バングラデシュの村へ最高の授業を届けたい

NPO法人 e-Education  代表 三輪開人

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 「変える人」No.23では、「最高の授業を世界の果てまで届けよう!」というミッションを掲げ、途上国へ映像授業の提供に取り組むNPO法人e-Educationの二代目代表、三輪開人さんをご紹介します。
 
――まずはe-Educationの活動についてお伺いします。途上国を対象とした教育支援に取り組まれているということですが、具体的にはどのような活動をされているのですか?
 
三輪:私たちの活動には、大きく分けてふたつの特徴があります。ひとつは中等教育、つまり高校を目指す中学生や大学を目指す高校生を対象とした教育支援であること。ふたつめは、映像を使った教育支援であることです。日本でいえば全国展開している予備校「東進ハイスクール」さんをイメージしていただくとわかりやすいと思いますが、有名な先生の授業を映像にして、教育機会に恵まれない地方の子どもたちに届ける。e-Educationはそういう教育支援を行っているNGOです。
 
――e-Educationは三輪さんと税所篤快(さいしょ あつよし)さんが共同で立ち上げられた団体ですよね。初代代表は税所さんが務め、2014年7月に三輪さんに代表を交代されたそうですが、活動開始のきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
 
三輪:私とアツ(税所篤快)が出会ったのが、2010年の1月でした。当時二人とも早稲田大学に通う大学生だったのですが、彼はグラミン銀行のグループ組織で、私は株式会社マザーハウスのバングラデシュの工場でインターンをしていて、お互いバングラデシュにいたんです。もともと面識があったわけではなく、共通の友人から、「同じ大学で、同じような社会貢献の志をもった二人がバングラデシュにいるのだから、会ってみたらどうか」という連絡をもらって、会うことになったんです。バングラデシュのグラミン銀行で待ち合わせしたんですが、我ながら珍しい出会い方だなあと思ったので、よく覚えています。
 
――グラミン銀行は、マイクロファイナンスに取り組んでいる機関ですよね。三輪さんはバッグの製造・販売を手掛けるマザーハウスの工場でインターンをされていたということですが、それぞれ金融と製造の業界で活動されていたお二人が、貧困問題へのアプローチとして「教育」という手段を選ばれたのはなぜでしょう?
 
三輪:私の場合は、マザーハウスでのインターンからは本当にたくさんのことを学ばせていただきましたが、同時にバッグ以外にもいろんな可能性があるんじゃないかとも思っていました。こんなことを言うのは非常に申し訳ないですが、私自身はこんな身なりの男ですから、女性用のバッグを心から愛していたとは言えないですし(苦笑)。一方でアツもやはり、マイクロファイナンス以外の方法でもなにか現地に貢献できないかということを考えていました。
 
 そんなときに出会って、いろいろと話しているうちに、お互い東進ハイスクールの出身者だということがわかって、「これだ!」と。私は一浪して大学に入っているんですが、現役時代も浪人時代も東進に通っていて、大学時代も4年間ほぼずっと、東進でアルバイトをして、トータル6年間東進にかかわったという経験があったんです。その時点でアツはすでに動き始めていて、「僕こんなことがやりたいんです」と話してくれたんですが、私も東進とは縁が深かったので、絶対力になれる、プロジェクトを立ち上げようという話をして、いまの活動の原型ができました。

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――一般的に、教育支援というと初等教育を対象に行われるイメージがありますが、敢えて「中等教育」に的を絞られたのは、その時点でなにか見えている課題があったのですか?
 
三輪:そのときの直感と、後付の理由と、それぞれいくつかあるのですが、アツと話をしながら、ひとつはそれまでの自分の人生の転機と言えるものがどこにあるかと振り返ったときに、お互い大学受験が人生の変わり目だったなと思えたことです。
 
 アツは高校時代落ちこぼれと言われていたんですが、東進と出会って、早稲田大学に合格することができた。私自身も、静岡の田舎で生まれ育ったんですが、東進と出会ったことで、東京の大学に行こうと思うことができたという経験があったんです。
 
 もうひとつは、インタビューに訪れたバングラデシュの村の高校生たちとの出会いです。男の子3人組だったんですが、「どうしても大学に行きたい」と泣いてしまったんですよ。バングラデシュでは、HSCという高校卒業試験が日本で言うセンター試験にあたるんですが、彼らは成績優秀で、HSCも問題なくいい成績で通っていたんです。しかし、大学受験のために都会の予備校に行くことはできなかった。「お金がない」と、親に断られてしまったんです。
 
 彼らとしては、お金がなくて困っている家族のために大学に行って、いいところに就職して収入を得て、家族を幸せにしたいという気持ちがある。だけど、それを実現するためのお金がない。自分のために泣いているんじゃないんです。
 
 それを見たときに、心が熱くなるというか、もはや沸騰してしまって。初等教育とかいろんなところに問題があるのもわかっているけれど、それを差し置いても自分はこの子たちのためになにかしようと決めたんです。

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――バングラデシュでは学歴による格差が大きいんですか?
 
三輪:大きいですね。進学率はどんどん改善されてきていて、小学校では97%ほど(※総就学率)ですが、そこからは下がる一方で、大学進学率は18%程度です。
 
 ただ、これは後でわかったことなんですが、実はバングラデシュでは大学に入りさえすれば、支援制度がすごく充実しているんです。もともと国立大学の学費は年間1万円以下ですし、貧困層の出身者は無償でドミトリーを利用できます。ご飯も出るので、入試に合格して国立大学に入ってしまえば、4年間大学で学んで卒業するのは、まったく難しくない。むしろ、トップの大学に通う学生は、アルバイトでかなりの収入が得られます。家庭教師や塾の講師をすれば、家族に仕送りをしても余裕のあるレベルまで稼げるんです。地方の農家より給料がいいですね。
 
――ということは、大学受験のために勉強にかけるお金がない、あるいは教育機会がないというところに課題があるのですね。そこに気がつかれて、e-Educationは中等教育支援に的を絞って、映像授業を始められたと。
 
三輪:アツと出会った翌日には、二人でダッカ大学という現地でいちばん有名な大学に行って、アンケートをとりました。東進モデルで教育支援をやりたいと話しながらも、私もアツも、現地の大学受験の制度や、予備校の実態など、そこまで調べられていなかったので、ダッカ大学に通っている大学生たちが、実際どういう受験生活を送ってきたのか、一度調べてみようと。
 
 また、このアンケートにはもうひとつ目的があって、それは現地で仲間を見つけることでした。きっと僕らがやろうとしていることに共感してくれる学生がいるはずだと思っていたので、アンケート項目の最後に、「僕らと一緒にやりたいですか?」という一言を入れていたんです。そうすると、やっぱり何人か丸をつけてくれた学生がいて、そこで見つけたのが、いまもパートナーとしてがんばってくれている、マヒンでした。
 
 彼は、ハンムチャーという農村の出身なんですが、1971年にバングラデシュが独立してから、私たちが出会った2010年までの39年間で、ハンムチャーからダッカ大学に合格したのは、マヒンひとりだけなんです。

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――マヒンはどうやってダッカ大学に合格したんですか?
 
三輪:そこにはいろいろと泣けるエピソードがあるんです。ハンムチャー村の水準からすれば、マヒンの家はそこまで貧しかったわけではないようですが、それでも彼を都会の予備校に通わせる経済的余裕はありませんでした。でも、長男のチャレンジを応援したいということで、家族みんなで一生懸命がんばったんですね。彼の弟は当時中学生くらいだったそうですが、マヒンの大学受験をサポートするんだと言って、海外に出稼ぎに行ったそうです。
 
 そんな家族ですから、マヒンもものすごく家族思いで、なにがなんでもダッカ大学に受かってやると、都会に住み込みで家事手伝いなどをしながら必死で勉強して、2,000人はいる学科で、なんと11番という成績で合格したんです。
 
――すごいですね。
 
三輪:化け物ですよ、彼は。
 
 アツとふたりでプロジェクトを立ち上げることは決めたものの、どこでやるかもまだ決まっていなかったんですが、マヒンという強力なパートナーが「ぜひ、自分の村でやってくれ」と熱心に言ってくれたので、e-Educationの最初のプロジェクトは、ハンムチャー村と先ほどの3人組の村の2か所でスタートすることになりました。
 
 ハンムチャー村では、大学に行きたいと死にもの狂いでがんばってきた30人の高校生を対象に、授業を始めました。HSCは、A+からDまで何段階かに分かれて成績が出るんですが、難関大学を受けるためのいわゆる足切りがA-なんです。村の100数十人の高校生にアンケートをとったら、実はそのうち22%の学生が、HSCの成績がA-以上、つまり難関大学を受験する資格があったんです。
 
――かなり教育水準が高い村だったのですね。
 
三輪:そうなんです。それなのに先述の通り、その村からダッカ大学に合格したのは、39年間でマヒン一人だけだったんですが、それには理由があります。
 
バングラデシュには、HSCと大学受験の試験のレベルが大きく乖離しているという構造的な課題があるんです。HSCでどんなにいい成績をとったとしても、大学に行こうと思ったら、高校で学んだ範囲と大学受験に必要な範囲のギャップを埋めなければならない。予備校か、家庭教師か、独学かということになりますが、田舎には予備校はないし、わざわざ勉強を教えに来てくれる家庭教師もいない。独学しようにも、いい教材がないから、諦めるしかない。必然的に、大学に行くためには都会の予備校に行くしかないという構造になっているんです。
 
 マヒンも都会に住み込みで働きながらの受験生活は相当辛いものだったそうですが、それでもまだ恵まれているほうで、そもそも村から出ることを許してもらえない子どもたちも多かったんです。とくに女性ですね。村どころか、家からもあまり出るなと言われている。そんな子どもたちがいったいどうやったら大学受験に合格できるのかと、現実を知れば知るほど、映像授業を届けたいという思いは強くなっていきました。

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――映像授業は、予備校を疑似的に再現するようなものですよね。先ほど、独学しようにもいい教材がないということでしたが、教材開発よりも映像授業を選ばれたのは、やはり三輪さんご自身に東進という原体験があったからなのでしょうか。
 
三輪:そうですね。たとえば、とてもいい参考書を持っているからと言って、数学をひとりで学べるかというと、これは本当に難しい。いわゆる問題演習を行うのは、ある程度の基礎が固まってからだと思うんです。
 
 ただ、「映像教育を提供しています」というと、映像教材だけをつくってきたかのように思われることもあるんですが、問題演習の教材や学力を測るためのテストもつくっています。映像教材と、学習教材と、学力テストの3点セットで、提供しているんです。
 
――なるほど。映像だけどこかの予備校からもらってきているわけではなく、学習プログラム一式をパッケージ化して提供しているんですね。白紙のノートを開いて授業を聞いているだけではさすがに受からないか(笑)。
 
三輪:e-Educationの活動1年目、都市部の予備校の先生と交渉して映像教材をつくって、生徒を集めて、予備校のかたちをつくるまでは全部アツがやったんですが、彼は当時休学していたので、復学のために一度日本に帰国したんです。その頃私はJICAの新入職員だったんですが、JICAには新入職員が4か月海外で修業するというOJTプログラムがあって、ちょうどアツと入れ替わるかたちでバングラデシュに入りました。
 
 そこからは平日はJICAの仕事をしながら、主に休日を使ってe-Educationの細かい部分を整えていきました。イスラム圏では基本的に金曜日と土曜日が休みなので、木曜日の夜になると、マヒンと一緒にダッカを出て、村に2泊してe-Educationの活動をして、日曜日の朝帰ってJICAに出勤、というサイクルを毎週繰り返していたんですが、そうするうちに、教材が足りない、学力テストが足りない、といったことがだんだんわかってきました。そこで、映像を補完するための教材をつくったり、映像授業を受けるためのパソコンの台数が限られていたので、2週間に1回、順位入れ替えテストのようなものを行って、生徒たちのモチベーションを保つとともに、成績のよかった生徒ほどたくさん授業を受けられるようにしました。そうしてがんばった人にとってプラスになるような仕組みを、マヒンと一緒に4か月かけてつくっていったんです。
 
――なるほど。つまり、大きな道筋を税所さんがつくって、税所さんの帰国後は三輪さんとマヒンが細かい部分を整えていく、という役割分担だったんですね。バングラデシュの大学進学率は決して高くないということでしたが、それでもマヒンの村の子どもたちは、みんな大学を目指して勉強していたんですか?
 
三輪:正直言って、本当に受かると思って受験している子は少なかったと思います。多くは一縷の望みをかけて、という感じ。ですが、最近はそれも変わり始めていて、e-Educationの学習支援を通して、ハンムチャー村や隣町のチャンドプールから、10人20人とダッカ大学に合格するようになってきました。そうすると、自分も本当に行けるかもしれない、と思えるようになってくる。子どもたちの一人がとても嬉しいことを言ってくれたんです。「夢が目標になった」って。
 
 本当に実現できると思って勉強している子どもたちは、いまではひとりやふたりではなく、村全体の流れがたしかに変わったんだなということが実感できたのが、バングラデシュでの事業でしたね。
 
(第二回「拡大フェーズの混乱と代表の交代を迎えて」へ続く)
 
三輪 開人(みわ かいと)*e-Education代表理事
1986年生まれ。早稲田大学在学中にバングラデシュにて税所篤快氏と共にNPO法人e-Educationの前身となる活動を開始。予備校に通うことのできない高校生に映像教育を提供し、大学受験を支援した。大学卒業後はJICA(国際協力機構)に勤務しながら、NGOの海外事業総括を担当。2013年10月にJICAを退職し、e-Educationの活動に専念。14年7月同団体の代表理事就任。
 
【写真:遠藤宏】

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