ビジネスとして若者支援に取り組みたい

認定NPO法人 育て上げネット 工藤啓 (聞き手:PHP総研 山田花菜)

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 「平成26年版 子ども・若者白書」によると、2013年には、15~34歳の若者約2,675万人のうち2.2%にあたる60万人が、仕事をしておらず、学校にも通っていない「無業」の状態にあると報告されています。「変える人」No.27では、そうした若年無業者の就労支援に取り組む認定NPO法人「育て上げネット」代表の工藤啓氏をご紹介します。
 
――育て上げネットでは、「働けない」若者の就業支援に取り組まれているということですが、まずは工藤さんが活動を始められたきっかけを教えてください。
 
工藤:20代前半の頃、アメリカのコミュニティ・カレッジで会計学を学んでいたんですが、周囲の友人は、誰も就職の話をしないんですね。みんなが当たり前に起業の夢を語る中で、「日本もあと3年くらいしたら、若者の支援というものが必要になって市場化するから、日本に帰ってビジネスを起こすべきだ」という話があったことがひとつ。
 もうひとつ、私は両親がもともと塾をやっていて、その延長で宿泊型の支援事業をやっていたんですね。なので、生まれたときから、血のつながらない兄弟が30人くらいいて、みんなで一緒にご飯を食べているような家で育っているんです。
 そのふたつが合致して、ボランタリーの非営利活動としてではなく、ある種のビジネスとしてそういう世界をつくれたらおもしろいんじゃないかなと考えたのがきっかけです。
 支援に興味がないとは言いませんが、個人で対人支援を行うとしたら、どんなにがんばっても年間100人くらいが限界です。ですが、年間100人支援できるスタッフ100人と活動することができれば、年間1万人を支援することができます。しかし、当時、保育や介護といった対人支援の業界は、給料も低く、生活が厳しいという話を聞いたので、それでは長く続けることはできないなと。なので、あくまでも経営の側面から、人に対して善き活動をしたいという志をもった方々の生活を安定させられるような事業をつくりたいというのが、当初の目的でした。
 
――アメリカで会計学を学ばれていたというのは、支援活動やNPO経営に活かすためだったんですか?
 
工藤:まったく違います。親も活動を継がせるつもりはありませんでしたし、私もやりたいとは思っていなかったので。
 両親の活動は宿泊型だったので、24時間365日フル稼働なんですね。児童養護施設みたいなもので、その中で子どものひとりとして生きていくという感じ。ずっと一緒にいるので、見ているとやっぱり大変なことも多かった。子どもたちの生活、人生を丸ごと背負うわけですから。家の中にファミコンもたくさんあるし、漫画や音楽のCDやゲームを必ず誰かが持っているので、借りて遊べるという環境ではありましたが、それだけプライベートはなかったんですよね。夢は「鍵っ子」でした(笑)。
 
――まだNPOの概念も日本にはないような時代だと思いますが、ご両親はなぜそのような活動をされていたんですか?
 
工藤:最初はふつうの学習塾をやっていたようですが、当時日本ではいまのように既存のレールの外にいるひとたちの社会的な場がまだ全然整備されていなかったんですね。それでたまたま、障害のあるお子さんをもつ保護者の方から、「塾が夕方からなのであれば、昼間受け入れてくれないか」という依頼があって、引き受けたら、いまで言う不登校とか、引きこもりとか、障害を持っている人とか、少年院を出た人が、どんどん集まってきたらしいんです。
 当時では珍しかったので、全国から依頼があったんですが、あまりに遠いと通えないということで、「じゃあ一緒に住んだらいいんじゃないか」と。スタートは塾らしい塾だったんですが、そこから自立支援型の共同生活塾みたいな活動に変容していったところに、私が生まれたんですね。
 だから本当に生まれたときから、血のつながらないお兄さんが入れ替わりで30人くらい常にいて。血のつながった妹も2人いるんですが、「家族ってなに?」みたいな感じですよね。いまの言葉で言えばダイバーシティにあふれた環境で、「ふつう」ってなんだっけ?というような世界。はじめて「自分の部屋」をもらったのはたしか小5の頃だったんですが、塾のほうで使うコピー機の置き場所が僕の部屋しかなく、みんながコピーをとりに来るので鍵は閉められない(笑)。
 そういうルーツがあったんですが、私自身は両親とは全然違っていて、どちらかというと、資本主義のど真ん中に行きたいというタイプでした。会計を学んで、いずれは金融業界で働いてみたいと漠然と考えていて、大学への編入も決まっていたんですが、コミュニティ・カレッジのビジネス学部の仲間たちから勧められた若者支援ビジネスと原体験が合致したので、とりあえず3年くらいやってみて、ものになりそうだったらその先を考えるし、だめだったらアメリカに帰ってきて勉強し直そうと。そう決めたのが、2000年頃のことですね。2001年に活動を始めて、2004年に法人化して、いまに至ります。
 

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