NPOの経営マネジメントのプロになりたい

NPOマネジメントラボ 代表 山元圭太

山元氏祖父写真
山元さんと祖父(写真提供:山元圭太氏)

 「変える人」No.14でご紹介するのは、2014年9月から、NPO向けのコンサルティング事業を本格的に開始したNPOマネジメントラボ代表の山元圭太さん。大学入学と同時に始めたボランティア活動から、かものはしプロジェクトでのご活躍を経て現在に至るまでの軌跡を伺いました。
 
************************
 
祖父から学んだかっこいい生き方
 
 山元さんがはじめてボランティアの世界に足を踏み入れたのはいまからおよそ14年前。当時、大学に入学したばかりの山元さんは、新歓の時期にボランティアサークルをいくつか見て回った。
 
「なにかボランティア活動をしたいなと思っていたんですが、逆に言うとボランティアならなんでもよかったんです。環境系、子ども向け、高齢者向け、障害者向け、いろんな団体をひと通りぜんぶ回ってみて、最終的には海外ボランティアの団体に入りました」
 
 山元さんがボランティア活動に惹かれるようになったきっかけは、自らの祖父の存在と、阪神・淡路大震災だという。
 
「僕のおじいちゃんが、いわゆる『いい人』だったんです。ボランティアなんて名前をつけなくても、僕と弟が通っていた保育園の遊具を無償で修理したり、正月には餅つきのセットを用意してみんなで餅つきをしたり。また、独居老人の多い地域だったんですが、その方々を見回ってお世話をしたりもしていたみたいです。おじいちゃんは、僕が中学生のときに亡くなりましたが、そのお葬式がすごく盛大だったんですよね」
 
 葬儀には子どもからお年寄りまで、たくさんの人々が参列した。山元さんが、小さな女の子とその母親に、「なんで祖父の葬儀に来てくださったんですか」と尋ねると、「この子がおじいちゃんにお世話になったから、最後にお別れを言いたいと言うので」という返事が返ってきたという。
 
「お葬式という場面ではあったんですけど、それを聞いて、単純にかっこいいなって感じたんです。自分もこういう生き方、こういう死に方ができたらいいな、と思うようになりました。これが僕の原体験のひとつです」
 
 もうひとつは、これも中学生のときに体験した阪神・淡路大震災。
 
「僕は滋賀県出身なんですが、それまでの人生の中でいちばん激しく揺れた体験で、すごく怖かった。まだ中学生だったこともあり、そのときはボランティアに参加することはできませんでしたが、テレビで被災状況などを見ていました。その中で、自らも被災されたにもかかわらず、自分たちにとっても限られた食糧で炊き出しをして、笑顔で振る舞っている方々の姿を見たんです。それも、すごくかっこいいなと思いました。よくわからないけれど、涙が出て来て。それでいつか自分もボランティアというものをしたいな、と思ったのが、もうひとつの原体験です」
 
 こうして大学入学と同時にボランティア活動を始めることにした山元さんだが、海外ボランティアの団体を選んだのは、「海外に行ったことがなかったし、なんとなくおもしろそうだと思ったから」という、他愛もない理由からだった。

山元氏フィリピン写真
学生時代の山元さん(写真提供:山元圭太氏)

将来の夢なんて、描けないし描きたくない
 
 ボランティア団体での活動は、フィリピン、スリランカ、バングラデシュといった途上国で、住居建築のワークキャンプをするというもの。
 
「適切な住居環境を持っていない方々に対し、家を一緒につくって提供するというプログラムでした。4年間の間に数回現地に行って活動しましたが、フィリピンのごみ山での出来事が、僕にとってのターニング・ポイントになりました」
 
 スモーキー・マウンテンと呼ばれるごみ山で、山元さんは、7歳の男の子に出会った。仲良くなって半日ほど遊び、最後に将来の夢を尋ねると、返ってきた答えはショッキングなものだった。
 
「『将来の夢なんてない。描けないし、描きたくない』って言われたんです。すごくショックでした。自分たちは、貧困問題を解決するとか、南北問題を解消したいと言って活動しているのに、ある意味その象徴であるような男の子、ごみ山で暮らしていて、学校にも行けず、将来の夢を描くこともできないという男の子が目の前にいるのに、その子になにもしてあげることができなかったんです。自分の掲げていた志が、大きいけれど薄っぺらいものに感じられました」
 
 山元さんが所属していた団体で用意していたプログラムは、その男の子のような最貧困層の家庭にはリーチできないものだった。そもそも、そうした状況の子どもにとって、最初に必要なのは家なのかという疑問も湧いてきた。
 
「そうやっていろいろ考え出すと、貧困問題を解決したいなんてたいそうな志を掲げて行ったけど、知識も技術も権力も財力もなにもない一大学生である自分には、結局なにもできない。目の前にいる、仲良くなった男の子ひとり救えないっていうことに気づいて、無力感に打ちのめされました」
 
 ふと足元を見ると、日本語の書かれたごみが大量にあることに気がついた。よくよく聞いてみれば、スモーキー・マウンテンには、日本からもごみが捨てられるのだという。
 
「とくに産業廃棄物や医療廃棄物が多いと言われて。医療廃棄物っていうのは、たとえば使用済みの注射器。注射器を捨てたら、割れますよね。裸足で歩きまわっていることが多い貧しい子どもたちがそれを踏んでしまい、その傷がもとで破傷風になって亡くなってしまう子というのが、実はたくさんいるということも、そのとき初めて知りました」
 
 ほかにも、切断された人間の手足や臓器といったものがスモーキー・マウンテンに捨てられていることもあるという。正規のルートで処分するとコストがかかるため、フィリピンまで船で運んで来て捨てるのだ。そうした医療廃棄物は、疫病の温床となる。
 
「さらに、自分たちが朝ホテルで飲んだジュースと同じパッケージのものが捨ててあったりとか。そうした現実を見たとき、自分は助ける側の人間のつもりでここに来たけれど、実は加害者側の人間だということに気がつきました。なにもできないどころか、加害者だったんです。これまでの活動は、自己満足でしかなかったんだと思いました」
 
 無力感に打ちひしがれて帰国した山元さんは、活動からしばらく離れ、授業に出たり、友達と遊んだりといった、ふつうの学生生活を送った。
 
「そんな生活もまあ楽しいんですけど、どこかになにか、もやっとしたものが残っているわけです。なんなんだろうなって考えたんですけど、結局、やっぱりやりたいんだなって。ああいう状況に対して、少しでもなにかできることがあるなら、やっぱりやりたい。だけど、どうせやるなら、ほんとうにあの子が救える、ああいう子がもう出てこないような社会にするために意味のあることがしたいと思いました」
 
 学生ボランティアではなく、プロが活動している団体のインターンとして、山元さんはボランティア活動への参加を再開した。

_DSC0222

「いいこと」をしている本人がハッピーじゃない
 
 山元さんが参加したのは、それまで自分が携わってきた分野と近い、飢餓や子どもをテーマに世界規模で活動するNGOなどだった。
 
「それらの団体には、プロの方がたくさんいました。大学院で開発について勉強して修士をとって、英語もペラペラで現地での駐在経験もあって、という方。建設会社の出身で青年海外協力隊に専門職として行かれた経験もある方。課題に対して専門性を持って、心の底からなんとかしたいと思って、すごく真摯に取り組んでいる人ばかりで、すごいなと思いました」
 
 活動する人々の高い専門性やモチベーションに感服する一方で、そうした人々が時折辛そうな様子を見せることに、山元さんは気がついた。
 
「いろいろ話を聞いてみると、かなりのハードワークでありながら、収入はとても十分とは言えず、生活に不安を抱えていたりする人もいるということがわかりました。熱い思いと高い専門性を持って『いいこと』に取り組んでいるのに、この人たち自身があまりハッピーじゃないときもある。それは不条理だなと思いました」
 
 それは、ひとつの団体に限ったことではなかった。さまざまなNPO、NGOで働く人々に話を聞いてみると、月の手取りは10万円程度、事務所兼自宅に数名で暮らしてなんとか生活しているといった人や、子どもの大学の学費が出せず悩んでいる人など、収入や生活面に不安を抱えている人は少なくなかった。
 
「そうした話を聞いて思ったのは、それって持続可能なの?ということ。また、こういう状況がずっと続くのであれば、優秀な人やできる人がなかなか入って来れないだろうということ。そうすると、問題解決や、社会を変えるという取り組みのスピードも上がらないなと」
 
 また、キャッシュフローの分析や、今後の資金計画をきちんと立てている団体が少ないこともわかってきた。そうしてさまざまなことを見聞きし、経験する中で、山元さんは「NPOのマネジメント(経営)のプロはいないんだろうか」という疑問をふと抱いた。
 
「当時調べられるだけ調べてみたんですけど、すごく限られた少数の方がいらっしゃるだけみたいだったんですよね。研修講座を提供してくれるプログラムとかはあったんですが、組織の中に入って一緒にワークフローを整えるであるとか、収支を考えるであるとか、ファンドレイジングの戦略を立てるといった支援を行うようなサービスはなかったんです。つまり、現場のプロはいるのに、マネジメントのプロは、まだこの業界には少なかった」
 
 そのことに気がついた山元さんは、「NPOのマネジメント×ビジネス」という視点でなにかできることはないかと考え始める。就職活動を始める頃には、NPOのマネジメント(経営)のプロになりたいという目標を持つようになり、大学卒業後、コンサルティング会社に入社した。

_DSC0452

人事部で身につけた現場の泥臭さ
 
 NPOの経営コンサルティングをしたいという目標を掲げて就職し、入社式でも「3年で辞めてNPOの経営コンサルタントになる」と宣言。そんな山元さんが配属先として希望したのは、コンサルティングチームではなく、人事部。
 
「いまの僕のスタンスもそうなんですが、コンサルティングをする上で、自分が実務とか現場を知らないのに、人にアドバイスするほど器用ではないなと思ったんです。それで組織のマネジメントという現場を知るために人事部を希望して、ほんとうは枠はなかったんですが、交渉して入れてもらいました」
 
 そこでは、採用や社員教育、社内の活性化といった業務を担当した。
 
「新卒採用と中途採用、それから内定者や新入社員の研修から管理者向けの研修まで、社員研修全般を担当しました。ほかにも組織を活性化するために定期的に成果発表会っていうイベントを企画したり、当時流行っていたクロスファンクションチームをやってみたり。そうやっていろいろやらせてもらう中で、理屈ではない現場の泥臭さみたいなことがわかってきました」
 
 合理的に考えれば増員の必要のない部門でも、その責任者から「〇人採りたい」と言われることもある。それは、合理性とは別の力学が働く、現場の現実だった。
 
「そんな中でどう実際にコミュニケーションをとりながら、うまく機能するかたちに落とし込んでいくか。それはコンサルティングチームにいきなり入っていたのでは、なかなか身につかなかったんじゃないかと思います」
 
 そうして社内の人事業務に取り組んでいく中で、徐々に先輩コンサルタントから声が掛かるようになってきたという。
 
「3年目頃から、『クライアント会社で、採用で困っているところがあるんだけど、そういえばお前詳しかったよな、ちょっとついて来い』っていうかたちでコンサルティングチームに同行させてもらうようになって、社外でも採用や社員教育、組織を整えるっていう支援をやり始めました」
 
 自社内でいろいろと試してみて、ときに失敗しながらも出てきた成功体験をそのまま提案するのだから、成果が出るのは当然と言えば当然だった。
 
「それやったら失敗しますよ、とか、こっちのほうがいいですよ、っていうことを経験から言えるので、それを積み重ねていくと、成果が出てきたんです。そしたら、あちらこちらのチームから引っ張ってもらえるようになって、気づいたら人事組織のコンサルティングチームを兼任するようになっていました」
 
 徐々にコンサルタントとしての業務に重点を移していく中で、山元さんはさらに経験を積み、クライアントから相談を受ける内容も、人事や採用のフィールドを超えて広がっていった。

山元氏コンサル時代写真
コンサルタント時代の山元さん(写真提供:山元圭太氏)

体験に裏打ちされた戦略立案
 
 人事・採用に関するコンサルティングから入った山元さんだが、経営者と信頼関係ができてくると、「営業チームが思うように動いてくれない」「最近売上が落ちてきた」といった、人事とは直接関係のないテーマの相談も受けるようになった。
 
「こうしてみたらどうでしょう、とお手伝いしているうちに、いつの間にか営業戦略の立案に携わっていたり、住宅展示場でその会社の社員を名乗って家を売っていたりして(笑)。営業力を強化するのにも、まずは自分でやってみなければだめだと思ったので、売上を上げている人を観察して、成功要因を抽出して、それがほんとうに合っているかやってみて、合っていたらそれを標準化して、ほかの営業のメンバーに伝えていく、っていうことをやっていました」
 
 ほかにも「次世代経営陣プログラム」と題し、二代目経営者や未来の経営陣候補に経営に関する研修を行うなど、さまざまな面から「経営」「組織マネジメント」に携わり、5年目には自らチームを率いるように。
 
「入社式では3年で辞めるって宣言したんですが(笑)、よくある根拠のない3年神話みたいなもので、実際は3年経っても一人前とは言えないなと思ったので、結局5年いました。5年目には部下も持たせてもらって、チームで目標を達成する、成果を出すということができるようになりました。それで、そろそろいいかな、と考え始めました」
 
 「社会起業家」ということばが使われるようになり、山元さんの関心を惹いていたが、この頃はまだ、社会起業家として自ら起業するか、どこかに転職するのか、決めあぐねていた。そんな中で目にしたのが、国際NGO「かものはしプロジェクト」の求人情報。
 
「このときは正直、記念受験だったんです。受かるとはまさか思っていなくて。だけど、村田・本木・青木っていう、僕と同じ年の人間が、当時すでに社会起業家の代表格として有名だったことに衝撃を受けていて、選考がうまく進めば、もしかすると彼らと直接話せるかもしれない。話せたら、いまの自分になにが足りないかわかるかもしれないと思って、かものはしプロジェクトの求人に応募したんです」
 
 結果、内定。予想外の結果にかなり悩んだというが、山元さんがコンサルティング会社を辞め、NPOの世界へ飛び込んだのは、自身の結婚式から2か月後のことだった。
(第二回「集めたいのは『お金』じゃなくて仲間」へ続く)
 
★告知★
2015年1月より、NPOの「マネジメント(経営)」を体系的に学ぶNPOマネジメントスクールを開校予定です。
お申込み・詳細はこちら→NPOマネジメントスクール
 
山元 圭太(やまもと けいた)*NPOマネジメントラボ代表。日本ファンドレイジング協会認定ファンドレイザー。元NPO法人かものはしプロジェクト日本事業統括ディレクター。 1982年滋賀県生まれ 同志社大学商学部卒。卒業後、経営コンサルティングファームで経営コンサルタントとして、5年間勤務の後、2009年4月にかものはしプロジェクトに入職。日本部門の事業全般(ファンドレイジング・広報・経営管理)の統括を担当。「社会起業塾イニシアティブ(NEC社会起業塾) コーディネーター(2011?2013年)」「内閣府復興支援型地域社会雇用創造事業 みちのく起業 コーディネーター(2012年)」として、日本各地のソーシャルベンチャーやNPOの支援も行なう。
 現在は、NPOマネジメントラボ代表として、「本当に社会を変えようとするチェンジメーカーの『想い』を『カタチ』にするお手伝い」をするために、キャパシティ・ビルディング支援や講演/セミナー、コーディネートを行っている。専門分野は、ファンドレイジング、ボランティアマネジメント、組織基盤強化、NPO経営戦略立案など。
 
【写真:永井浩】

関連記事