「9月入学」と危機対応(前半部)
―目的と手段の対応関係を明確に―

中里 透(上智大学経済学部准教授)

危機に見舞われると不思議な高揚感が漂うためか、「この際だから」という理由で社会制度を抜本的に変える大改革の提案がなされることがある。たしかに既存の制度は慣性のもとにあって、平時には現状維持のバイアスが生じることがあるから、普段なら当然と思われていることを新たな視点で再考することは大事なことだ。

だが、そのような見直しは手順を踏んで落ち着いた環境のもとでなされるべきものであり、「この際だから」という理由をもって中間省略登記のようなことをしようとすると思いがけない結果が待ち受けている。「国策へ理屈は抜きだ実践だ」(日本カレンダー株式会社・昭和16年)というモードで「大改革」を進めていくと、「この際だから」は「座して死を待つよりは」と同じになり、結果は玉砕ということになるだろう。目的と手段の連関についての認識があいまいで、政策対応が「竹槍でB29を撃墜する」というような仕様になっていればなおさらだ。

このところ大きな話題となっている「9月入学」の問題についても同様のことがいえる。一部の自治体関係者からは「9月入学がグローバルスタンダード」、「今を逃すと改革のチャンスはなくなる」といった趣旨の発言もなされているが、教育行政の責任者の思い込みと思いつきから始まった大学入試改革が見事に企画倒れに終わった経過を踏まえれば(共通テストへの英語民間試験の導入と数学・国語の記述式の出題が運営面での不備のために見送られることとなったのはまだ半年前のことだ)、今回も同様の経過をたどることがないよう、具体的なデータを踏まえ実際のオペレーションの問題を考慮したうえで、慎重に検討を進めていく必要がある。

この問題については「躊躇することなく早急に政治決断を」といった声も聞かれたが、「コロナ休校」にかこつけて自らのかねてからの持論を押し通そうとするような対応は控える必要がある。危機にかこつけて自らの望む政策を実現しようという動きについては、ナオミ・クラインの「ショックドクトリン」や「惨事便乗型資本主義」のことが引用されることが多いが、このようなややこしいことを言わなくても「火事場泥棒はよくない」「どさくさ紛れはやめろ」と言えばそれで済むだろう(ナオミ・クラインの議論はこのような事象の発生をもとに新自由主義を批判するという仕様になっており、これ自体も危機にかこつけて自らの持論を展開するモードになっていることに留意が必要である)。

冷静に考えれば、この問題は臨時休校によって失われた小中学校や高校などの授業時間と児童・生徒の学生生活をどのような形で補っていくかという現実の切実な問題であり、どのような対応をとるとしても現在と将来の子どもたちに休校期間中の「欠損」に伴う負担が生じることになる。この意味で「9月入学」は不良債権処理と同じような負担調整を伴う陰鬱な問題であり、「グローバルスタンダード」といった謳い文句で嬉々として進めていくような気楽な話ではない。「ピンチをチャンスに変えた」というのはヒーローの条件であり、そのような自己陶酔に浸りたくなる心情については一定の理解が得られるかもしれないが、それは個人の趣味の範囲にとどめるべきだろう。

幸いなことに、「9月入学」についてはこのような負担調整を伴う難しい問題であるということが次第に認識されるようになった。この問題を検討してきた自民党のワーキングチームでは性急な導入を見送り、慎重に検討を続ける方向で提言がなされる見通しである。もっとも、新型コロナウイルス感染症の感染が再び拡大して学校の臨時休校が再度実施されるリスクはなお現実の問題として残っており(感染は一定の収束をみただけで症例数の増加は続いており、終息したわけではない)、その場合には早急に実施すべき措置として「9月入学」をめぐる議論が再び熱を帯びる可能性もある。

そこで、本稿では「9月入学」の問題について、これまでの議論の経過を踏まえつつ論点整理を行うとともに、この問題をもとに危機時における政策対応のあり方について考えてみることとしたい。「9月入学」の論点は多岐にわたっており、本来であれば学校教育法をはじめとする関係法令などを踏まえた詳細な検討が必要となるが、この点についてはすでに公表済の別稿に譲り、以下では危機発生時の政策対応のあり方を中心にこの問題を論じることとしたい。

「9月入学」のより広範な論点をめぐる検討については下記の拙稿をご参照ください。
・「9月入学」について考える(SYNODOS、2020年5月7日公開)
・「9月入学」について改めて確認しておきたいこと(SYNODOS、2020年5月15日公開)

1.「9月入学」をめぐる論点整理

小中学校と高校の「9月入学」は、小中学校や高校などにおける「2020年度」を5か月延長して来年8月までの17か月にするとともに、来年からは新入生の入学時期と新学年の開始時期を5か月後ずれさせて9月始まりにするという提案である。このような対応をとれば授業時間がきちんと確保されて、休校期間中に生じた児童・生徒間の学力差を解消することができるし、「グローバルスタンダード」である9月始業に日本の教育制度を移行させることもできるから、一見すると一石二鳥、一挙両得の素晴らしいアイデアであるように見える。だが、その素晴らしさの相当程度は思い込みと目の錯覚によるものだ。このことも含め、以下では「9月入学」によって実現できることとできないことについて確認しておくこととしよう。

「学びの保障」と授業時間の確保

新型コロナウイルスの感染拡大防止のために小中学校や高校、特別支援学校などにおいて臨時休校の措置がとられ、そのために児童・生徒の学習や学校行事に大きな支障が生じている。一部の地域ではすでに学校再開の動きがみられ、6月からはほとんどの公立学校において授業が再開される見通しとなっているが、4月、5月の2か月間(春休みとゴールデンウィークの期間を除くと7週間程度)に生じた授業時間の不足や学校行事の中止に対してどのような形でそれを補っていくかは現実の切実な問題である。最終学年(小6・中3・高3)以外の児童・生徒については学習内容を年度間で調整し(上級の学年に学習内容の一部を繰り延べ)、複数年にわたって長期休暇(春・夏・冬の休み期間)の日数を調整すれば補完をすることができるが、最終学年の児童・生徒については学習指導要領で定められた学習内容をすべてカバーしようとすると大きな困難が伴う。

したがって、休校措置によって失われた授業時間の確保という観点からは「9月入学」に十分な意味がある。開催時期は通常とずれてしまうかもしれないが、運動会や文化祭などの学校行事も通常通り実施することができるだろう。6月に授業が再開されれば、今年度の1学年分の学習や行事を15か月かけて実施すればよいことになるから、長期休暇(春・夏・冬の休業期間)を通常よりも3か月程度長く設定することも可能になる(たとえば、今年の夏休みを短縮せず通常通りの日数で確保したとしても、来年は6月から8月まで3か月程度の長い夏休みが実現することになる)。来年の夏には「9月入学」への移行のために学校側においてもさまざまな作業が生じることが予想されるから、6月から8月を授業などの業務を行わない期間とすることができれば、移行の準備をスムーズに進めていくうえでも便利だ。

もっとも、このような措置をとることで休校期間中に生じた個人間・学校間・地域間の格差を解消することができるかとなると、そこには自ずと限界がある。というのは、休校期間中にも児童・生徒それぞれの学びは続いており、家庭環境や個人の意思などによって学習の進展の度合いには大きなバラツキが生じていることが予想されるからだ。来年の夏休みが3か月近くに及ぶ場合には、現在の休校期間と同様の状態が長期にわたって続くことになるから、学力差が再び拡大してしまうことも予想される。つまり、2020年度の1学年を来年8月までの17か月とする措置をとったとしても、児童・生徒の学力の格差が縮小する方向に向かうことは必ずしも保証されないということになる。

これらの点を踏まえると、この措置は、通常と同じ授業時間数を確保することで、学習指導要領に定められた学習内容が当初の予定通り同じ学年のうちに教授されることを確保するという意味で、外形上「学びの保障」を公平な形で確保するための措置であると理解することが適切である。「9月入学」への移行時に生じる3か月間の空白(多くの学校が再開される今年の6月から2020度の学年末となる来年の8月までの15か月という月数と通常の1学年分に相当する12か月という月数の間の乖離)の間に長期休暇という形で学校の事実上の「休校」が生じると、この間に学力の全般的な低下と家庭環境の違いなどによる学力差の拡大が生じてしまう可能性もあるから、児童・生徒の学力差の解消に関してはこの措置にあまり大きな期待を抱かないほうがよいということになるだろう。

就学年齢の後ずれと制度変更に伴うコスト

このような形で2020年度の1学年を17か月とする措置をとれば所定の授業時間数の確保は可能になるが、この措置は学校教育全体のスケジュールを5か月間後ずれさせる形で実施されるため、結果として小学校への入学時期も5か月分後ずれすることになる。わかりやすく言えば、桜の花のもとで4月に入学式を迎えた小学1年生がその直後に「コロナ休校」に見舞われて、9月にようやく学校が再開されたのと同じ状態が毎年繰り返されるようになるというのが「9月入学」の具体的な姿ということになる(入学式は9月に移行するので、残暑と蝉時雨のもとでの入学式となるだろう)。

この5か月間の後ずれの結果、7歳5か月でようやく小学1年生になる児童が生じることとなり、日本の義務教育への就学時期は欧米の主要国よりも半年ないし1年程度遅れることになる。この後ずれは、新学年がスタートする年の4月2日から9月1日までに満6歳となる子どもを新たに小学校に迎えることにすれば回避できるが、この場合には制度移行時の小学1年生が通常の人数の1.4倍となり、この1年分の児童・生徒のためだけに校舎の増設や教員の増員が必要となる(これは小学校にとどまらず、中学校と高校についても同様に対応が必要になる)。この歪みは進学や就職の時まで続き、制度移行時の小学1年生は生涯にわたって「9月入学」の影響を受け続けることになるだろう。

しかも、この場合には4月に幼稚園の年長組になった園児が8月に幼稚園を「早期卒園」させられて小学校に入学することになり(非自発的な飛び級)、この早期卒園は幼稚園の園児の入園時期が9月に移行するまで続くことになる。つまり、小中高において4月・5月の休校期間中に失われた授業時間や学校生活を確保するためのコストは、制度移行時の小学1年生、すなわち現在の幼稚園児が大きな割を食うという形で負担されることになる。小中学生や高校生の学校生活の確保が幼稚園児の幼稚園での生活よりも優先されるべきであり、そのために現在の幼稚園児に多少の犠牲が生じるのはやむを得ないということであれば、政府は未就学児の保護者にそのことを丁寧に説明する必要がある(義務教育への就学時期が遅くなることを回避するために5歳児を小学校に入学させるという案もあるようだが、この場合にも同様のことが起きることに留意。なお、この案は就学年齢の後ずれを回避することを企図したものであるから、「グローバルスタンダード」を実現するためには未就学児の生活に犠牲が生じてもやむをえないという判断のもとで制度変更がなされることを、政府が保護者に丁寧に説明することが求められる)。

これらのことからわかるように、「9月入学」は「グローバルスタンダード」といった気楽な謳い文句や「躊躇することなく早急に政治決断を」といった無責任な言葉で語られるべきものではなく、不良債権処理と同じように極めて陰鬱な問題であるということになる。

「9月入学」と「グローバルスタンダード」

この議論をながめていて不思議なのは、小中学生と高校生の失われた授業時間や学校生活をどのように取り戻すかという現実の切実な問題が、時として「高等教育のグローバル化のために9月入学を」という議論に転化してしまうことだ。だが、この議論の展開の仕方にはさまざまな問題がある。ひとつは、小中学校や高校の「9月入学」の話と大学の「秋入学」の話の混濁が生じて、議論が混乱してしまうことだ。時には両者が意図的に混同されて、「9月入学」が「秋入学」を実現するための手段のように扱われることもある。だが、高校の卒業時期が3月と8月のいずれであっても大学の「秋入学」は独自に実施できるから、「9月入学」の話と「秋入学」の話は分離可能であり、「高等教育のグローバル化」には大学の「秋入学」という政策を割り当てればよいという筋合いになる(実際、多くの大学の学部・学科において「秋入学」がすでに実施されている)。

もうひとつは、日本の高校から海外の大学への進学を考えた場合にも、「9月入学」への移行は大きなメリットをもたらさないということだ(海外の大学の新学年の開始時期は区々であり、アジア太平洋地域については1月始まりのほうが主流であったりもするが、ここでは「9月入学がグローバルスタンダード」という見解に即してひとまず新学年が9月始まりの国を留学先と想定して話を進めることとする)。

というのは、今回の「9月入学」が全体のスケジュールを7か月前倒しするのではなく、5か月後ずれされる形で実施されるものであるからだ。この場合、海外の大学への留学を希望している高校生にとっては「3月卒業、9月入学」が「8月卒業、9月入学」(夏休みを考慮すると卒業時期は6月あるいは7月の可能性も)となるだけで、日本の高校を卒業して海外の大学に入学するまでの期間が間延びしなくて済むという以上のメリットが「9月入学」にはないということになる。

もうひとつは、「9月入学」による留学の利便性の向上(高校卒業から大学入学までの期間が近接していて間延びしなくて済むこと)によって恩恵を受ける人が同年代の人全体からみて十分に大きなものになるとは見込まれないという規模感の問題だ。足元、大学(短大を含む)への進学率は55%をやや下回る水準で推移しており、高校から海外の専門学校へ直接入学する人を含めても、この制度変更の恩恵を受ける人(海外の大学や専門学校へ日本の高校から直接進学する人など)の割合は中学卒業時の同学年の人全体の5割を大幅に下回ることになるだろう(もし「9月入学」への移行によって海外の大学への進学が大幅に増えるという見通しのもとでこの議論がなされているのであれば、大学の教職員について大規模なリストラを行うことも併せて提案されないといけないという筋合いになる)。こうしたもとで、中卒・高卒で就職する人も含まれる初等中等教育の対象者全員が影響を受ける大幅な制度変更を行うことが、費用対効果の観点か見て妥当なのかについては慎重な判断が求められる。

さらに言えば、「新学年の開始時期を同じにすれば留学生が増える」という見解についても精査が必要となる。日本の大学・大学院への留学生が最も多い国は中国であるが(全体の約4割)、中国の新学年の開始時期は9月である。中国に次いで日本への留学生が多いベトナムも学年が9月始まりの国であり、この2か国からの留学生が日本への留学生のほぼ3分の2を占めている。一方、日本と同様に新学年が4月に始まりで、人口が中国とほぼ同数であるインドからの留学生は中国からの留学生の60分の1にも満たない。ここからわかるのは、新学年の開始月が同じであるということは各国から日本への留学生の多寡を規定する主たる要因ではないということだ。

そもそものことを言うと「9月入学がグローバルスタンダード」という見解の妥当性についても留意が必要である。初等中等教育の学年歴をみると、総じてアジア太平洋地域では新学年の開始月が年の前半(上半期)のいずれかの月となっている国が大半である(注目すべき大きな例外は9月始まりの中国あるが、新学年の開始時期が大幅にずれているにもかかわらず、日本への留学生が最も多い国は中国であることにも留意が必要となる)。これに対し、欧米諸国は新学年の開始時期が年後半(下半期)の8・9・10月に集中している(米国は7月始まりとされることがあるが、州によって開始時期が異なり、高校については8月下旬のところが多い)。

つまり、「9月入学がグローバルスタンダード」ということが言われる場合の「グローバルスタンダード」は欧米諸国の制度や慣行を「国際標準」とする発想に基づくものであり、したがって「グローバルスタンダードを目指せ」は「脱亜入欧」「欧米列強に伍して」「西側先進国に追いつき追い越せ」の令和版ということになる。

これらのことを踏まえると、「グローバルスタンダード」という理由をもって「9月入学」を進めていくことには十分な合理性がなく、この点をことさら強調する見解からは一定の距離をおくほうがよいということになるだろう。

以上のことをまとめると、「9月入学」については、今年度の1学年を17か月とすることで臨時休校によって失われた授業時間と学校生活を取り戻すことができるというメリットと、それに伴って日本の義務教育への就学時期が欧米の主要国よりも半年ないし1年程度後ずれしてしまうことによるデメリットを比較衡量して実施の是非を判断すればよいということになる。

「9月入学」の実施によって欧米の主要国と同様の学年歴をもつことが可能になるが、それは周回遅れで先頭にたどりついたのと同じ状態になるということに留意が必要である。

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中里 透 (上智大学経済学部准教授)
中里 透 (上智大学経済学部准教授)
1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授、日本政策投資銀行設備投資研究所客員主任研究員。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。