誰もいないなら、自分がやるしかない
桜ライン311代表 岡本翔馬
「また市役所か」
家族と顔を合わせることができ、同級生や親戚の安否をひととおり確認した岡本さんは、避難所の運営を手伝うことにした。
「僕の母校の一中(陸前高田市立第一中学校)に同級生が何人も避難していて、彼らが避難所の運営に関わっていたんです。そこを1週間くらい手伝わせてもらいました」
陸前高田市では市の本庁舎も全壊し、約1/3の職員が亡くなっていた。市としての機能が事実上停止する中にあっても、支援物資や人はどんどんやってくる。大量の物資の行き場を確保することも難しかった。
「臨時の市役所を山の上の給食センターに置いて、物資もそこで備蓄していたんです。でも、置ける量にも限界があるから、そこがいっぱいになったら『一中に運べ』となる。それで一中に来たトラックもほんとうに多かったですね」
通信手段が断絶された中で、それぞれの避難所同士で連携をとるのは不可能に近かった。
「しょうがないって頭では分かっていても、こちらももう受け取れないっていう状態で物資が届き続けると、どうしても『また市役所からか』ってなってくるんですよ。そして、それと同じことが物資の配布先でも起きてくる」
物資の備蓄先を量的に振り分けてみても、今度はこちらは米ばっかり、あちらは野菜ばっかり、というようなばらつきが生じる。それも物資が過剰な場合はまだ良かったが、足りない場合は問題だった。追い詰められたぎりぎりの状況の中、小さな感情のささくれは、やがて大きく膨らんでいく。
「市に何とかしろとか、職員の仕事だろうとか、どうしてもそういう声が大きくなって。でも、市の職員だって被災者で、自分自身の生活をどうしようという状況に置かれて、通常の市役所と同じ動きなんてできるわけがないんですよね」
震災直後の被災地で岡本さんがいちばん強く感じたのは、被災者と支援者を適切につなぐコーディネーターの必要性。通常なら、市役所や社協が担っていたはずの役割を務められる人材が、壊滅的な被害を受けたことで、圧倒的に不足していた。