危機でも改憲論議を停滞させるな

大石 眞(京都大学名誉教授)

本稿は『Voice』2020年7月号に掲載されたものです。

コロナ禍で緊急事態条項の創設が提起されるなど、論点は尽きない。国民の関心や世論の動向に振り回されず、大局的な論争を展開せよ

「緊急事態」とは何か

メディアでは、何か大きな事件や重大な事態が起こるたびに、しばしば憲法改正論がもち出される。今回の新型コロナウイルスによる世界的な感染問題への対応に際しても、いわゆる緊急事態条項を憲法に明記すべきだとする主張が唱えられている。

この点ですぐに想起されるのは、2018(平成30)年3月、自民党が「緊急事態対応」のたたき台素案として示した憲法改正案である(73条の2)。それによれば、「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる」とされ、「内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない」という。

この案については、そこにいう政令は6年前の改正草案にいう「法律と同一の効力を有する政令」とは違うのかなど、いろいろな論点を指摘することができる。いま、そこで想定されている「緊急事態」に焦点を当てると、従来の「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」(2012年改正草案98条)とは大きく異なり、「大地震その他の異常かつ大規模な災害」に限定されている。

だが、そもそも「緊急事態」とは何を指すのか。内閣法制局メンバーによる『法令用語辞典』によれば、緊急事態とは、字義どおりには「緊要で、かつ、至急を要する事態」を表すが、法令上は「治安維持上急迫した危険が存在するような状態」を意味する。じつは緊急事態を明確に定めた現行法令はなく、最も関係の深い警察法ですら、「大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態」と記すのみで、それに続く「治安の維持のため特に必要があると認めるとき」(71条)という文言から、その意味を読み取れるにすぎない。自衛隊法にいう「間接侵略その他の緊急事態」(78条)も似ているが、これは防衛上の緊急事態を指している。

ほかにも緊急事態に言及する法令はあるが、別の限定された特定の事態を指すにとどまる。たとえば、「災害緊急事態」は「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合」であり(災害対策基本法105条)、今般の「新型インフルエンザ等緊急事態」は、「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあるものとして政令で定める要件に該当する」新型インフルエンザ等が「国内で発生し、その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるものとして政令で定める要件に該当する事態」(新型インフルエンザ等対策特別措置法32条)というものである。

解りにくい法文であるが、いずれにせよ、このような緊急事態は、憲法論で取り扱うべき緊急事態とは違う。そうした個別的な緊急事態規定に不備がある――実際、新型インフルエンザ等対策特措法にはある――とすれば、議会や政府などの憲法所定の機関が正常に機能する限り、立法によって修正可能である。しかし、そうした機関が正常に機能しえない場合は打つ手がない。憲法論として重要なのは、個別的な緊急事態規定を超えて、そのような場合にとるべき非常措置をあらかじめ憲法に明記しておくことの是非という、より根本的な問題であって、国家緊急権は、本来、憲法所定の機関が正常に機能しえないときにどう対処すべきかという、国の存立に関わる難問に応えるものである。この意味で、先に提示された「緊急事態対応」規定は、じつは国家緊急事態や国家緊急権に対応したものではない。

大局的かつ制度論的な構想が不可欠

この問題にも表れているが、堅確な憲法構想を踏まえないと憲法改正問題について的確な展望を得ることができない。およそ憲法に限らず、法文の背後にはその規範を必要とする何らかの政策や制度構想が存在している。たとえば、憲法に政党条項を設けるとすれば、現代民主政における政党の役割や機能について検討し、その働きを規範として的確に位置付けることが求められる。そうした憲法政策・構想を成文化した結果が憲法案になるわけで、ここにいわば制度論的な憲法改正論を語ることができる。

この観点からすると、自民党の改正草案(64条の2)や産経新聞の改正要綱(62条)のように「国会」章に政党条項――その内容はここでは問わない――を設けるのではなく、読売新聞の改正試案(3条)、世界平和研究所の改正試案(4条)のように、「国民主権」章に取り込むほうが望ましい。政党は国民の自由な結社に基づき日常的に活動するもので、その働きは国会内部にとどまらないからである。他国に見るように(フランス憲法4条・51条の1、スペイン憲法6条・78条など)、政党条項と並んで議会内部の会派に関する規定を設けるのも理に適っている。こうした制度論的な憲法改正論は、それまでの憲法典にはなかった規範を付加する場合のみならず、憲法典の欠缺を埋める規範を採り入れる場合にも求められる。

これに対し、現行の憲法規定に関する疑義をなくすとか、それを補う規範を置くなどの改正論も考えられる(例、9条・89条の改正問題など)。しかし、それは、いままで述べた憲法政策・構想を成文化するといった提案ではなく、いわば解釈論的な改正論にすぎず、立法技術的な問題に属する。だからといって、そうした改正論を重要な政治課題として設定することに異論を唱えるつもりはない。

ここで言いたいのは、現行憲法の規定について、たんに国会・内閣・裁判所などの国家機関ごとに、その組織・権限・手続などを細かく検討したとしても、その成果はせいぜい解釈論的な改正論を生み出すにとどまる、ということである。現行規定をなぞる体のものではなく憲法改正論として相応の統治機構案を打ち出すには、大局的な観点からの制度論的な構想が欠かせない。

たとえば、国民と議会の関係について、国民主権の下で、選挙制度のあり方や国民発案・表決といった仕組みの採否を含め、どのように再構築するかは、いわゆる代表民主制の現代的な理解とも相俟って大きな問題となる。また、議会と政府の関係について、天皇制とも関係する議院内閣制の枠を維持するとしても、合理的に再構成する必要はないかという問題――内閣の衆議院解散権への制約の要否もここに含まれる――は、統治機構をめぐる基本的な論点である。かつて「ねじれ」国会の時代を経験した世代からすれば、衆参両院の権限関係、とくに衆議院における法律案の再可決要件(憲法59条2項)を見直すことも、憲法政策・構想に関わる重要課題として残されている。

同様に、政治と裁判の関係を民主制との関係でどのように整理するか――司法の民主化、憲法裁判所の是非など――とか、財政・予算制度のあり方について、民主主義における歳出圧力の強い状況のなかで、国費支出の根拠を失う「予算の空白」事態に対する備えを含め、どうするかという問題も無視できない。にもかかわらず、憲法改正を推進する立場も、残念ながら大きな制度構想を展開することなく解釈論的・立法技術的な改正論に終始しているかにみえる。

日本は「憲法改革」を行なってきた

さて、およそ現存している憲法秩序は、どの国でも、国政の組織・運営・手続に関する数多の原理や規範などから成り立っている。日本について言えば、そこには、(a)最高法規とされる憲法典に含まれる国政上の諸規範のほかに、(b)具体的な訴訟事件において最高裁判所が下した憲法判断として示された規範(憲法判例)もあれば、(c)通常の議会制定法(法律)の中に定められた規範も存在している。もっとも、(b)憲法判例は、現在の訴訟制度の前提である主観訴訟の原則のため、人権保障の分野ではかなり蓄積されてきたものの、統治機構分野では憲法問題が裁判所の審理の対象となりにくく、その役割は限られている。

しばしば「憲法附属法」と名付けられる(c)は、『六法』と呼ばれる法令集をみると必ず最初のほうに載っている。皇位の継承資格者や継承順位などを定める皇室典範や国民が議員を選ぶための公職選挙法のほか、国会法、内閣法・国家行政組織法、裁判所法など、重要な国家機関の組織・運営について定めた各種の法律、さらに財政法や地方自治法など国政の重要な分野に関わる法律などがそれである。

したがって、現在の憲法秩序を変える必要があるというときも、採るべき方策としては、(a)最高法規とされる憲法典の条項や文言を改める「憲法改正」の手続を踏む場合があるほか、(b)最高裁判所の憲法判例の変更による場合もあれば、(c)各種の憲法附属法の改正による場合もある。

日本では、(a)の実例はいまだないが、(b)の実例としていくつかの憲法判例の変更を挙げることはできる。やや専門的になるが、いわゆる第三者所有物没収事件(昭和37年11月28日)、全農林警職法事件(昭和48年4月25日)に関する最高裁の大法廷判決などは、それまでの判例を覆して新たな規範を確立したものとして広く知られている。

他方、(c)の実例は多く、この場合の憲法秩序の変化・国政秩序の変動のことを、先にみた「憲法改正」から区別する意味で、私は「憲法改革」と呼んでいる。時代に即してみると、現行の衆議院の小選挙区比例代表並立制を導入した公職選挙法の改正や政党助成法の制定などによって行なわれた政治改革(1994年)をはじめ、内閣法・国家行政組織法などの改正と内閣府設置法の制定を通して行なわれた中央省庁改革、地方自治法を中心とする諸法律の改正による地方分権改革、裁判所法の改正や刑事事件裁判員法などの制定により進められた司法制度改革などである。

そこで、広く憲法改正論が唱えられるときも、憲法改正を要する問題なのかそれとも憲法改革に訴えれば足りるものかについて、まず考察をめぐらす必要がある。ただ、このような憲法改革が可能なのは、現行憲法の規定が簡短で概括的なスタイルをとっていることと密接に関係している。そこで、次にこの点を検討することにしよう。

簡短概括型か詳細規律型か

現行の日本国憲法の規律スタイルは、簡短概括型の条項にとどまっている。その意味について、これと対比すべき詳細規律型とともに具体例を示しつつ説明しよう。

まず、日本国憲法第21条は、集会・結社の自由、表現の自由、通信の秘密という性質の異なる3種の自由を保障しているが、表現の自由に関するものだけを取り出すと、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とし、「検閲は、これをしてはならない」と定めるにすぎない。

これに対してドイツ連邦基本法(憲法)第5条は、以下のように定めている(3項略)。

 (1)
各人は、言語、文書、図画によって自己の意見を自由に表明し、流布する権利、並びに一般に近づくことのできる情報源から妨げられることなく知る権利を有する。プレスの自由並びに放送及びフィルムによる報道の自由は、保障する。検閲は行なわない。
 (2)
これらの権利は、一般的法律の規定、少年保護のための法律上の規定及び個人的名誉権によって制限を受ける。

この規定は、日本国憲法と比べると、権利・自由の内容を具体的に示すとともに、それに対する制限事由をも明示している点で注目される。日本の憲法に慣れていると、その詳しい書きぶりに驚かされるが、ここでは、こうした規律スタイルの違いが権力への制約の度合いという点で統制密度の違いをもたらす、ということに注意を促したい。

このような統制密度・権力統制の違いは、統治機構関係の条項でも見られる。たとえば、日本国憲法は、国政選挙のあり方について、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(47条)と定めるのみである。したがって、選挙制度の決定について国会の広い立法裁量が認められる一方で、法律の定めた選挙区間の議席配分の不均衡――いわゆる1票の較差――が問題視されることになる。

これに対し、たとえばイタリア憲法第56条(改正後のもの)は、下院議員の選挙制度について次のように詳細に定め、そうした広い裁量の余地を残さないものにしている。

 (1)
代議院は、直接普通選挙で選出する。
 (2)
代議院議員の定数は630とし、そのうちの12は在外選挙区において選出する。
 (3)
選挙の日に25歳に達しているすべての選挙人は、代議院議員の被選挙資格を有する。
 (4)
選挙区の間での議席の配分は、在外選挙区に配分される議席数を除き、直近の国勢調査によって明らかになった共和国の人口総数を618で除し、その配分基数と最大剰余法に基づいて各選挙区の人口に比例して議席を配分することにより行なう。

この例からもわかるように、日本国憲法のような簡短概括型の規律であれば統制密度は低く、議会や政府などの権力――裁判所も含まれる――に対する統制の度合いは弱くなるが、詳細規律型の規定であれば統制密度は高く、権力に対する統制の度合いは強くなる。憲法観の問題として言えば、権力統制を高調する立場は、前者だと柔軟な国政運用が認められるため反対に回り、後者だと厳格な国政運用が求められるので賛成に回る、ということになろう。

イデオロギーより実務的規範の構築を

このような簡短概括型か詳細規律型かという問題に加えて、規定内容の問題として理念宣言型をとるか実効規範型に徹するかという論点もある。後者は裁判所による実効的な救済可能性をも念頭に置いて実務的な規律を設けるにとどめるが、前者は実務的規定のほかに政治理念を強く打ち出す書きぶりに走る傾向をもつ。その違いはとくに権利保障の条項で目立つが、各種改正案を対比すると、実効規範型と理念宣言型との違いがはっきりする。

たとえば、おおさか維新の会(現、日本維新の会)による「憲法改正原案」(2016年3月)は、ほぼ現行憲法第26条に則しつつ、「……学校における教育は、すべて公の性質を有するものであり、幼児期の教育から高等教育に至るまで、法律の定めるところにより、無償とする」旨の実効的規範を加えようとするにとどまる。これに対し、自民党の憲法改正推進本部が作成した教育条項たたき台素案は次のようなものである。

「国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない」

この案文中、主語と述語を除く部分、とくに「教育が国民一人一人の人格の完成を目指し……担うものであることに鑑み」という語句は、国の教育環境整備への努力義務について趣旨を説明する意味は認められるが、規範としての内容には欠けている。

もっとも、憲法は理想や理念を書くものだという観念は広く流布しており、第9条は「平和主義」、第25条ないし第28条は「福祉主義」と総括されている。こうした立場からは、政治理念やそれに似た宣言を強く打ち出す規定がむしろ魅力的に映ることもあるだろう。

しかし、憲法も法である以上、人の行動を規律するものであり、国民の権利・義務を定めるか国家機関の組織・構成に関する規範を定めることを基本とする。この意味で憲法典の規律の実効性を確保するという立場からは、規定内容は実効規範型のスタイルであることが望ましい。実効的で実務的な規範であるなら大方の合意は得られやすいが、理念宣言型の規定はイデオロギーを伴いがちで、理念のぶつかり合いになって合意を調達しにくい。

なお、憲法改正問題を国民の関心度や世論の盛り上がりということと結び付けて論じる傾向もある。しかし、国民の関心や世論の動向いかんによって憲法問題として議論すべき課題が消えてなくなるわけではない。それを取り上げて国民に知らせ、その判断を仰ぐのが政治の使命というものであろう。

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大石 眞(京都大学名誉教授)
大石 眞(京都大学名誉教授)
1951年生まれ。京都大学法学研究科教授等を経て、同大学名誉教授。首相公選制を考える懇談会委員、衆議院選挙制度に関する調査会委員を務めた。著書に『日本憲法史』(講談社学術文庫)、『憲法講義Ⅰ・Ⅱ』(有斐閣)、『憲法史と憲法解釈』(信山社)、『統治機構の憲法構想』(法律文化社)など。

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