誰もいないなら、自分がやるしかない
明日の食べ物にも困る現地か、通勤ラッシュで渋滞する東京か
被災地に入って数日、配備が進められた衛星電話を借りて、久しぶりに勤め先に連絡を入れた。
「上司は『おー、生きてたか』って笑ってくれました。現地入りを決めて東京を出発したのが日曜日だったので、ちゃんと相談できていなくて。月曜の朝、『僕これから被災地なので、しばらく連絡つかなくなるかもしれません、すみません』って電話したきりだったんです。理解していただけている様子で、とてもありがたかったです」
岡本さんは8日間ほど避難所の運営を手伝ってから、東京に戻った。
「現地にいたのは、実質10日間くらいです。その間、明日の水や食料がどうなるかわからないというような状況が、現実として僕の故郷には存在していました。だけど、自分自身の仕事や生活もあるから、いったん東京に戻らなければいけませんでした」
東京に戻り、勤務を再開したのは3月26日。だが、その朝通勤ラッシュの渋滞に巻き込まれた岡本さんは、すさまじい違和感に襲われた。
「3月の終わりには、東京はもうほとんど日常を取り戻していたんですよね。震災前と比べれば物流なんかに多少の差はあったかもしれないけれど、陸前高田に比べたらはるかに平常に近いかたちで世の中が回っていた。それは当たり前で喜ばしいこと。でも、自分自身はどちらにいるべきなのかって思いが頭を離れなくて。何度も考えた結果、やっぱり故郷だな、って思ったんです」
4月の上旬には退職を申し出た。平日仕事が終わると、SAVE TAKATAのホームページに寄せられる安否確認のメールに返信し、土日になると有給を一日足して陸前高田へ向かう生活を続けた。正式に退職して陸前高田にUターンしたのは、5月末のことだった。
(第二回「『地元から出ていた人間』の強みを生かして」へ続く)
岡本翔馬(おかもと しょうま)*1983年、岩手県陸前高田市高田町生まれ。仙台の大学を卒業後、東京で就職。震災を機に陸前高田へUターンすると同時に一般社団法人SAVE TAKATAを立ち上げる。その後NPO法人桜ライン311を立ち上げ、現在は代表を務める。
【取材・構成:熊谷哲(PHP総研)】
【写真:shu tokonami】