分が属しているコミュニティーの価値観がもう嫌だと思えば、データポータビリティーを使って別の価値観を実現しているコミュニティーに移ることもありうる。そうすると、国家において基盤となる価値観はそんなに分厚くなくてもよくなります。従来のように、大きな物語の共有を前提とした国家ではなく、それぞれのコミュニティーがそれぞれに一定の価値軸を持っていて、その価値をコミュニティー間で切磋琢磨して、サステナブルな社会を洗練させていく。「多層的民主主義」というキーワードからは、そんな未来像が見えてきます。
 
宮田 今のテクノロジーの中でできるのは、多様性に寄り添うこと。多様なものを多様なままに取り扱うことが、技術の進歩により、できるようになってきているわけです。そうなってくると、地方が大都市の後追いをする必要は全くなくなる。メガトレンドに左右されることなく、新しい最先端の価値軸を構築できるかもしれない。牧歌的な田舎であっても、他所にはない魅力的な、最先端の町というものも出てくると思います。
 
山本 そうした多様な価値軸を担保するのが、「データポータビリティー」という権利になるでしょうね。自分の情報を管理して、必要によっては「移動させられる」権利です。暑苦しいビジョンを持つコミュニティーに絡め取られるのではなく、自分の情報は自分で管理しながら、コミュニティー間を容易に移動できる自由ですね。
 
亀井 「新しい中世(ルネッサンス)」ですよね。
 
山本 ルネッサンスに単純に逆戻りするんじゃなくて、「データポータビリティー」によって移動の自由が保障されているというところが、中世との重要な違いになってくるのだと思います。
 
宮田 そうですね。国家をまたぐ形でのコミュニティー形成も十分に可能になる。そういう意味でも、情報の扱いを自分で決められる自己決定権は、個が響き合い、人々の「生きる」をつなぎ合わせていくための中核概念になっていくと私は考えています。
 
(前編を読む)
【写真:まるやゆういち】

 

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