民主社会の正統性が問われている

森本 あんり(国際基督教大学教授) 聞き手:『Voice』編集部(中西史也)

本稿は『Voice』2020年8月号に掲載されたものです。

人類は危機に直面するたびに、精神的拠り所を求めてきた。コロナ禍で宗教の役割は変容するのか。パンデミックで求められる指導者の資質とは

信徒の多くは信仰で感染を防げるとは考えない

――新型コロナウイルス蔓延の影響で世界では礼拝や巡礼が見送られる一方、韓国のキリスト教系団体でクラスター(集団感染)が発生するなど、感染拡大の温床となるケースもありました。今回のコロナ禍と宗教との関係性をどう見ますか。

森本:まず宗教を生活感覚から説明すると、二つの側面があるように思います。一つは、思想的な世界観の形成です。いわば、宗教が身の回りの世界を説明する原理になること。もう一つは身体的な表現行動で、これは信者の日常生活の習慣を形成します。具体的には礼拝などに集まることですが、素朴な体感としては宗教的な意味よりも「信仰を同じくする人びとに会いに行く」という社会的な機能のほうが強い。要するに、クラブ活動のようなものでしょうか。仲間と一緒に話したり、歌ったり、祈ったりしたい。そこに今回のコロナ禍が起きたわけで、そうした活動ができなくなったことが信徒にとっていちばん辛いところでしょう。

一部のイスラム地域や韓国では、信じていれば神が護ってくれるから感染しない、と主張する指導者もいました。しかしそれは、ごく限定的な逸脱です。大多数の信徒は、信仰で感染を防げるとは考えないし、感染拡大阻止のために実際的な行動指針を出した医者の信徒グループもいます。WHO(世界保健機関)も宗教集団の存在の大きさを理解しているので、専門家チームに宗教指導者を入れて諸宗教へのガイドラインを提示しました。

――有史以来、人類は感染症のパンデミック(世界的大流行)に向き合ってきましたね。

森本:アルベール・カミュの小説『ペスト』には、ペストの蔓延に直面する人びとの姿が描かれています。カミュはペストの流行そのものを経験して書いたわけではありませんが、その描写があまりにいまの状況とそっくりで、私も今回あらためて読んで驚きました。ロックダウン(都市封鎖)で人びとの暮らしがどう変わるか、商取引や旅行の計画など、日常生活のすべてがなぎ倒される様子がリアリティを帯びて描かれている。

『ペスト』が与えてくれる示唆はそれだけではありません。疫病は、一方で地位や階級にかかわらず人びとを襲う平等さをもつものの、他方で貧しい家庭は食べるのにも窮し、裕福な者は何一つ不自由しない、という平時の不平等を顕在化させてしまう。現在われわれは「オンライン」化の味気なさを嘆きますが、当時はそれが「電報」化だったし、新型コロナで自宅に缶詰になることを日本では「巣ごもり」と言いますが、カミュは「自宅への流刑」と表現している。他にも、混乱に乗じて金儲けをたくらむ男が現れたり、やがてゆっくりと感染症が収束に向かったりする様などは、現下の状況と酷似していて震撼させられます。

『ペスト』が示す、「手当をする」意義

――『ペスト』ではイエズス会の高名な神父が登場するなど、宗教との関わりも描かれています。

森本:はい、小説の行間に滲み出ている最大の問いは宗教でしょう。カミュ自身、この小説は自身の作品のなかで「最も反キリスト教的」だと語っていたようですが、私にはもう少し違う問いかけがあるように思えます。

――どういうことでしょうか。

森本:一つは、アルジェリア出身のレジスタンスだったカミュらしい反知性主義の精神です。彼が反発しているのは、フランスのカトリック教会という巨大な権力システムで、宗教や信仰そのものではありません。

『ペスト』に登場する神父を、主人公のリウーはこう評しています。「彼は書斎の人間だから、人の死ぬところを十分見たことがない。だから真理の名において語ったりする。でも、どんなつまらない田舎の司祭でも、ちゃんと教区の人びとに接して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、悲惨のすぐれた効能とか語らないで、まず手当をする」。つまり、インテリの権威ある神父が垂れるもっともなご高説などには何の興味もないが、田舎の司祭が人びとの暮らしのなかで日々果たしている地道な役割には、一種の共感をもっているのです。

もう一つ挙げるならば、リウーの台詞の「手当をする」という言葉にも表れていますが、一種のアクティヴィズムです。われわれは危機に陥ると、つい大仰で神学的な問いを発してしまいます。「神はどこにいるのだ」「宗教の意義は何か」という具合に。でも、そんな高尚な議論はどうでもいいのだ、とリウーは語りかけているのではないか。私はそう捉えました。「僕が憎んでいるのは死と不幸です」と彼は言う。信仰を抱いているか否かなど、実際のところどうでもいい。目の前で苦しむ人のために何かをしたい。カミュ自身がそう思索していたからこそ、「神は信じないが、聖者になりたい」という献身的な奉仕者を描いたのです。

こういうアクティヴィズムは、キリスト教の歴史のなかで幾度となく生まれてきました。ヒットラー暗殺を計画して逮捕・処刑されたドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーもそうですし、そもそも新約聖書のイエス自身がそうでした。生まれつき盲目だった乞食を見て、弟子たちが「あの人が盲目なのは誰のせいなのか」と尋ねると、イエスは問いに答えずに、その人を癒やします。弟子たちはそこにいて苦しんでいる人を、まるで神学の教材のように使っている。まったく無関心な傍観者なのです。イエスはそういう知的問答を拒否して、その人を「手当した」わけです。カミュの言う田舎司祭と同じです。

宗教は自分を納得させるためのストーリー

――キリスト教根本主義者のなかには「コロナは神による罰だ」と主張する人もいます。『ペスト』に登場した神父も当初そう訴えましたが、想像を超える感染爆発で言動に齟齬が生じていきます。

森本:小説のなかでは、無垢の子どもがペストに冒され、苦しみながら死んでゆく描写があります。神父の祈りも聞き届けられません。そこでリウーは怒りを吐き出します。「子どもたちが責めさいなまれるような世界を作る神なんて、絶対に受け入れられない」。こういう問いを「神義論」と言いますが、宗教はいずれもこの問いに何とかして答えようとする人間の試みです。マックス・ヴェーバーは、20世紀初頭のドイツ大衆が信仰をもたない最大の理由は「いわれなき人生の苦難」だ、という分析を示しています。

疫病だけではありません。地震や津波のような天災の際にも、この問いは繰り返されてきました。フランスの哲学者ヴォルテールがライプニッツの楽観論に疑問を抱いたのも、リスボン大地震がきっかけです。同じ問いをアウグスティヌスはローマ帝国の滅亡期に問うていますし、旧約聖書の「ヨブ記」は、そもそもこの問いを中心に書かれたものです。

もし皆さんが口うるさいキリスト教徒を黙らせたいと思ったなら、絶対に成功する方法があります。「全知・全能・全愛の神は、なぜこの世の悪を防げないのか」と問いかけてみてください。悪の存在は、神のこの3要素のどれかを否定しないと答えられません。たとえば遠藤周作が描くイエスは、「全能」を諦めた姿です。キリスト教に限らずどの宗教でも、こうした問いへの一般的な答えは用意されていると思います。しかし、それで苦難の渦中にある本人が納得できるかは別問題です。

――宗教は万能ではないし、そのことを宗教者自身も認識している。

森本:まさにここに、はじめに申し上げた宗教のもう一つの役割があるように思います。宗教は、理不尽な苦難に襲われた人がそれを「整合的に理解」するための枠組みを提供します。ただし、あくまでも自分が納得するための世界理解なので、出来合いの議論だけでは足りません。各自が本人なりに加工して、自分だけに納得感のあるストーリーがつくられるのです。他の人には愚かに聞こえるかもしれない。でも本人にはそう信じるほかにない、という差し迫った現実感があるのです。

だからそれは詐欺や陰謀論と紙一重です。現代社会でフェイクニュースや陰謀論が流行るのも、同じ理由でしょう。日本人の多くは、アメリカ社会でどうしてあのような大統領が支持され続けるのかを理解できずにいますが、それはわれわれが大都市ばかりを見ているからです。グローバル化で地盤沈下した地方のアメリカ人には、そうとでも理解しなければ自分が崩壊してしまうような現実が目の前にあるわけです。

――ドナルド・トランプ米大統領は「忘れられた人びと」に対して、彼らが信じたい「偉大なアメリカ」という物語を明快に語り、支持を伸ばしましたね。

森本:われわれの周囲にも、同じような例はあるでしょう。ひと昔前のお年寄りは、酔っ払うと必ず戦争中の話をしたものです。あれは、その人にとってそうとしか理解できない苦悩の現実があって、ストーリー仕立てで語っているのです。なかには思い違いや明らかな嘘が含まれているかもしれない。でも、本人は過去のストーリーを自分なりの解釈で語ることで、自らの人生を首尾一貫して理解したいのです。それは、自分の心の真実に最も近い「ディープ・ストーリー」です。そう語ることで自分を癒やし、アイデンティティの中核を何とか維持しようとしているわけです。

宗教は科学の代わりにはならない

――コロナ禍によって宗教という一つの大きな権威が揺らぐことで、世界にどのような影響をもたらすでしょうか。

森本:そんな予言は私にはできませんが、大きく分けて二つの見方があります。一つは衰退論です。はじめに触れたように、宗教には礼拝などの日常的な行動パターンが付き物で、これは明らかに大きなダメージを受けています。営業自粛中の飲食店と同じで、とにかく「お客さん」が来ない。教会の財政は献金で成り立っていますから、経済的にも大打撃です。もちろん、いまではオンラインで礼拝や献金ができます。それでも献金額は激減し、教会によっては閉鎖を余儀なくされるでしょう。

もともとヨーロッパでは、礼拝に来るのはお年寄りと移民が多かったのですが、どちらもコロナの影響で大幅に減ってしまった。ウェブ配信の礼拝も行なわれていますが、急場しのぎで限界があります。信者からすれば画面を観るだけですからいかにも受動的で、自発的な行為がないからです。これは大学のヴィデオ講義と似ています。そして習慣である以上、いったん途切れた礼拝が、のちに元に戻るかどうかは未知数です。

宗教指導者の権威という面では、従来の教義や戒律と矛盾する指針を出さざるをえなかったことをどう受け止めるかです。カトリックならミサに出席することは義務だったのに、来なくていいと言う。ユダヤ教では、少なくとも10人が集まらないと公的な礼拝は行なえないことになっていた。スリランカでは、火葬を嫌うイスラム教徒にも政府がそれを命じて、宗教と政治の緊張が高まった。信者の大切な義務であるメッカへの巡礼ですら、延期が薦められています。

もう一つの見方は、衰退論とは正反対の信仰復興論です。歴史を生きてきた宗教にとって、じつはこうした危機は過去に何度も経験済みで、そのたびに新しい適応がなされて再興しました。絶望の淵に置かれると、人は光明を求めます。「塹壕のなかに無神論者はいない」と言われるとおりです。グーグルの検索語ランキングでは“prayer”(祈り)という言葉がうなぎ登りだと言いますし、アメリカ人の4人に1人は「困難な状況にあるいまこそ信仰心が強くなった」と答えています。

――カトリック教会の頂点に立つローマ教皇は、新型コロナへの対応について、精力的にメッセージを発信していました。

森本:以前は高位聖職者や警護に囲まれて遠い存在だった教皇が、いまはヴァチカンの広場からぽつんと1人で信者に直接語っている。その姿に、かえって親近感が増したという声もあります。

もともとローマ帝国時代にキリスト教が広まったのは、国教化以前の迫害されていた時代に、「人びとと苦難をともにする救い主」が認知されたからでした。まさしく危機の時代に「手当をする」宗教です。その姿は、声高に真理を語るような体制派の組織宗教や、大きな聖堂・社殿・寺院を誇る成功者の宗教ではない。昨年12月にアフガニスタンで亡くなったクリスチャンで医師の中村哲さんのように、胸中深くに蓄えた信念から腹を括って自分がなすべきと信ずる働きをする人、つまり「手当」を地道に続ける身近な人の集まりになるのかもしれません。

――感染症への対処において医学や科学の重要性が高まる一方で、宗教の役割は動揺するのでしょうか。

森本:医学や科学と宗教を同一線上に並べるのは間違いです。かつてオウム真理教は、最先端の科学でも辿り着けない境地へ、宗教によって到達することを掲げました。でも、宗教は科学の代わりにならないし、その逆も然りです。どんなに科学が進歩しても、世界は不条理であり続けます。そして人間は、それでも世界を理解したいという理性の要求をもち続けるのです。

じつはカミュも、同じことを訴えているように思います。人生の不条理は神がいても理解できませんが、神がいなくてもやっぱり理解できないのです。とりわけヒューマニスト(人道主義者)は、天災が理解できない。人間の尺度と一致しないからです。だから彼らは天災を非現実的なものとみなし、やがて過ぎ去ると思っていたのに、結局過ぎ去ったのはそう考えている人間たちのほうだった。

だからカミュは「宗教をなくせば世界はうまくゆく」などという能天気な楽観論には加担しないはずです。宗教は今後も役割を果たしていくでしょう。その表現形態が変わるだけです。

戦後日本の経済至上主義による弊害

――日本は諸外国に比べると相対的に、信仰を拠り所にする度合いが小さいように見えます。わが国の宗教との関係をどう捉えていますか。

森本:日本でとくに気になるのは「手当をする」人の存在が圧倒的に少ないことです。子どもやお年寄り、貧困者や社会的弱者のケアをしているのは、どこの国でも宗教団体です。キリスト教やイスラム教はもちろん、仏教でもアジア諸国ではそういう役割が大きい。しかもそれは、専従者や一部の熱心な人だけでなく、多くの一般信徒が関わる日常作業です。日本では、そういう民間のセーフティ・ネットがいっそう薄くて頼りなくなったように思います。

――なぜ、そうなってしまったのでしょうか。

森本:おそらく、戦後の日本が経済至上主義と自己責任論でがむしゃらに成長してきたことと無関係ではないでしょう。教育も医療も福祉も、効率だけを指標にして無駄を削ぎ落としてきた。そういう政策は、人間が世界を合理的に設計しコントロールできると考える、時代遅れの知性の産物です。パンデミックや原発事故、経済不況は、自然も人間も社会も想定外のリスクを内包した不条理な現実であることを思い起こさせてくれます。

――コロナ禍で世界が協調するどころか、むしろ国家間対立が先鋭化しています。「自国第一主義」が広がるなかで、各国の指導者はいま何をすべきでしょうか。

森本:私の言葉で表現すると「信憑性構造」を維持することです。個々の政策以前に、それらを立案し遂行するための基本的な土台のところで、民主社会の正統性要求に疑念を抱かせないことです。とりわけ非常時には、誰もが当然のように前提としていた正統性に亀裂が生じます。李下にあえて冠を正すような行為は、いくら国会答弁を上手に切り抜けても、結局は信を失います。

かつて人びとに尊敬される職業といえば、政治家や警察官、学校教師などでしたが、いまやどの国でも大きく様変わりしました。それでも、宗教指導者はいまだにその対象であり続けています。日本とは少し前提が違いますが、軍も長い伝統をもった準宗教的な象徴システムで、社会の信憑性構造を維持する重要な組織です。ほかにもコロナ禍でいえば、若者に人気のアーティストが責任ある正しい情報を発信して影響力を行使しています。宗教指導者も、同様の役割を担うことはできるでしょう。何せ世界人口の8割は、何らかの宗教を信じているのですから。

ただし、もともと宗教的でない人物が宗教の力を借りようとするのは、逆効果で滑稽なだけです。6月1日にトランプ大統領がセント・ジョンズ教会の前に立ち、聖書を手にして秩序の必要性をアピールしましたが、とくに政治家が宗教を「利用」するのは、政教分離原則からして悪質です。あの場面には、制服組の軍高官の姿も見えました。トランプ大統領の登場以前から私が危惧していたことですが、軍の忠誠が自国の市民と文民統制上の最高司令官とのどちらかを選ばねばならないような事態は、統治構造の正統性に深刻な疑義をもたらすことになると思います。

※無断転載禁止

森本 あんり(国際基督教大学教授)
写真:遠藤 宏
森本 あんり(国際基督教大学教授)
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)人文科学科卒業。東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了(Ph.D.)。専攻は組織神学。プリンストン神学大学客員教授、バークレー連合神学大学客員教授を経て、2012年より20年まで国際基督教大学学務副学長。著書に『反知性主義』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)など。

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