世界が迎える大転換と日本の課題

中西 寛(京都大学法学研究科教授)

本稿は『Voice』2020年7月号に掲載されたものです。

わが国はいまこそ「知の自立」を果たさなくてはならない――。100年前のスペインかぜと今日のパンデミックを取り巻く相違をふまえつつ、コロナ以後の世界と日本を問う

コロナ以後の世界の見方

新型コロナウイルス肺炎(Covid-19)が昨年末に中国の武漢市で流行し始めてからわずか数カ月のあいだに、この肺炎は地球全体を覆う感染症、すなわちパンデミックとなった。世界中の大都市で外出抑制策が採用され、SF映画のような風景が展開している。「コロナ流行開始後(アフター・コロナ)」の今日からすると、「コロナ以前(ビフォー・コロナ)」の時代こそ夢であったかのように錯覚するほどである。その一方で、流行の第一波が収まり始めた国もあり、「コロナ収束後(ポスト・コロナ)」や「コロナとの共生(ウィズ・コロナ)」といった言説が飛び交い始めている。今後の流行とその対策について確言できる人は誰もおらず、未来について語るのは明らかに早すぎる。それでもわれわれは考え始めなければならないし、その際に手がかりとなるのは人類の過去の経験としての歴史であろう。

その点で、今回のパンデミックに伴い、約100年前に人類が経験したインフルエンザ・パンデミックに関心が集まるのは自然である。第一次世界大戦末期、中立国だったスペインで大きく報じられたために「スペインかぜ」の名称が定着してしまったが、流行開始地はいまも特定されておらず、アメリカか中国と推定されている。いずれにせよ数年間の流行期間中に世界で数千万人の死者を出したと推定される大流行だった。

たしかにインフルエンザ・パンデミックの経験はさまざまな点でわれわれにとって示唆を与えるものである。とはいえ、前回の経験を過剰に現在に当てはめることもまた誤りであろう。とくに注目したいのは、大量の死者を出したこのパンデミックがその後、忘れられてしまったことである。今回の流行に伴って一挙に知られるようになったクロスビーの『史上最悪のインフルエンザ―忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、原著初版1976年)や速水融の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店)は、いずれもこの流行がその後のアメリカや日本において忘れられたことを強調している。

二度の世界大戦の戦死者を合わせたよりも多い死者を出したかもしれない大流行が忘れられてしまったのは、いまでは信じられない気もするが、主に二つの理由が考えられる。第一は、このパンデミック以降の医学の発達により、もはや人類が感染症を克服したと考えられた時期が存在したことである。第二は、20世紀前半の人びとの価値観のなかでは、感染症よりも戦争や革命といった政治的、社会的問題のほうが重要であり、感染症はその死者の多さにもかかわらず、人びとの意識のなかでその陰に隠れてしまったという事実である。

おそらく、今回のパンデミックは両方の点で100年前とは異なるものになる。本論では100年前と今日のパンデミックを取り巻く相違にも注意しつつ、コロナ以後の世界のありようについて論じてみたい。

21世紀型パンデミック

天然痘やペスト、コレラといった感染症が人類史に与えた影響も最近ではくり返し語られるようになった。しかし短期間で地球全体を覆うような感染症の流行が始まったのは19世紀末以降ではないかと思われる。1918年のインフルエンザ・パンデミックの前に1889年から数年間、ロシア支配下の中央アジア発祥とされたインフルエンザが世界的に流行した。

同時にこの時代は感染症に対する医学の長足の進歩をみた時代だった。1870~80年代にドイツのロベルト・コッホが炭疽菌や結核菌を分離し、病原菌の存在を科学的に証明するとともに、弱毒化した病原菌によるワクチンの手法も確立した。これらは細菌と呼ばれる微生物だったが、1890年代に細菌とは異なるウイルスの存在が推定され、1918年のパンデミックの際にインフルエンザ・ウイルス説が唱えられ始め、1933年になってウイルス説が確定された。その少し前、1928年にはイギリスのフレミングが有名な偶然によって細菌を殺すペニシリンを発見したのち、人体を害さずに細菌を退治できる抗生物質が次々と生みだされた。

これらの医学的進歩は第一次世界大戦後から実用化され始め、第二次世界大戦後に黄金期を迎えた。細菌病に対してはワクチンないし抗生物質が、インフルエンザのようなウイルス病に対してもワクチンが実用化された。世界保健機関(WHO)がヒト感染型ウイルスによって起きる天然痘の根絶を宣言した1980年5月8日が、感染症に対する人類の勝利にもっとも近づいたと思われた瞬間だったといえよう。

しかしこのときすでに、人類は新たな病原菌の脅威と向き合い始めていた。インフルエンザは定期的に遺伝子型を変えて流行をくり返しており、「忘れられていた」インフルエンザ・パンデミックに関する研究が本格化したのもこの時期である。インフルエンザもそうだが、ヒトと獣のあいだで感染・変異するウイルスによる新たな人獣感染症が次々と登場し始めた。エボラ出血熱、HIV、そして21世紀に入って、それまでカゼ・ウイルスとして軽視されてきたコロナウイルスが強毒化してSARS、MERS、そして今回の新型コロナウイルスを生みだしてきた。

これら人獣感染症の増加は、人口増・都市化による人類と野生動物の接触頻度の増大と、人間の移動量とスピードを加速したグローバル化によるものと考えられる。これら新興感染症の多くに対しては効果的なワクチンも治療薬もまだ存在しない。もちろんゲノム解析などのテクノロジーの発達は人類の強力な武器である。しかし人間の抗体については未解明な点が多く、感染に対して効果的な抗体を生みだすワクチンが開発可能か否かは長い実験を経なければわからない。また、抗ウイルス薬も開発されているが、これは抗生物質とは異なり、人体に有害な副作用をもつことが一般的で、効果と副作用の微妙なバランスをみつけ出すうえで多くの困難がある。

抗生物質が著効を示した細菌すらも、人類は克服できていない。近代医学が世界的に普及し、抗生物質が多用されることに伴って複数の抗生物質に対して抵抗力をもつ多剤耐性菌が生まれつつある。もし多剤耐性菌が本格的に流行すれば、人類の利用可能な対抗手段は100年前とそれほど変わらないだろう。

このようにみると、今回のコロナ・パンデミックが発生した2020年という年が、100年前のインフルエンザのように「忘れられる」ことはあり得ないだろう。今回のコロナウイルスに対するワクチンや治療薬はいずれ開発されうるはずだ。しかし過去20年以内に三つの新型を生みだしたコロナが次の新型を生みださない保証はないし、インフルエンザや未知のウイルス、細菌によるパンデミックも十分に起きうるだろう。人類が過去150年程のあいだに積み上げた医学的能力は偉大だが、自然界に存在するウイルスや細菌の適応力に比べるとごくごくかぎられた力にすぎないことを、今回のパンデミックは示したといえるのではないか。

社会的弱点をつくゲリラ戦型ウイルス

このこととも重なるが、今回のパンデミックは人類が20世紀のあいだに忘れていた、感染症に対する社会的対応をもう一度考え直す必要性を示している。感染者の発見と隔離は人類がワクチンや抗生物質、ゲノムを知らない太古の昔から感染症対策で行なってきた原始的方法である。今日の都市や交通機関はその人口集積や移動量に比してこうした機能を驚くほど無視してきた。そのために2020年の世界はコロナの脅威に驚き、脊髄反射的な都市封鎖や国境封鎖の手段に頼らざるを得なかった。

もちろん人類はパンデミックの到来を予見していなかった訳ではない。一般向けの映画でも感染症の恐怖が迫真の緊張感で描かれた作品は少なくない。さらに、世界の専門家、研究機関によってパンデミックの可能性は科学的に検討され、警告が発せられてきた。今回のパンデミックに対して世界の感染状況の統計を公開しているジョンズ・ホプキンズ大学は世界有数の専門機関の一つである。この大学は2018年5月に「クレードX」、昨年10月に「イベント201」と名づけられたパンデミック・シミュレーションを行ない、後者では新型コロナ感染症が世界で6500万人を死亡させると仮定した。今回のコロナ・パンデミックは専門家にとって想定外ではなかったのである。

しかしこれらのシミュレーションが示したのは、対応能力の脆弱性と混乱であった。「クレードX」ではパンデミックの発生に伴い各国が旅行規制を導入するなかで、アメリカが国境規制を導入すべきか否かを巡って論争が起きた。専門家はアメリカが国境を閉じることで医療品のグローバル・サプライ・チェーンが分断され、被害が拡大するとして反対したが、元政治家が演じた政府高官は、医療品の不足状態を前に国境規制を導入することは政治的必然だと主張した。今回のパンデミックに際して旅行規制に反対したWHOと、それを無視して旅行規制、国境封鎖を導入していった各国の対立も予測されていたのである。

「イベント201」と並行して同大は「グローバル・ヘルス・セキュリティ・インデックス」という報告書を公表し、各国の対応力のランキングを示している。その第1位はアメリカであり(第2位はイギリス、韓国は9位、日本は21位、ブラジルは22位、イタリアは31位、中国は51位である)、今年2月の記者会見でトランプ大統領はこの報告書を紹介してアメリカは第1位と誇った。しかし報告書の全体総括の冒頭には「国家ヘルス・セキュリティは世界全体を通じて根本的に弱体である。どの国も地域的疫病及びパンデミックに完全な準備はなく、すべての国が対応すべき重大な欠陥を有する」と明記されている点は無視された。

トランプ政権の新型コロナへの対応が当初遅かったことは明白だが、政権とその支持者は責任追求の矛先を中国の隠蔽とそれを覆せなかったWHOに向け、オバマ前政権の関係者を含む政権批判派は専門家の意見を無視するトランプ大統領の姿勢を批判する。パンデミック対応を巡る論争はトランプ政権下で極限にまで進んでいるアメリカ政治の党派的対立を変えることなく、共和党支持者の8割以上が大統領の対応を支持し、民主党支持者の8割以上が反対している。

ただし、新型コロナへの対応を巡る論争はアメリカに限定されず、世界的である。この点が専門家たちも十分に予想できなかった新型コロナの巧妙な点であろう。このウイルスの致死率はそれほど高くなく、発見されにくいかたちで感染を広める特性をもっている。かつてのペストや最近のエボラ出血熱のように誰の目にも致死性が明らかならば社会は一致団結して封じ込めに走るし、逆に普通のコロナウイルスのようにたんにカゼを広めるだけなら通常の社会生活が営まれる。しかし新型コロナは徹底対応も無視もできない程度の脅威を与え、「医療か経済か」という困難な選択を迫り、社会を混乱させる。

人間と病原体の戦いという視点でみるなら、新型コロナは恐らく史上初めて人間が向き合う、ゲリラ戦型のウイルスではないかと思う。つまり、人間の医学的能力に対して致死性や感染力で直接対抗するのではなく、医療体制の背後にある人間社会の弱点を攻撃することで自らの繁殖圏を広げる性質をもっているようにみえる。

グローバリゼーションの転機

このようなウイルスが登場し、世界を塗り替えるパンデミックを引き起こしたことには構造的背景があるだろう。それはグローバリゼーションが単一の価値基準によって極限まで合理化され、それによって社会的脆弱性を堆積させていたことである。

上述したような新興感染症の流行は1980年代以降アメリカを中心に本格化したグローバリゼーションの拡大と軌を一にしてきた。グローバリゼーションはヒト、モノ、カネ、情報の国境を越えた移動性の加速として定義できるが、この動きを主導してきたのはカネ、すなわち金融資本主義であったといえるだろう。株主主導の企業経営が生産のグローバル・サプライ・チェーン化を加速し、国境を越えた情報テクノロジー企業を生みだし、世界中を駆け巡るビジネス客や観光客、移民の流れを後押ししてきた。その流れに巻き込まれたソ連東欧の旧共産圏の体制は崩壊し、また、中国やベトナムなどの社会主義国も市場経済化を進めてきた。

しかし単一の価値観、この場合は資本の論理で社会を合理化していくことは社会の多様性を損ない、脆弱にする性質をもつ。すでに9・11事件はテロリズムに対するグローバル化の脆弱性を示した。2008年のリーマン・ショックは過剰な資産バブルのリスクを顕在化させ、また、グローバリゼーションに取り込んだと思われた中国やロシアは、デジタル技術で武装した独裁国家としてアメリカが主導する国際秩序への挑戦者として成長していた。さらに社会のデジタル化によって普及したSNSは政治過程を変容させ、社会のなかで異端視されてきた政治運動をポピュリズム運動として顕在化させ、自由民主主義社会に政治的分裂をもたらしている。これまで、テロも、バブル崩壊も、大国間の対立も、ポピュリズムも止めることができないでいた金融主導のグローバリゼーションに対して、かつてないリスクとして登場したのが今回のパンデミックである。

その兆候が示されているように、現在のパンデミックはすでに存在している政治的、経済的、社会的亀裂を解消するよりも拡大する方向に作用しつつある。経済面ではマネーを軸に高速に回転していたヒト、モノの動きが急減速し、政府が打てる経済対策はかぎられている。この状態が長期化するにつれて、「医療か経済か」や「公共の安全かプライバシーか」といった基本的な対立が先鋭化することが予想される。世界を主導すべき米中二大国は国内体制の安定を優先して双方を非難し合い、国際協力を支えるべきWHOも政治的対立に巻き込まれて機能を発揮できていない。

100年前のパンデミックは、その前にサラエボから突如始まった第一次世界大戦に続くかたちで発生したために長く歴史の陰に忘れられた。今回は中国武漢から始まったパンデミックが、世界を経済混乱と場合によっては戦争の渦に巻き込む起点になる可能性も、あながち否定できないだろう。

新しき社会

もちろんこうした暗い未来は必然でなく、回避可能と考える。しかしそのためにはわれわれの目の前にある現実を読み直す新しいビジョンが必要だろう。

マネーを主軸にして極限まで進もうとしてきたグローバリゼーションは、すでにその内的論理によって変容しようとしている。リーマン・ショック後の西側世界が10年以上にわたって続けてきた非伝統的金融緩和政策は、すでに資本市場を実物経済と別の論理で動く存在にしてしまった。4月から5月にかけてアメリカでは今年第1四半期のGDPが年換算で4.8%減少するとか、4月の失業率が大恐慌期以来の14.7%に上昇するといったニュースが流れた。しかしそのいずれの日も米株式市場は上昇したのである。もちろんさまざまな要因が絡む株式市場の動きについて理由づけはみつけられよう。しかし株式市場は中央銀行の金融緩和政策と事実上一体化しており、金融緩和からの脱却は極めて困難となっている。もはや株式の動きは、実態経済よりも政府の政策を反映して動くのが常態となっている。さらにコロナ・ショックの前から先進国での財政拡張への期待は強まっており、ヘリコプター・マネー、現代通貨理論(MMT)、ベーシック・インカムといった従来の資本主義のルールを超えるような処方箋が提示されていた。これらの見解は極論とみなされているが、コロナ・ショックにより、財政もまた理屈を抜きにして非伝統的な領域に入り込みつつある。

これほどの金融拡張を行なってきても資本主義経済はインフレにならない。これは現代の経済構造が20世紀型のそれから変化し、とくに需要構造が質的な変化を迎えている証左ではないだろうか。現実のわれわれの生活をみても、多くの分野でシェア・エコノミーやサブスクリプションといった非所有型需要が一般化しつつある。物の需給と所得・雇用のあいだに一定の関係が成り立っていた20世紀中期の工業経済は過去のものとなっており、パンデミックはその傾向を加速させている。

20世紀前半を代表する2人の経済学者、ケインズとシュンペーターは社会主義に対して資本主義を守るために力を尽くしたが、遠い将来には資本主義以外の社会を展望していた。シュンペーターは第一次世界大戦末期の講演録『租税国家の危機』において、現在において租税国家は存続するが、遠い将来には租税国家は変わりうると説いた。ケインズは大恐慌が始まったころに「孫の世代の経済的可能性」を書いて、現時点では資本主義体制は生き残るだろうが、100年後には経済的ニーズが充足され、市場競争を脱した定常社会が訪れることを予想した(シュムペーター、木村元一訳『租税国家の危機』〈岩波文庫、1983年〉、ケインズ、山岡洋一訳『ケインズ説得論集』〈日本経済新聞出版、2010年〉所収)。もちろん彼らは技術的進歩を含めた今日の社会を予想していた訳ではない。しかし資本が無制限に供給され、租税国家の構造が大きく崩れつつある今日、資本主義は市場経済以外の何ものかに変貌しつつあるのではないだろうか。

経済社会において、カネとモノの相対的な重要性が低下するのと反比例して重要性が増しているのが、ヒトと情報であろう。情報、とりわけITテクノロジーが可能にしたデジタル情報化、ヴァーチュアル世界の威力をこのパンデミックでわれわれはまざまざとみせつけられている。ヴァーチュアルな世界がリアルな世界に置き換えられる傾向がさらに強まれば、大都市に集住する必要性は低下し、また遠距離をヒトやモノが物理的に移動することに伴う時間やエネルギーの消費を抑えることができるだろう。

しかしまた情報技術の進展は、ヴァーチュアル化やデジタル情報化で置き換え不可能なもの、リアルな人間の交わりが人間にとってもつ意味空間の価値を気づかせ、さらに高めうる要因となろう。それは医療や介護、物流といった現在エッセンシャル・ワークと呼ばれるものであったり、人間が場を共有することでうる深い意味を伴うコミュニケーション、すなわち文化であったりする。

あらためて日本は「知の自立」を

マネー中心のグローバリゼーションとはやや異なったかたちで、日本の政治経済社会もコロナ・ショック前にある種の限界を迎えつつあった。日本はグローバリゼーションに一定範囲で適応しつつも、戦後昭和の工業文明時代の枠組みもできるだけ維持しようとしたのである。しかしこの「良いところどり」の日本型モデルの前提は崩れはじめていた。そのことはじつにさまざまな局面で表れていたが、多くの問題に共通していたのは、少子化に伴う人手不足によって、グローバリゼーションのなかでも国内においては昭和時代のアナログ的な仕組み・文化を維持することがほぼ不可能になりつつあったことであろう。それはたとえば、平成時代に24時間化で躍進したコンビニ・チェーンが相次いで人手不足のために業務形態を縮小し始めたことにすでに表れていた。こうした仕組みの問題は、今回のパンデミックにより、日本国内でのみ用いられるハンコ文化や、保健所からの電話による接触者追跡、FAXによる情報管理から郵送での給付金手続きに至るまで、さらに明らかにされたのである。

しかし同時に、日本企業の大きな内部留保や、長年にわたり感染症に苦しんできたことからくる衛生習慣(マスクの普及は100年前のパンデミック以来だし、新型コロナへの効果が語られるBCGが日本で普及しているのは結核の中蔓延国だからである)はパンデミックにおいても有利に作用しているのかもしれない。総じて、人間社会のすべてをデジタル化していくことはできないし、アナログ的な要素は人間の強みである。情報テクノロジーの発達という必然的な環境のなかで、デジタル化、ヴァーチュアル化すべきものと、できないもの、すべきでないものの切り分けと組み合せが今後の世界的課題となるであろうし、日本が自らの実践を鋭ぎすますことによって世界に貢献できるあり方ではないだろうか。

たとえば、これまでの日本のコロナ・パンデミック対応を巡って、感染者数や人口当たり死者数が欧米主要国と比して少ないことから、「日本モデルの成功」といった評価がでている。逆にクルーズ船内の防疫体制の混乱やPCR検査の絞り込みなどを批判して、日本の失敗を難ずる声もある。しかし世界に貢献するのは、客観的な分析を踏まえた教訓であり、情緒的な成功失敗の評価では世界にとって役に立たず、特異例と扱われるだけに終わってしまう。それでは、国際的な力にはならない。

同様に、日本は自らの利点と弱点を普遍的な価値基準で分析し、ビジョンをつくっていく必要がある。必要なのは「舶来輸入」の拝外主義でもなければ「日本礼賛」の排外主義でもなく、客観的、包括的視点からの自己評価であり、ビジョンの構築であり、課題の設定である。昨年6月号の本誌において筆者は「知の自立」こそ令和時代の日本の課題だと説いた(「冷戦後の30年とは何だったのか」本誌2019年6月号)。パンデミック下の世界にあってあらためて感じるのは、自らを徹底的に客観化するという意味での知の自立の必要性である。

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中西 寛(京都大学法学研究科教授)
中西 寛(京都大学法学研究科教授)
1962年生まれ。京都大学法学部卒、同大学大学院修士課程修了、シカゴ大学歴史学部留学。著書に『国際政治とは何か』(中公新書、読売・吉野作造賞受賞)、『歴史の桎梏を越えて』(共著、千倉書房)、『国際政治学』(共著、有斐閣)などがある。

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