バーチャル共感が「統治の不安」を克服する

池田 謙一(同志社大学社会学部教授)

本稿は『Voice』2020年9月号に掲載されたものです。

感染者数・死亡者数が少ないにもかかわらず、日本人が感じるコロナの脅威度は他国より圧倒的に高い

新型コロナ危機認識の国際比較

新型コロナウイルスは、世界にどれほどの「脅威」を与えたのだろうか。今年2月以後、何度も調査が行なわれ、コロナ禍における人びとの「脅威感」を数値化したYouGov(ユーガブ)調査のデータが公表された。世界的に見ても日本の死者数や感染者数は少ない(7月半ばで各39位と56位)にもかかわらず、驚くべきことに、日本人がこのウイルスに対して感じている脅威は、国際的に比較するとトップクラスの高さである。さらに同調査データにおいて、日本国民は政府のコロナ対応について世界〝最低〟水準の評価をつけていた。

ハイテク覇権競争時代の日本の針路

この調査は、コロナウイルスに関するグローバルな継続世論調査であり、今年4月には危機を迎えていたアジア、ヨーロッパ、アメリカの各国と日本において人びとがコロナ危機をどう受け止め、どう対処しようとしているかを時系列的に比較できる(本拠はイギリス。https://yougov.co.uk/covid-19より引用)。

図1は日本人の脅威感をよく示している。他国に比べ、日本国民が抱く感染への恐怖は異様に高い。加えて、同程度に政府への評価が低いスペインやフランスの死者が日本の30倍であることを考えれば、日本人の政府評価は異常に低かった。どうしてこのような現象が生じるのだろうか。

コロナ危機以前から続く統治の不安

じつは、日本人がこのような漠然とした不安を抱え、政府の対応に低評価をつけるという構図は、ことさら新しいものではない。かねてより日本人がもつ「統治の不安」の特異性が、世界的なパンデミック危機に際しても露顕したにすぎない。今回の危機と通底する心理的特徴は少なくとも2010年には存在しており、拙著『統治の不安と日本政治のリアリティ:政権交代前後の底流と国際比較文脈』(木鐸社)において指摘している。

同書では、2010年前後に行なわれた「世界価値観調査」第6波データを用い、世界60カ国との比較のなかで、日本人が感じている国家的・国内的リスクを分析した。その結果、2つのパターンが浮かび上がった。

日本人が抱く第一のリスクは、他国との戦争やテロに巻き込まれたり、内戦が起きたり、盗聴や検閲が蔓延する心配である。世界的に知られる国家の平和指標(Global Peace Index, Freedom Houseスコア)をみると、日本は世界のなかでも平和な国であるが、そういった客観的事実よりもはるかに高い国家リスクを認識していた。第二に感じるリスク、失業の不安についても、国際指標が示す比較数値(ILOデータ)以上のトップクラスの不安の強さを示していた。これらの特徴は、「将来あり得る国家的・国内的リスク事態に統治者がまともに対応できないのではないか」という、客観的根拠を大きく上回る不安であるとして「統治の不安」と名付けられた。

「統治の不安」を生み出す世界共通の要因(収入の低さ、治安の悪さ、国に対する誇りの弱さなど)は、貧困国や紛争地域で顕著である。それに比べ日本は経済的・社会的にも安定した国であるにもかかわらず、日本人の抱える不安は他国の人びとより特異的に高かった。また日本人だけを分析すると、特定の社会的な属性をもつ人びとだけでなく、日本人全体として、大きな不安感を共有していることがわかった。

右記したリスク認識は民主党政権下の国民の反応であったが、今回のパンデミックが安倍・自民党政権下であることを踏まえると、政権与党のイデオロギーにかかわりなく、日本国民の統治の不安は一貫して存在している。

コロナ禍でも政府の対処能力を信用しない日本人

このように、日本人は政府の対処能力をそもそも信頼していない。そのため、国際的に比較すると新型コロナの国内感染率は低いにもかかわらず、政府に対して疑心暗鬼となる様相があちこちで表れた。

YouGovの他データからは、コロナ禍で日本政府が実施した公衆衛生対策への支持の低さが浮かび上がった。

第一に、感染者と接触した人や、感染者がいた場所を検査するトラッキング政策、いわゆる防疫政策に対する日本人の支持率はかなり低い。

第二に、政府によるマスク配布政策や在宅勤務奨励政策への支持も低かった。このように、客観的に有効だとされる感染者とのコンタクトポイントの制御・全般的な接触可能性の制御という公衆衛生対策に対してさえ、その支持率は、一様に調査国のなかで最低水準であったのだ。国民は政府の施策が感染に有効に立ち向かえるとは信じておらず、手ぬるい対策にしかならない、まともに機能しない、対応が遅い、などと不安に感じているのだ。

また、2月末に発生した「トイレットペーパー・パニック」においては、政府を信用せずに多くの人びとが自衛に走った。騒ぎは、「トイレットペーパー不足の可能性を〝否定する〟ツイート」の拡散を取り上げたテレビから広まり、2月29日に安倍首相が記者会見で「在庫は十分にある」と保証しても収まらなかった。皮肉なことに、品切れを否定するツイートやテレビが噂を拡散し、情報を是正する首相の言葉は顧みられず、現実に店頭に十分に商品が並んで初めて買い溜めが収束したのであった。

同様の事態は、政府より専門家を信用するというかたちでも表れた。政府は2月半ばには新型コロナウイルス感染症対策専門家会議を設置していた。会議に法律上の権限はなかったが、首都のロックダウンが憂慮され、国民的スターである志村けんさんの死が人びとの恐怖を一気に高めたころに、安倍首相は次第に会議への依存を強めた。

当初、安倍政権が独断で決めた小中高の一斉休校の要請は、諮問の範囲を逸脱したものであると大きな批判を招いた。アベノマスク配布の決定にも批判が集まり、その後の緊急事態宣言の際には、政治家が負うべき説明責任まで専門家会議に分散させる方向へ転換した。政府は専門家会議を頼らなければ、危機に対応できないと受け止められたのだ。こうして事態の対処とその責任が、政治家から専門家に「下請け」されたかのような様相が生じた。その後の「新しい生活様式」の提言もこの流れに沿うものであった。6月末になると、政府との関係性を明瞭にする必要があるとして、専門家会議は解散、再度組み直しが行なわれた。しかし、統治者のみに任せると何が起こるかわからないと考える国民の警戒心は、専門家会議を組み直すことだけで収まるのだろうか。

そのうえ、同じ6月には政府発注の持続化給付金の受託過程が問題になった。社団法人から代理店、さらにその下請けへと外注されていくなかで、巨額の振込手数料が中抜きされた「税金のピンハネ」に対して多くの批判が生じたのだ。緊急事態下でさえ、政府は迅速で適切な手続きを進めるどころか、特定の集団の利益に寄与するだけではないか、との統治の不安が顕在化したのであった。

不満を漏らすも行動しない国民

コロナ対策においては、政治や行政のみが問題を問われるだけではない。国民は漠然とした統治の不安を抱える一方で、自ら有効な自衛策を講じていただろうか。コロナ禍における日本人の感染回避行動についてのYouGovデータを紹介しよう。驚くことに、日本人の感染回避行動が他国の人びとより上回るのは、マスク着用率のみである。手洗いの励行率も世界平均より低い。さらに、通勤回避率に至っては3月末では9%のみが回避していると回答、緊急事態宣言直前の4月6日でも14%、同20日に25%、以後ほぼ同レベル、と世界では最低水準であった。企業のIT化が遅れる日本では、リモートワークへの移行をすぐに実現できなかったのは仕方のない面もある。しかし外出回避をはじめ、公共の場で不特定多数の人が触るものの接触回避、他地域から来た旅行者との物理的接触の回避など、誰もが実施可能な対策においても、日本人の意識は世界に比べて低かった。実際のところ、緊急事態宣言の全面解除時に首相が誇った「日本モデルの力」の背後の衛生意識は、この程度であった。国際比較データには「3密回避」の項目はなく、焦点が異なるといえなくもないが、日本人の危機感に対する個人レベルの感応性の低さは否定しがたい。

このように、日本人は、「政府は何をしでかすかわかったものではない」と不安がるにもかかわらず、自身が強いリスク認識をもって事態に対処する主体となって立ち向かったわけではないのだ。

私生活への政治乱入を拒絶

一見、自分勝手に見える日本人の政治意識は、「私生活志向(私生活を重要視する志向)」の強さと関連している。筆者は2007年の著書(『政治のリアリティと社会心理:平成小泉政治のダイナミックス』木鐸社)で小泉政権時の政治意識・行動を分析し、日本人が二つの次元の「私生活志向」をもつことを発見した。

一つ目の次元は、政治はなるようにしかならないもの、かかわりたくないもの、積極的に働きかけるものでも監視していくものでもないと捉える「政治非関与」である。

二つ目の次元は、快適で豊かな生活や仕事の充実感、友人・家族と過ごす時間が重要、と考える「私生活強調」である。これら二つの次元は、自己実現の手段として政治に直接声をあげて社会を良くするよりも、私生活のなかでの自己実現こそが重要だ、と考える志向性を示している。最近のアメリカや香港で見られる社会運動の志向性と大きく異なるものである。

コロナ災禍のなかで、この特徴的な「私生活志向」はどう表れたか。不満や不安があっても政治的に行動しない「政治非関与」の典型は「自粛警察」であろう。4月上旬以後、緊急事態宣言下でも休業要請に応じきれない店舗に対して行なわれた匿名での脅迫行為は、自分や周囲にコロナが伝染する可能性をもち込むな、迷惑をかけるな、という私的な領域の防御行為であり、政府の「意」を受けてのものではない。同じく、社会全体でコロナを抑え込もう、という規範意識からの行動でもない。

また私生活に重きを置き、政治側からの関与を拒否する「私生活強調」の側面も見られた。歌手の星野源は四月初めにInstagram、次いでYouTubeにおいて「#うちで踊ろう」と呼びかけたが、これに「便乗」した安倍首相がひどく批判されたのだ。多くの歌手やタレント、一般人がコラボ動画に参加して大いに盛り上がっていたところに、首相が「加わった」ことが炎上を招いた。統治の不安を抱え、政治にかかわりたくない人びとが、政治の外でコロナ事態にポジティブに対処しようとしているその場に突然政治が入り込み、星野の人気を利用しようとする意図に不快を感じたのである。

「私生活志向」が政治参加を促す

「私生活志向」の一つである「政治非関与」の傾向が強いほど政治参加にはマイナスだが、もう一つの次元である「私生活強調」は逆に、政治参加行動を増大させたり、ネット上で政治を語る傾向性を示す。いい換えれば、私生活を大事にする意識そのものから政治の問題性に気づき、社会的な運動に展開する可能性がある。政治参加のツールとなるネットは私生活志向をもつ人びとの味方であるとともに、政治参加への糸口にもなり得るのだ。

星野源の「#うちで踊ろう」以外にも、インターネットを中心とした市民同士の励まし合いが多々見られた。3月はじめの「#休校チャレンジ」企画はTikTokやYouTubeで何千という動画とバズ(情報が話題になり拡散すること)を生み出し、2週間のうちに8000万回もの再生を呼んだ。「#おうちごはん」「#おうち時間」は幾多の連帯を生み、YouTuber登録者数1位のHIKAKINの動画、「小池都知事にコロナのことを質問しまくってみた」は大きな反響を得た。そこには私生活志向の向こう側に政治と関わりをもちうる人びとの可能性がみえてくる。一連の流れからわかるように、官製の自粛要請には反発を感じる人びとも、ボランタリーな「おうちにいよう」には乗った。限られた状況のなかで市民がなしえるベストエフォート(最大限の結果を得られるよう努力をすること)の連鎖をみて、共感が広がったのである。このようにして、SNSを中心としたインターネットは感情の増幅機能を果たすメディア(志村けんさんの死を受けてネット上で恐怖が増幅したことを想起されたい)から、危機を生き抜くための励ましとサポートのメディアとしての機能を発展させた。つまり、緊急事態宣言の下で危機の現実感とそれに立ち向かう人びとの意識の共有を可視化するメディアとなっていったのである。それは〝個人の対処の弱さ〟という国民のウィークポイントを乗り越える武器となった。

一方、テレビをはじめとしたマスメディアはいかなる役割を果たしたのか。マスメディアは、全国各地の異なる職業や世代の人びとの発言などを多角的に提供する機能を果たした反面、死者への悲しみを過度に放送するという手段によって視聴率競争を繰り広げた。このメディアのあり方を比べたときに、SNSでは人びとが等身大の目線でコロナ危機の現実感を発信し、自発的に対処を訴えたため、幅広い共感が広がったのだ。そして自粛の非同調者を糾弾するのではなく他者に語りかけ、自粛にポジティブな意味をもたせることで、物理的に接触できない他者との連帯と意識の共有を広げた。無論、SNS上でも医療従事者に対する理不尽な行動や過度の自粛警察的行為が多々見られたことはぬぐえない汚点だが、政治主導とは異なる社会の大きな動きが認められる。

このように、じつは政治非関与と私生活強調のあいだには、比較的高い相関がある。小泉政権時のデータからもそれは確認されており、筆者のデータにおける相関係数は0.5程度で中程度のプラスの関連を示す。つまり、政治から私生活に逃避することと、私生活から政治圏へと関心を展開することは紙一重なのだ。星野源の呼びかけが、安倍首相への反発と同時に、多くの国民の連帯を呼んだことにはそうした含意がある。政治参加のために、人びとが大きな意識変革をする必要はない。いまある視線を変え、気づくものがいままでと異なるようになるだけでよいのだ。それが紙一重の意味である。たとえば同じ「#うちにいよう」でも首相への反発に目を向けるより、人びとがこぞって星野にコラボすればよいではないか。それが社会のあり方を変えるのだ。

コロナで培った共有経験を活かす

近年、民主主義の根幹を支える社会関係資本のなかで、人びとのネットワークや他者への信頼、互酬性の枯渇が進んでいる。社会の?がりを再生し、統治に対する不安が強い状況から脱却するには、私生活志向から一歩を踏み出す必要がある。われわれが感じている統治への不安は、市民が政治に参加し、責任の一端を引き受けることでしか手綱を取ることはできないのだ。そして、「政治とはなるようにしかならない」という無関心から紙一重のところに日本人が政治へと踏み出していく道が開かれている。

まずは人びとの協調と互酬のネットワークを、現実世界と同時に、SNSをはじめとしたバーチャル世界のうえで形成していくことこそが、その一歩につながる。

たとえば、自粛警察のような「自分の私生活を守る」相互監視の動きも、他者を「監視」をするスタンスではなく、「お互いに頑張ろう」という意識を高め合うことで政治への参加意識を養うことに繋がるかもしれない。つまり互酬的な考え方によって互いの自粛、そして社会全体の自粛政策を支える、ということである。

コロナ禍における日本人の意識の低さは先述したとおりであるが、そういった個人の対処行動の弱さを監視によってカバーするのではなく、「おうちにいよう運動」と同じ目線から、人びとの社会や政治への参加として進化させることはできないだろうか。国民が同じ目線をもつことにより、「自発的な価値」と「規範の共有」を生み出し、「コミュニティの協調的な行動」を創り出すのである。

かつてもこのような「等身大の政治」という呼びかけは起きたものの、成功したことがない。それは日本人が危機に晒された際、メディアを介して他人とリアリティを共有するような経験や、無関心を脱却し、一致団結して何かを解決する経験が乏しかったからではないか。しかし、いまや人びとはSNSという独自のメディアをもち、自ら情報を拡散しながら、他人と経験を共有できるのだ。それを日常の政治的課題にも応用し得たとき、投票以外の日常の政治参加への道はもう少し広がるのではないだろうか。コロナ災禍のなかで、われわれはそれを目撃し、経験し得たように思われる。

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池田 謙一(同志社大学社会学部教授)
池田 謙一(同志社大学社会学部教授)
1955年生まれ。78年、東京大学文学部社会心理学専修課程卒業。82年、同大学院社会学研究科単位取得中退(後に博士〈社会心理学〉)。92年、東京大学文学部助教授。2000年、東京大学大学院人文社会系研究科教授。13年より現職。『震災から見える情報メディアとネットワーク』(東洋経済新報社)、『「日本人」は変化しているのか』(勁草書房、2018年度日本社会心理学会出版賞)、他著書論文多数。

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