日本は国際的なルールづくりで先導的な役割を果たせるのか

小田正規(青山学院大学WTO研究センター客員研究員)×熊谷哲(PHP総研主席研究員)

 TPP(環太平洋パートナーシップ)協定が国政の最重要課題に浮上してから早4年。「ヒト、モノ、カネ」の流れをよりスムーズにする経済連携を現実のものとするため、早期妥結への期待や必要性が繰り返し主張されながらも、交渉参加12か国それぞれの思惑も重なってか未だ妥結には至っていない。
 
 国内においては、「農業に対する深刻な影響」や「国民皆保険制度が崩壊する」、「アメリカ政府の政治的圧力に迎合し、国益に反する」などといった、TPP協定参加によってWTOルールからも逸脱した枠組みが設定されるかのような指摘が相次ぎ、建設的な議論が妨げられてきた嫌いがある。
 
 交渉が最終盤に近づいているといわれている今こそ、TPP協定のターゲットはどこにあるのか、関税撤廃が国民生活に与える影響はどれほどのものなのか、あるいは交渉の過程で見え隠れする日本の構造的問題とは何なのか、そもそもTPP協定がどれほどのインパクトを有しているものなのか、客観的に捉えつつ冷静に見つめることが必要である。
 
 そこで、通商政策の専門家として民間シンクタンクでキャリアを重ね、内閣官房国家戦略室・政策企画調整官としてTPPや成長戦略に直接携わってきた小田正規氏(青山学院大学WTO研究センター客員研究員)と、内閣府規制・制度改革事務局長として改革の現場を担ってきた熊谷哲(PHP総研主席研究員)の2人が、TPP交渉で日本が向き合うべき本当の課題について対談を行った。

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小田正規氏(青山学院大学WTO研究センター客員研究員)

1. 通商交渉2.0に突入しているTPP
 
小田 TPPをめぐっては、もう既に「通商交渉2.0」の世界に入ってきているのに、まだ日本は1.0の状況なんです。
 
熊谷 それは具体的に言うと?
 
小田 関税を下げる、特に農産品の関税を下げるところに日本はかなりこだわってしまったんですが、むしろ世界の貿易自由化交渉では関税の話はほとんど終わっていて、中心は規制をどうするか。しかも、個別の規制をどう調和させるかということだけではなく、規制のつくり方のプロセスを共有化することが交渉にビルトインされてきているんです。それにもかかわらず、日本の場合そこにはほとんど無頓着で、牛肉の関税だ、豚肉の関税だという話に終始してしまっているのが現状です。
 
熊谷 規制のつくり方のプロセスの共有化、あるいは共同化というのは、すでに交渉のメーンステージに上がっているという理解でよいですか。
 
小田 一番わかりやすいのはEUですね。彼らは域内28か国の中で関税を取り払っていますが、やはり国によって安全性の基準が違うとか、環境保護のための規制が違ったりするために、域内でも完全に自由な取引がなされているわけではありません。関税がなくてもやはり障壁が存在する。ですので、EUの通商交渉におけるメーンターゲットは非関税障壁と政府調達の2つだと明確に名指しして、関税はもはやメーンターゲットではないことを明らかにしています。
 
熊谷 非関税障壁というと、80年代末からの日米構造協議の古い記憶が呼び覚まされます。日本市場の閉鎖性を示すものとして指摘されて、その後の年次改革報告書や構造改革につながっていったと思うのですが。
 
小田 発端はもちろんそこで、当時の非関税障壁というのはかなり広い。その時に比べると、非関税障壁と言われている対象が変わってきたと思います。例えば、食品や工業製品の安全性、環境保護のための基準、あるいは政府が調達する際の透明性であり、それらの基準や制度のあり方などに関心がぎゅっと近づいてきました。
 
熊谷 非関税障壁をなくすことによって日本の消費者にどれだけメリットがあるか、ということが以前は具体的に指摘されていました。それが、今回のTPP交渉ではほとんどクローズアップされていない。このあたりに、個別課題の解決からフォーカスが変わったということが現れているのですね。
 
小田 アメリカではこの間、USTRが「National Trade Estimate Report on Foreign Trade Barriers」という「外国のどこに障害があるのか」という長大なレポートを、毎年議会に提出してきました。ところが、芳しい成果が出ていないと議会では追及されるし、個別の非関税障壁に対して注文をつけていくというスペシフィックアプローチでは、相手側に依存するところもあってなかなからちが明かない。彼らはホリゾンタル・イシューという言い方をしているのですが、だったら、規制のつくり方のところから共通の基盤をつくっていきましょう、と。ここに「通商交渉2.0」の世界が現れたわけです。

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2. 規制政策のあり方
 
熊谷 規制のつくり方の世界標準というと、新たな規制を設ける際に規制影響評価(Regulatory Impact Assessment:RIA)を実施して事前に検証し、実施後は一定期間を経過した時点でレビューを行う、ということが基本的な体系となっていますよね。
 
小田 そうですね。制度上は、日本もそうなってはいますが。
 
熊谷 そこに、今回のTPP交渉でさらに追加的に求められていることや、その仕組みが根本から変わってしまうようなポイントなど、何か具体的なものがあるのでしょうか。
 
小田 努力目標のレベルにとどまるだろうと言われていますが、アメリカが主張しているのは大きく3点。第一に、OIRA(The Office of Information and Regulatory Affairs)のような、独立した規制の審査機関をつくること。第二に、規制の影響評価を実効あるかたちで実施すること。第三に、審議会や研究会にステークホルダーの代表を入れ、パブリックコメントを早く長く実施すること。こうしたところが、形としては世界標準的ではあるものの、日本では実効性がまだまだ不十分だと思われています。
 
熊谷 規制改革会議は諮問機関であって、司令塔でも審査機関でもない。規制の影響評価は各府省の自主点検が基本で、とりまとめる行政評価局は書きぶりをチェックするけれども内容の適否までは踏み込まない。事前評価の結果が公表されるのは閣議決定後で、なおかつ国会通過後になることがほとんど。OECDから形式的には評価されてはいるけれども、こうしたあたりが問題だということですね。
 
小田 新たに規制を設ける際にはきちんと事前分析をするという形にはなっているものの、定量的な分析がなされているケースは極めて限定的です。パブリックコメントを実施しているとはいっても、形式的なもので終わっているものも少なくありません。
 
熊谷 このあたりは、TPPで俎上に載せられたからということではなくて、そもそも日本の規制政策のあり方として根本から手を入れなくてはいけないところです。私が事務局長のときに最終案までたどり着きはしたものの実現には至らなかった、一番の心残りのところでもあります。
 
小田 私は、この点でもヨーロッパに学ぶべき部分があると思うんです。彼らは、あれだけ言葉も宗教も違う中で、また経済発展水準も違う国々が集まっている中で、一つの市場をつくるためにどういう妥協案があるのか模索してきた。その結果、より合理的な規制のあり方を追求することで、たとえば技術革新を誘発しつつ高い安全性を確保するといった方向へとすでに転換しています。日本も抜本的に見直すべきときだと思いますね。

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3. 関税ゼロの影響の真偽
 
熊谷 TPP交渉は、小田さんの言われるところの通商交渉2.0の世界にあるのに、国内の議論は重要5品目の関税率ばかりです。実際のところ、関税撤廃のインパクトやダメージは、どれほどのものになるのでしょう。
 
小田 川下から見ると、例えば牛丼です。通常、外食産業の原価率は3割を超えると経営が成り立たないと言われていますが、仮に5割の原価率だとします。
 
熊谷 だいたい300円くらいですから、原価を150円と見るわけですね。
 
小田 そのうち牛肉のコストは3分の1ぐらいだそうですから、約50円。これは、牛肉を国内で調達してくる卸価格なので、当然そこには仲介業者がいますから、輸入時の原価はその半分の約25円。この25円には38.5%の関税が含まれているので、牛丼1杯当たりの関税は約7円。では、牛丼の価格が7円下がるような関税撤廃が行われたら、和牛業界は壊滅的な影響を受けるのかというと、ほとんど何も変わらないでしょう。
 
熊谷 調達先の選択や消費者の選好には、実際には影響は及ばないだろうということですね。
 
小田 もう一つは、川上の方から。オーストラリア産牛肉を通関統計で見ると、一番高いところでは100グラム当たり100円ぐらいです。一方で、農水省が毎週公表している小売価格統計によると、スーパーの店頭価格は、同じ品質だとして比較してある国産牛が700円で輸入牛が400円。
 
熊谷 輸入時は100円で、消費者が手にするときには4倍の値段になっていると。
 
小田 港に上がってきた100円の牛肉を、冷蔵車で運び、個別に切り分けて包装し、店頭に陳列して販売するという、一連のコストが全部入った時の値段が400円になる。いわば国内流通コストが300円かかっているわけです。
 
熊谷 輸入原価は25%にすぎなくて、75%は国内でつけられた付加価値だということになるんですね。
 
小田 このとき100円に対して38.5%の関税がなくなる。すなわち、700円対400円の勝負が700円対360円になりました。ではこの時に、700円の側は壊滅的な影響を受けるかといったら、やはりそんなことは考えにくい。むしろ、為替変動の影響や天候不順などによる元値変動の方が大きくて、関税38.5%は一見すると大きな存在のようでも国内産業保護の効果はほとんどないと思います。
 
熊谷 痛いのは、税収や特定財源がなくなってしまうということかもしれないですね。
 
小田 もっと言うと、日本が牛肉を輸入しているのは、アメリカとカナダとオーストラリアとニュージーランド、この4カ国で99.9%ですね。これは、農水省が牧草に含まれる農薬や、処理が衛生的かなどを全部チェックして、大丈夫だと認定を受けたところからしか輸入できないからです。それぐらい厳しくやっていますから、TPPで関税が撤廃されたからといって、安全に疑問のある安価なものが大量にやってくるなんていう事態は、およそ考えられません。
 
熊谷 国内でつけられる付加価値というところでは、日本で製粉・加工された小麦粉のニーズが東南アジアで高まっているそうです。技術に優れ、安全さは群を抜き、質も極めて高い。そこが好まれているというんです。
 
小田 乳製品でも、オーストラリアは北海道の業者と組んで、中国にどう売るかを考えています。殺菌やパッケージなどは北海道でいいと思っていて、日本経由で中国に、というところに彼らはビジネスとして興味を持っているんですね。
 
熊谷 関税ゼロになると、新たな市場が開拓され、新しいビジネスチャンスも生まれてくる。ここで新たな価値を創造するのが日本として生きる道のひとつだということを、もっと前向きに捉えなくてはいけないですよね。
 
小田 関税によって国内市場が守られているというのはもはや錯覚であるということを理解した上で、政策を再構築することが重要だと思います。

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出典:首相官邸ホームページ

4. 公務員の人事制度の弊害
 
熊谷 関税率云々よりも重要なポイントがあるのに、日本では農業が壊滅するという話になってしまう。あるいは、公的医療保険のように、政府が実施している非営利で競争相手のいないサービスはWTOで除外されているからTPPでも対象外なのに、日本の医療制度が崩壊するといったところに議論が飛躍する。なんでこんなことになってしまうのでしょうか。
 
小田 その想像力のたくましさはすごいなと思いますね。政府は「そうじゃない」とわかっているんだったら、そこの部分をもっとしっかりと説明すればいいのに、説明をすること自体が火に油を注ぐと思ってしり込みしているのか、積極的に「大丈夫なんだよ」という鎮火作業をしないんですね。
 
熊谷 冷静に話せば十分理解してもらえることだと思うのですが。
 
小田 ここが、日本の公務員制度の限界が来ている部分だと思います。彼らにとってみれば、世の中にはびこっている誤解を解きましたということが、役所の中でどれだけ評価されるのかという基準がない。
 
熊谷 得てして、新しい法律づくりや新しい予算を取ったというのが評価に直結すると言われますよね。
 
小田 もう一つは、もっと根本的なところで、やはり2年の人事ローテーションでは、得られる情報は限られるんですよ。2010年に菅総理が協議開始を表明して、あれから4年しか経っていないのに交渉担当者は何人も変わっている。交渉の現場での経緯を引き継いだだけの人間では、やはり限界があるわけです。
 
熊谷 局長・審議官級だと、関係各省で並べてみたらコロコロ変わりますからね。
 
小田 先日、EUの外交官と食事をして自由化交渉の話をしたのですが、彼いわく、例えばニュージーランドのようにTPPで非常に先進的なことを言っている国でも、貿易自由化交渉の担当者というのは5人しかいないと言うんです。
 
熊谷 5人ですか。
 
小田 彼は半分冗談で言っているんですが、要はキーパーソンは5人しかいない。その人たちが、TPPをやっているのか、他の交渉をやっているのか、ジュネーブで大使やっているのかという違いだけで、本当に重要な人物の立場は入れ替わっても、変わらず貿易問題をやっているというんです。日本の場合は、平気で局をまたいで異分野に異動しますよね。
 
熊谷 ニュージーランドのようなことは、ほとんど聞いたことがありません。
 
小田 昔に比べて、官僚には専門性がより求められてきていると思います。それを2年で身につけて、なおかつ専門的な相手と十分に渡り合うのは難しいことです。
 
熊谷 日本の国益にもかなわないということですね。
 
小田 私は、TPPそのものは、日本に何か大きな制度的変更を求めるものではないと思っています。ですが、そこから日本の行政機構に様々な課題が見えてきたというのは間違いありません。今回もそうですが、別の重要な課題に直面したときにでも、官僚の人たちが本当に力を発揮できるような制度にはなっていないと思います。
 
熊谷 だから、変な誤解が生まれて、なかなか十分な火消しがされないから誤解が誤解を呼んで大きな妄想を招いたりする。日本以外のそれぞれ国同士の関係を過少評価したり、アメリカ陰謀説みたいな奇妙な話になったり。建設的な議論をしていくためにも、よりよい結果を求めていくためにも、公務員の人事制度や運用のあり方は早急に見直すべきだと思いますね。

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熊谷哲(PHP総研主席研究員)

5. 交渉の行方と中国の影
 
熊谷 「夏にも実質合意か」という報道もあったかと思うのですが、交渉の行方についてはどのように見ていらっしゃいますか。
 
小田 私は極めて悲観的です。年内に妥結する確率は3分の1あるかないかでしょう。今や日米を除く10か国は、日米が妥結しなければTPPは前に進まない、極論すると日本が譲歩しない限り無理だという共通認識ができかかっています。たとえば農業については、アメリカが弱気になることをオーストラリアやニュージーランドが強く牽制しているので、アメリカも安易に妥協はできない。
 
熊谷 日米協議の行方が焦点だけれども、単に二国間の関係だけで推し量れるものではないということですね。
 
小田 彼らがそういうスタンスでいることは昔から変わらないので、ある程度は想定の範囲内だと思います。ただ、彼らはここで安易に妥協してしまうと、近い将来に中国との交渉が現実化したときフリーハンドを与えてしまうと考えているので、せめて日本にはもう少し譲歩してもらわないと困ると確実に思っていますね。
 
熊谷 国内の利害関係者を慮るあまり、次に来るであろうタフな交渉相手の中国と対峙する時の日本の立ち位置まで想定して、準備できてはいない。そこをにらんでの交渉も、いまどこまでできているのかわからない。そもそも、そんなことは余り考えてなさそうに見えるのですが。
 
小田 そのあたりのギャップを抱えたまま膠着してしまって、秋になってアメリカが中間選挙に突入したときに「交渉が進まないのは日本のせいだ」として日本悪者論が首をもたげるようなことになると、日本にとってはよろしくない。
 
熊谷 夏の合意は難しく、秋にアメリカの中間選挙が控えているとなると、次の山場はどこになるでしょうか。
 
小田 関係閣僚が北京に集まる10月がひとつの焦点になると思います。そこが無理だったら確実に年をまたぐので、可能性からすると、年内妥結が15%ぐらいではないでしょうか。いや、大筋合意まで持っていける確率でも15%は厳しいかもしれませんね。
 
熊谷 逆に、TPPが実際に起動しなくても、あるいは不十分な内容にとどまったとしても、日本経済にはそれほど影響はないと見ていますか。
 
小田 TPPの最大の眼目は、日本は高度な自由化をめざす枠組みに入っていく度胸はあるし、国際的なルールメーキングで一肌脱ごうとしている国であるというメッセージを発することであり、そういう国だったら一緒にビジネスをしたいと思う国や投資家が現れるということが最大のメリットです。ですので、私は妥結が必要十分条件だとは考えていません。
 
 その意味では、日本のせいで交渉が進まなくなっていると思われることが最悪であって、やはり全体合意を得るために献身的に努力している、前に向かって進んでいるんだという姿勢を示し続けることが、何より必要だと思います。
 
熊谷 その意味では、問題を的確に捉えて、複雑な多元連立方程式を解きつつ、将来を見通しながら交渉で実を取る。そのために必要な体制を再構築していく、ということが大事になってくるのですね。
 
小田 それこそまさに、TPPを通して日本が問いかけられている構造的課題そのものだと思いますね。

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