社会性と経済性を同時に目指す新しい投資のかたち

ARUN 代表 功能聡子

A91A3350

――活動開始のきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
 
功能:私が社会的投資というものを知り、自ら取り組むようになったそもそものきっかけは、カンボジアで働く機会を得たことです。10年ほどカンボジアに住んで仕事をしていたのですが、それが1995年から2005年という、カンボジア社会が非常に大きく変化した10年間でした。
 
 カンボジアは、20年以上にわたる内戦を経て、1993年に国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の統治下のもとで国民議会選挙が行われ、民主政権が誕生しました。このとき、日本の自衛隊も参加したのですが、PKOに参加するのは初の試みということで、日本国内でもさまざまな議論が行われていました。いま、ちょうど安保法制の議論が盛んになっていますから、いつもこの時代と重ね合わせて振り返るのですが、1990年代のカンボジアは、日本にとっても平和構築の一つの重要な現場でした。ポルポト時代から始まる長い内戦の時代、東西冷戦体制の対立の中で西側から隔離された状況に追いやられていた時代を経て、カンボジアが民主的な社会や和平を実現しようとする動きに、日本が大きく貢献したのです。私がカンボジアに渡った1995年というのは、そうした出来事の最中でした。
 
 当時のカンボジアは、長く続いた内戦の傷跡がそこかしこに残っていて、人々は疲弊し、社会インフラも破壊された状態でした。首都のプノンペンでも道路が舗装されていなかったり、建物には銃弾の痕が残っていたりしました。NGOのリーダーを務めるような、教育も受けてしっかりした考え方を持っている方でさえ、いろいろな話をした最後に、「でも、やっぱりカンボジアだと難しいよね」と言う。内戦が長かったので、またなにか起こるかもしれない、この先どうなるかわからないという不安を常に持っていて、自分たちの国に自信を持てなくなっていたんですね。
 
 それが、10年の間に大きく変わりました。私がカンボジアを訪れた当初は、「貧しい国なので、先進国から援助してほしい」と訴えて、援助を獲得してくるのがリーダーの役割でしたが、国内の状況が改善されるとともに考え方も変化し、援助を受け取るだけではなく、持続可能な発展を目指して自ら変化を起こしていきたいと考えるリーダーが出てきました。外国からのさまざまな支援もあって社会インフラが整い、生活が豊かになったということもありますが、人々の心が前向きになったのだと思います。
 
 2000年頃から自立の動きが活発になり、中には起業する若者も現れましたが、彼らのベースには、社会的なマインドがありました。起業と言っても、利益追求型のビジネスで自分だけが儲かればよいというのではなく、同朋、とくに貧しい同朋たちのために自分でもできることをしたい、それをビジネスでやりたいという若者たちが増えてきました。
 
 そうした変化を肌で感じる中で、貧困削減や平和構築といった途上国の抱える課題に対して、私たちはどのように支援していけるか、協働していけるかという問いが生まれてきました。
 
 以前はODAのような国同士の援助や、NPOとして現地に支援の手を差し伸べるというやり方が一般的でしたが、それだけでは解決できないという思いを強く持つようになったのです。援助する国とされる国、豊かな国と貧しい国、進んでいる国と遅れている国のような関係は、一時的なものでしかなく変化していくし、いまがそうだという認識もずれてきているということを、強く感じていました。
 
 ではどんな解決策があるかというと、「エンパワーメント」がひとつのキーワードになると考えました。課題の解決のためにもっとも重要なものは、外から与えるものではなくて、当事者が本来持っている力を引き出したり、その力を発揮できるような社会をつくっていくこと。自分たちの力で、自分たちができることをやっていく。自分で考え、変化をつくり出していく。そういう力を持った人を応援する仕組みが必要だと感じていたときに、社会的投資に出会いました。

関連記事