プラットフォームと戦略的関係を結べ

山本 龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)

本稿は『Voice』2020年6月号に掲載されたものです。

GAFAのサービスが社会基盤となるいま、日本はいかなるモデルを構築すべきなのか

プラットフォームとは何か

プラットフォーム(以下、「PF」という)は、新型コロナウイルスに対する人類の格闘の成否を決定付けるキープレイヤーである。SNSが偽情報や憎悪表現を含む雑多なコロナ関連情報をいかに伝播または濾過するかによって、世上の「空気」は大きく変わる。また、対策に必要なデータをふんだんに保持しているのはPFであり、それらが国家といかにデータ連携するかによって、感染対策の実効性も変わりうる。本稿の目的は、PFと主権国家との関係性を探り、PFの存在を前提とした国際秩序の新たな構図を描出することにある。だが、その試みは、現下のコロナ対策において国家とPFがいかなる関係を取り結ぶべきかについても若干の示唆を与えるだろう。

GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)のような巨大PFが、検索エンジンやSNSの提供を通じて、いまやわれわれの社会経済生活の基盤となっていることは疑う余地がない。今後は、「通貨」発行や教育、保険・福祉サービスの提供といった伝統的な国家事業をも吸収しながら、その基盤的性格をますます強めていくだろう。こうした傾向を踏まえ、フェイスブックを“Facebookistan”と呼ぶレベッカ・マッキノンの議論など、巨大PFを「国家」に擬える見解も少なくない。マーク・ザッカーバーグが、ローマ帝国の初代アウグストゥスを敬愛して止まないという事実――ザッカーバーグの次女の名はAugustである!――も、PFの国家化、それも帝国主義化に一定の信憑性を与えている。

だが、この国家擬制説は、PFが 存在しているという事実(フェイスブックはじつに100以上の異なる言語で提供されている)、膨大なデータ保有量やユーザー数(2019年12月時点で、フェイスブックのアクティブユーザーは世界人口の30%以上に当たる25億人に達している)を背景に、主権国家に対抗しうる力を有し、時に国家の権力行使からユーザーの自由を保護する「私的」防波堤として機能するという事実を見過ごしている。この点を踏まえるなら、PFは、国家というより、中世封建制の時代に君主から自立しながら特定の「場」を支配し、統治していた荘園(manor)に近い。実際、PFは、中世の荘園領主と同様、国家や「ならず者」(不当に個人データを収集・販売するようなデータ・ギャング)から「領民」としてのユーザーを保護しながらその生活基盤を支える反面、ユーザーから「貢租」としてパーソナルデータを取り立ててその自由を制約し、自らの「場」に囲い込む両義的存在である。

PFの時代を非国家的中間団体が跋扈する中世封建制に譬える論法は、筆者のオリジナルではなく、すでに2000年代後半から現れていた。最近では、米国の若き経済学者グレン・ワイルが、PF時代の特徴を、PFが魅力的なサービスでユーザーを惹き付けて囲い込み、ユーザーにデータを耕作、提供させてその利益を独り占めする「テクノロジー封建主義」と表現している。

日本では、国際政治学者の田中明彦が、90年代半ば、国際機関・多国籍企業・NGO(非政府組織)等の超国家的・間国家的組織の機能拡大を踏まえて、その時代を「新しい中世」と称したことが有名だが(なお、近年はその概念をアップデートし、「ポストモダンの『近代』」を提唱している)、現代は、巨大PFをキープレイヤーとした「新しい中世」が動き始めているといえよう。

この時代において巨大PFは、法哲学者の大屋雄裕が指摘するように、小規模の荘園ないし中間団体というより、国境を越えて権勢を振るい、信徒の生活に重要な影響を与えたカトリック教会に近いのかもしれない。なるほどPFは、教会同様、アルゴリズムという(ius canonicum)、アカウント凍結(追放)という、データ徴収という を有している。かかる共通性に着目すれば、いまやグーグルやフェイスブックは、中世カトリック教会にも似た世界史的存在になっていると考えることができる。

国家と教会、国家とプラットフォーム

中世から近代にかけての国家―教会関係は、現代の国家―PF関係を考えるうえでも重要な示唆を与える。周知のとおり、欧州における国家―教会関係はきわめて複雑なものであった。たとえば、神聖ローマ帝国の序開とされる800年のカール大帝戴冠は、教皇が大帝の頭に帝冠を載せたがゆえに、教皇(教会)が皇帝(国家)に優位するのだという教会側と、載冠後に大帝に頭を下げたのは教皇であったがゆえに、皇帝が教会に優位するのだという皇帝側との対抗を生んだ。

11世紀後半から12世紀初めにかけては、司教任命権をめぐって教皇と皇帝が対立する。教会を追放された皇帝ハインリヒ4世がカノッサ城門で教皇に跪いて許しを請う「カノッサの屈辱」はそれを象徴する事件だ。この司祭任命権闘争は、「妥協の産物」ともいわれる1122年のヴォルムス協約(Konkordat)によって一応の解決が図られるのだが、神聖ローマ帝国期を通じて、国家と教会は一定の戦略的協力関係を築いてきたといってよいだろう(協約モデル)。

他方、東ローマ帝国(ビザンチン)では、皇帝が教会(東方教会)の統治者ともされ、教会トップの総主教は皇帝の支配下に置かれた(政教一致モデル)。そしてフランス革命以降は、政治から宗教性を排除して強いナショナリズムを醸成するとともに、宗教的多元性や国民の信教の自由を確保するため、国家と教会を厳格に分離する政教分離(laïcité)が近代国家の基本原則とされたことは教科書が教えるとおりである(政教分離モデル)。

かような整理は、現代の国家―PF関係の検討にも一定程度転用できる。たとえば中国は、政府とPFとのあいだに実質的な緊張がなく、政府――現在であれば 習近平――がBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)といったPFを強力に管理・統制することができる。この点で、ビザンチンの政教一致モデルに近いといえよう(府と報基盤の一致ということで、便宜上これを「政 一致型」という)。法律上も、「国家の安全」等のためにPFは国家に協力することが厳格に義務付けられ、政 のデータ連携やPFを通じた国家のコンテンツ管理(言論統制)が容易に実行される。コロナ対策でいえば、政 挙げてのデジタル監視が可能になるうえ、言論統制により政府の指示が一元的に伝播されるから、感染拡大を効率的に制御することができる。しかし、それが自由、とりわけ感染者を含む少数者の人権の犠牲の上に実行されることは多くの説明を必要としない事実だ。

欧州は、PFを統治にとっての「他者」として敵視し、GDPR(EU一般データ保護規則)等の個人データ保護法制によって政 のデータ連携を厳格に規制する点で、先述の政教分離モデルに近い(政 分離型)。この体制下では、大規模な監視ネットワークの形成が抑止され、国民のプライバシーが手厚く保障される反面、政 のパートナーシップがうまく図られず、国民がデータ利活用のメリットを享受しづらいといった課題がある。

また国家が、政教協約のような形でPFと戦略的関係性を取り結ぶことが困難なため、PFに対する対応が といった硬直的なものになりやすい。偽情報を例にとれば、それは、国家が傍観者となるか、PFに削除を義務付けるような積極的規制者となるかという二択になる。ただ、前者には情報リテラシーの限界から国民が偽情報に惑わされるリスクがあり、後者には検閲のリスク、また逆にPFの強い抵抗により規制が実効化しないといったリスクがあるため、どちらにせよ偽情報への合理的対応とはならない可能性がある(この点で、偽情報の取締法として2018年に成立したフランスの「情報操作との闘いに関する法律」の動向が注目される)。PFを統治の1プレイヤーとして認めない政 分離型モデルでは、仮にPFが国家事業を遂行するうえで有益なデータをもち、有効なアルゴリズムを設計できる場合でも、国家は当該事業をPFにアウトソーシング(外部委託)することができない。したがって、本来は実行可能な国家統治の再構築やスリム化を大胆に進められないという問題もある。

米国は、(州を含む)国家がPFの独立性・自律性を尊重しながらも、PFの行為を戦略的に促進または抑制することで、特定領域における協働的な関係構築を図ろうとする点で、神聖ローマ帝国下での政教協約モデルに近い(政 協約型)。たとえば、米国の通信品位法は、PF上でいかなるコンテンツを削除するかの具体的判断をPFに委ねる一方、実効的な削除システムを自主的に構築することを怠るPFに一定の法的責任を課すことで、PFにシステム構築に向けたインセンティブを与えている。また、ある州は、PF上でのユーザーの人種差別的行為を放置する責任がPFにあると宣言したうえで、改善に向けた州への状況報告義務と監査の受け入れ義務等を内容とする「協定(agreement)」を州側と結べば、PFはその責任を免除されるとして、問題解決に向けたPF自身の積極的な取組みを促している(2017年のAirbnb―カリフォルニア州間の協定が有名)。

ここでは、アルゴリズム的解決が可能かつ有用な社会的課題は、アルゴリズムの専門家であるPFの自主的取組みに委ね、国家はその取組みをモニタリングする役割に自らをとどめおくという、相互の独立性・自律性を重視した協働的関係が模索されている。もちろんPFも、国家に優位する膨大なデータ保有量と、それに裏打ちされたアルゴリズム権力を背景に、国家に一定の譲歩を迫ることができる。その意味で、協約モデルにおいては、国家とPFが――皇帝と教皇が物理的権力と宗教的権力の均衡を背景にかつて行なったように――物理的権力とアルゴリズム権力の均衡を背景に、協働的統治を行なっているようにみえる。

日本はどのモデルを選択すべきか

国際秩序は、国家とPFの関係性に関する既述の三類型によって色分けされていく可能性がある。問題は、そのなかで日本はどのモデルを選択すべきか、だ。

国家―PF間でシームレスにデータ連携可能な政 一致型は、サイバーフィジカルシステムへの移行や社会全体の最適化を最も迅速に達成しうる。これはたしかに魅力的である。しかし、それが同時に、生活空間全体に隙間なく監視ネットワークが張り巡らされることを意味する点には注意が必要であろう。もちろん、それによって社会の安全や多数者の健康・幸福はよりよく保障されるかもしれないが、自由、とりわけ少数者の人権の苛烈な侵害をもたらしうる。また、PFの(国家からの)独立性が否定されることで、PFのアルゴリズム設計にまで政府の手が伸び、AI(人工知能)のメリットである統計的客観性が歪む可能性もある。そうなると、中長期的には、多数者の幸福実現(功利主義)すら危うくなることも考えられる(が、全体的監視により国民はこれを民主的に批判できない)。さらに、政一致型では、海外PFとの連携が否定される傾向がある(デジタル主権)。それにより、世界規模でのデータ循環が困難になり、中長期的には国内のAIがやせ細っていく可能性もある。

分離型は、公私区分や民主主義といった近代立憲主義の伝統を最も色濃く残したモデルである。ただ、その伝統を重視するあまり、PFが有しているデータ上のアドバンテージをうまく生かすことができず、統治の非効率性を生み出してしまうように思える。近年、欧州でも、社会的課題に対するPFの自主的取組みを国家が水平的にモニタリングする協約モデル(一般に「規制」と呼ばれる。生貝直人『情報社会と共同規制』、勁草書房)が受容されつつあるという事実は、近代の伝統を継受する厳格な政 分離モデルの現代的限界を示しているようにも思われる。

こうしてみると、国家とPFが相互にその独立性を認め、戦略的なパートナーシップを結ぶ協約型が日本においても魅力的に思える。安全保障を例にとれば、現在、主権侵害の脅威は、PFを通じた他国からの情報操作によってももたらされる。PFを媒介に組織的な情報拡散を行ない、対象国の言論空間と民主主義過程を歪めるロシアのトロール部隊や中国の五毛党の存在は夙に有名である。いまや砲弾による物理的攻撃より、平時に、秘密裏に行なわれる組織的な情報操作のほうが遥かに脅威であるとさえいえよう。こうした「攻撃」に対処するには、「戦場」となるPFの協力が不可欠である。PFがもつ情報や分析能力が「防衛」のために重要なのだ。かく考えると、PFをプレイヤーとして想定した「集団安全保障」の枠組構築が必要であり、そのためには国家が、交渉を通じてPFと戦略的な協約(協定)を締結することが重要となる。

また、コロナ対策のような公衆衛生上の取組みについても、大量のデータを通じて国民の生活実態を詳細に把握しているPFとの戦略的パートナーシップが不可欠となる。事実、2020年3月31日には、日本政府は「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に資する統計データ等の提供について(要請)」を出し、PFに協力を求めた。ヤフーやLINEがこれに応じて政府と「協定」を締結したのは周知のとおりである。ここで注目すべきは、ユーザーのプライバシー等を守るため、PF側も協力するにあたっての諸条件を提示し、協定内容について政府とことである。

さらに、福祉事業についても国家とPFとのパートナーシップが重要となりうる。とくに欧州においては、もともと福祉の中心的な担い手は国家ではなく教会であった。今後は、かつての教会以上に国民一人ひとりの生活状況や健康状態を――データを通じて――詳細に把握しているPFに福祉事業の多くをアウトソーシングすることも十分考えられる。スマートシティ化により、自治体―PF間の「協約」締結は不可欠となろうが、福祉やヘルスケアの役割分担は「協約」締結の際の重要論点となるべきだ。

このように、国家がPFと戦略的な関係を取り結ぶことで、公的負担を減らしながら、手厚く、きめ細かい福祉を提供することが可能になるかもしれない。

新たな統治モデルとしての「立憲的」封建制

もちろん、協約型統治にもさまざまな課題がある。たとえば、PFのアルゴリズム権力によって、国家やユーザーがPFに「ハック」される(乗っ取られる)危険性がある。これを防ぐには、国家の側に一定の交渉力や威嚇力が必要であろう。こうした力を得るために、国家間の協力・連携が不可避であることはいうまでもない。また交渉力は、PFの代替性によって担保される。「替えがきく」からこそ、国家はPFに対してある程度「物申す」ことができるのである。PFの代替性・多元性を維持するには、競争法的な規律をかけ、特定PFの独占を防ぐ必要がある。独占は、国家との関係で、PFに力を与えすぎるのだ。さらに、日本政府が海外PFに対し交渉力をもち、戦略的な関係を築くには、国内に有力PFが存在していることが重要となる(この点でヤフーとLINEとの経営統合が注目される)。

協約型統治の課題として、PFによる専制的な搾取や、ビジネスユーザーへの抑圧の可能性も挙げなければならない。国家は、それらを防ぐための取組みをPF自身が積極的に講じるよう、PFのガバナンスの透明性を高めていく必要があるだろう。また、こうした取組みを怠っている PFからユーザーが離脱し、スムーズに別のPFへ移るための仕組みも重要になる。PFに提供したデータを自由に持ち運べるポータビリティ権は、そのための重要な手段として位置付ける必要がある。かつての封建時代には、荘園間を移動する自由が厳しく制限されていた。教会権力から逃れることも容易ではなかっただろう。現代のデジタル封建制は、こうした中世的封建制とは別物であるべきだ。それは、データを使って、国民の自由と安全をこれまで以上に実現することを目的としたものでなければならない。そのためには、公共的な事業を託された複数のPFのなかから、サービス提供を受けるPFを国民自らが選択する自由を認める必要があるだろう。

PFを統治のキープレイヤーとする協約型モデルがめざすのは、データポータビリティ権を含む基本的人権の保障を目的とした、封建制なのである。

〈文中、敬称略〉

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山本 龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)
山本 龍彦(慶應義塾大学法科大学院教授)
1976年、東京都生まれ。99年、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。2005年、同大学院法学研究科博士課程単位取得退学。07年、博士(法学)。桐蔭横浜大学准教授などを経て、現職。慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)副所長も務める。著書に『憲法学のゆくえ』(共編著、日本評論社)、『おそろしいビッグデータ』(朝日新聞出版)、『AIと憲法』(日本経済新聞出版社)など。

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