コロナ後の世界を創る意志

御立 尚資(ボストン コンサルティング グループ シニア・アドバイザー)

本稿は『Voice』2020年6月号に掲載されたものです。

並存の時代に人類を襲ったコロナショックは、私たちに多くのメッセージを投げかけている。可塑的な未来の選択肢をつくるために、われわれがいまこそ立てるべき「問い」とは

並存の時代

コロナ禍後の未来の世界は、どのようなものか。この問いには、違和感を抱かざるを得ない。「未来は決められてしまうもの」という決定論的で受動的なニュアンスが伴っているからだ。たしかに、突如やってきたパンデミックはヒトの力の限界を突き付けた。もとより、人間が自然をコントロールできるなどと決めつけず、その関係をより謙虚な姿勢で受け止めることは必須だ。

しかし、未来には可塑的で、われわれの選択の積み重ねでできあがる部分が確実に存在する。いま求められているのは二つの問いの峻別だ。コントロールし難い領域について「高い蓋然性で近未来に起こることは何か。そのなかで備えておくべきことは何か」と問うこと。そして、われわれ次第で姿が大きく変わりうる「可塑的であり、能動的に選択すべき未来とは何か。何を原則として選択を行なうのか」と問うことだ。これらを切り分けて、意志をもちそれぞれを考え抜かねばならない。

今回のパンデミックは未知との闘いの連続だ。リーダーは日々足元の緊急事案への対応に追われ、その頭のなかも時間の使い方も、緊急性のあることで埋め尽くされがちだ。しかしコロナ禍を闘い抜き、そのあとにより良い未来をもたらすためには、「自らが備える未来」「自らがつくる未来」という視座を含めて、多層的な判断を積み重ねていかねばならない。

近未来に蓋然性が高く起こりそうな「混乱」を予め考え抜くことで、はじめて先手の対応が可能となる備えができる。不安にあふれる社会に充満しがちな「空気」に流されるのではなく、また「単純化した二者択一」に逃げるのでもなく、可塑的な未来の選択肢をつくり出し能動的に選んでいくことで、はじめてより良い未来に手が届く。いまこそ、この二つの問いを設定し、追求していくことがリーダーの責務であろう。

そして、リーダーの方々がこの二つの問いを考え抜くには、「われわれは二つのパラダイムが並存する時代に生きている」という視座が大いに役に立つと考える。

COVID-19(新型コロナウイルスという言い方がなされるが、SARSもMERSも、さらには今後いつ出てくるかわからない次のコロナウイルスもみな「新型」であり、COVID-19という名称を使わせていただく)が猛威を振るう以前から、われわれは巨視的な屈曲点にあたる時期を生きるようになっていた。

現在は二つのパラダイムが並存する時代だ。一つ目のパラダイムとは工業化をグローバルに広げることで富を生み、結果として人類全体の幸福の総量を高めていく「工業化社会」をつくる時代である。現在はこれが最終盤に入り、貧富の格差拡大、気候変動の影響の顕在化、地政学リスクの増大といったデメリットが目立つようになってきている。

二つ目は「デジタル社会」の端緒たる時代だ。まだそのメリットが人類の幸福を高めるところまでは達していないが、データを活用し、人間の認知能力・身体能力を拡大する時代はすでに始まっている。

残念なことに、二つのパラダイムが並存する時代には、さまざまな混乱が起こる。旧パラダイムが内包する矛盾があふれ出し、混乱の原因を生む。また、旧パラダイムに慣れた思考・行動形態は既得権と相まって、強い慣性をもち、変化を求める新時代の潮流、とくに新パラダイムへのシフトを求める層と強くぶつかりあう。

「工業化からデジタル化」ほどグローバルでも巨視的でもないが、日本の例として、貴族の時代から武家の時代への転換期をみてみよう。

平安末期、平清盛が権力を掌握していた時代は、貴族社会の最終盤と来るべき武家社会の端緒が並存していた。地方の所領からの富を背景に、宮廷を中心とした政治と文化を磨いてきた貴族社会。その終盤に至り、地方では本来は貴族の代理人であった層が在郷武士化し、地方の実質的統治者となりつつあった。彼らと委託者、あるいは相互間で主として経済権益をめぐる争いが増え、さらには延暦寺山門など宗教勢力も巻き込み、都でも騒乱が頻発した。都に住む貴族による地方所領統治という制度が建前と化し、混乱を生む源泉となったのだ。

そのなかで日宋貿易という新たな富の源泉をつくり、都と宮廷を守る武装勢力の長としても強い影響力を行使できる立場に立ったのが平清盛であった。いわば武家の時代という新しいパラダイムの象徴たり得たのだが、彼は旧パラダイム、すなわち貴族社会の仕組みを残し、そのなかで実質的な最高権力者となることを選んだ。まさに新旧パラダイムの並存期である。

鎌倉武家政権が立ち上がるまでのこの並存期は、混乱の時代でもあった。大きくいえば保元・平治の乱から平家滅亡、そして新パラダイムができ上がる鎌倉武家政権成立までは、並存が変化と混乱を生んだ時期でもあったといってよいだろう。

工業化社会の広がりとパンデミック

今回のCOVID-19のようなパンデミックと混乱も、じつは工業化社会の副産物であり、旧パラダイムの矛盾からもたらされた部分がある。先進国から新興国まで工業化が拡大するに伴い、世界中で人びとは地方から都市に移り住み、大都市が次々と生まれた。一方、大都市を中心に増加する人口を支える鶏や豚の食肉生産は大規模化し、生育の場も多くは大量生産の工場のように運営される。何らかのきっかけで、ウイルスの宿主である他の動物から鶏や豚にウイルスが感染すると、高密度で育てられている食用動物間で相互感染が繰り返され、ウイルスの変異が起こる。人間への感染性をもつものも出てくるし、あるいはコウモリのようなウイルス宿主の生存領域のすぐ近くまで都市圏が広がり、直接・間接に人間に感染する確率が高まってしまう。

こうやっていったん人間に感染したウイルスが、人口密度が高く、人びとの移動と接触が多い大都市に広がると一気に感染者数が増え、さらにグローバル化した人の流れとともに、世界的なパンデミックとなっていく。今回のCOVID-19がコウモリから直接人間に感染したのか、それとも異なった宿主からのものか、いまだにわかってはいないが、都市住民の誰かが感染したものが急激に広がり、国境を越えて移動する人が他の国や地域にウイルスを広める役割を果たしてしまったことは間違いない。言い換えれば、グローバルな工業化がパンデミック発生の確率を大きく高めているのだ。

1918年から19年、地域によっては20年まで3年近くのあいだ複数の感染の波を繰り返したスペイン風邪。このパンデミックの発生には、第一次世界大戦による軍人のグローバルな移動、そして兵舎や艦船内での密集という条件が揃っていた。当時はウイルスの存在が知られていなかったこともあるが、終戦とともにこれらの条件がなくなり、感染症自体もどこかへ消え去り、詳細な振り返りや研究がなされないまま長らく忘れ去られていた。(アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』、みすず書房)

COVID-19は、単発で条件が揃ったスペイン風邪とは異なり、工業化社会のグローバル化でパンデミック化しやすい条件が継続し続ける状態が生んだ。したがって、今後も別種のウイルスによる感染症がパンデミック化する可能性は高いといわざるを得ない。COVID-19によるコロナ禍への対策は待ったなしだ。一方で致死率を考えると、不謹慎な言い方かもしれないが、来るべきより危険なウイルスによるパンデミックへの準備を世界に強いる機会としても捉えなければならない。

「並存の時代」と混乱・困難への備え

さて、第一の問いに戻ろう。「高い蓋然性で近未来に起こることは何か。そのなかで備えておくべきことは何か」という問いだ。

リモートワークの進展、教育や公共サービスといったデジタル化が遅れていた領域でのデジタル活用の拡大など、デジタル化社会へのシフトを加速させる事象は増えていくに違いないし、これを予測することはさほど難しくない。冬の終わりには、地表に目を凝らすと小さな芽生えをみつけることができる。つまり、デジタル化社会の端緒にある時代に、「ミライの兆し」として芽生えていたものが、ポジティブなかたちで急成長するということだ。規制緩和とさまざまな実験が繰り返されながら、着実に進展するだろう。

より考えるべきは、一定以上の蓋然性があり、備えておくべき混乱あるいは困難は何か、ということについてだ。まずは工業社会化の最終盤ゆえ発生しやすくなっていた問題が顕在化し、コロナ禍と相まって大きな混乱・困難を生む、というシナリオだ。

米国一極集中から多極化に向かう流れのなか、米中が新冷戦ともいうべきライバル関係になっている。同時に、先進国から新興国まで含めて大局的に国際協調をリードする国は存在しない。このため、いくつかの火種がグローバルな大火に繋がるリスクが高まっている。

今回のコロナ禍はほぼ同時に起こった原油価格の急激な下落によって、すでに一部の国にとって三重苦となっている。コロナ自体による健康被害に加えて、原油収入が大幅に減少、コロナ対策とそれに伴う経済的困窮への支出が限られ社会不安が増大する、という事態だ。すべてのパンデミックは、もっとも恵まれない立場にある人たちを痛撃する。国自体が貧しく、格差が大きい国ではなおさらだ。中東の一部の国、あるいはベネズエラなどでは体制に対しての不満が蓄積し、暴発しかねない。その解消を狙う意図も相まって、冒険的な対外政策をとるリーダーが現れ、場合によっては地域的な軍事紛争が引き起こされるかもしれない。産油国以外でも、たとえばトルコは難民のあいだで起こるコロナ禍に手を焼き、意図的に国境を開いて他国に流入させようとするかもしれず、大きな軋轢を生む。

また、新興国からの資本逃避はものすごいスピードで起こっている。IMF(国際通貨基金)などは借入金の支払い猶予やリスケジュールなどを必死で進めるだろうが、国際協調体制の弱体化から、「地政学リスク×新興国の経済破綻」という事態が起こり、新興国発の経済・金融危機が発生する事態は十分想像できる。

もちろん、自然災害がコロナ禍と重なると先進国でも大混乱が起こる。わが国の場合であれば、いつあってもおかしくない直下型地震や火山噴火といった事態もそうだ。コロナ禍への対応が長引けば長引くほど、これらも視野に入れざるを得ない。

一方、新しいデジタル化時代へのパラダイム転換はどうだろう。デジタルシフトが急速に進み、数多くの人がインターネットに生活や情報収集を依存するようになるなか、大規模なサイバー攻撃が行なわれ、仮にある地域でのネット利用がストップするような事態になれば、これまた大混乱は必定だ。残念ながら脆弱な部分を狙うこういった輩はきっと存在する。

誤解なきようにあえて付言するが、こういった混乱・困難をいくつも挙げたのは、オオカミ少年のごとく不安を煽ろう、という意図ではない。時代の屈曲点に現れる混乱の種とCOVID-19という大変な試練が掛け合わされると、さらに混乱・困難が起こりやすい環境が生まれる。リーダー各位にとっては一定の蓋然性のあるシナリオも頭におき、仮にそうした事態に陥ったときに何をなすべきか、何が重要かを考え、可能な範囲で事前に手当てをしておかねばならない、ということである。

グローバリゼーションの終焉は不可避か

さて、「可塑的であり、能動的に選択すべき未来とは何か。何を原則として選択を行なうのか」という問いについても、考えねばならない。

日々の対応に追われるなかで、受動的に流されるのでもなく、単純に白黒をはっきりさせた議論に堕するのでもなく、いまから行なわれる意志決定がわれわれにとっての未来を形づくると心に決め、より良い選択肢を増やし選んでいく。いまから行なわれていく小さな選択が分岐点となり、将来の姿を大きく変えるのだから。

まずは、グローバリゼーションについて。COVID-19へのこれまでの対応で明らかになってきたのは「ソブリンネーション(主権国家)」の復権だ。もともとグローバリゼーションへの反発が強まっているなかで、それぞれの「国」単位でCOVID-19対策が始まった。とくにポピュリスト政策で支持を得たリーダーたちは、あからさまな「自国ファースト」の姿勢をとり、人工呼吸器や防護服といった医療用製品、あるいは食料まで自国優先に確保する。なかには、これらの資源をソフト外交のツールとして使う国も出てくる。

では、グローバリゼーションは逆行せざるを得ないのか。そう単純な話ではない。たとえば、COVID-19への対策においても、知のグローバル化がものすごい勢いで進行している。今年1月11日に中国の科学者が発表したCOVID-19の遺伝子情報をもとに、世界中でワクチンの開発がスタート、3月16日には米国企業による最初のワクチンがヒトを対象とした臨床試験に入った。『Nature Reviews Drug Discovery』によれば、4月8日時点で115のワクチン候補が確認されているという。中国ではCT画像によるCOVID-19の確定診断が行なわれているが、より多くの医師が確実な判断を下せるようAIによる画像分析のアルゴリズムが開発され、海外にもオープンになっている。これら以外にも、今後は予断を許さないものの少なくとも現時点までに中国の科学者、医療研究者から膨大な知見が欧米のトップジャーナルに次々投稿されている。

こうした知のグローバルな交流とその果実を世界中で享受できる流れは、デジタル化された情報の伝搬力をテコに大きなものとなっている。この流れを止めてはならない。新冷戦のなかで、軍事安全保障に繋がる分野では、あらたな「鉄のカーテン」をつくろうという動きは強まるだろう。しかし人類にとっての共通善をもたらす知のグローバル化は、強い意志をもって継続せねばならないし、それは可能だ。

サプライチェーンの自国回帰も、米中対立のなかでこれから俎上に載ることが増えるだろう。しかし安全保障上戦略的な物資を洗い出し、一定の自国生産力再構築を図る、という命題と、すべての分野で中国をサプライチェーンから外す、という命題はまったく違う話だ。経済・貿易面での安全保障能力を高めつつ、世界第二位の経済を市場として、サプライチェーンの一部として活用する。ただし、自然災害への備え同様、ある程度の冗長性を甘受し、「すべての卵を同じ籠に入れる」愚は避ける。集中と分散の両立だ。複数領域の日本企業にとってはポストコロナあるいはwithコロナの時代に競争力を担保するうえで、強かな第三の道を探るしかない。

新しい統治像とリーダー像

サプライチェーンのグローバル化のイエス・ノー、という単純な二律背反ではなく、第三の道を探り、選び取っていく。この弁証法的な姿勢は未来づくりのほかの論点を考えるうえでも重要だ。たとえば、新型コロナ対策の速やかな実行には権力を集中すべきとの議論があるなかで、いま具体的対策を先手で進めているのは、アメリカならばクオモ・ニューヨーク州知事であり、日本ならば千葉市長や福岡市長、あるいは複数の県知事たちだ。国ではなく地方自治体のリーダーたちである。これは、現場実態に即した効果的な政策を迅速に実行するには中央集権では限界があるからだ。

つまり、これからのガバナンスシステムは集中と分散を適切に使い分ける必要があるということだ。工業化の果てに生まれた超大都市モデルは、災害にもパンデミックにも弱いことが証明された。ならば、ドイツのような中型都市に分散した経済社会構造を目標とし、地方に然るべき権力を与えたうえで、国も責務を果たしていくかたちが一つのモデルになりうる。COVID-19を契機に、そうした議論こそ進めるべきではないか。

さらにいえば、利己と利他も二律背反にみえるが、両者を繋ぐシステム、すなわち「他者を助けることで、自分も得をする」ことが、私たちが追求すべき新しい豊かさだろう。工業化社会は格差を生み、パンデミックでもっとも被害を受けているのはフリーランスから難民までを含む社会的弱者だ。彼らに目配りしつつ、人類全体としていかなる豊かさや幸福のモデルをつくるのか。いま意志をもって立ち向かうならば未来は可塑性をもつ。その意味で人類はターニングポイントに立っている。

コロナ禍は、これから求められるリーダー像も浮き彫りにした。断言できるのは、科学的な知見を一定程度もっていなければリーダーは務まらないということだ。科学が日々進歩しているなか、専門家である必要はないものの、専門家の意見をきちんと理解し活用できる理系的センスは必須だ。

一方で、COVID-19についても、科学がいまだ解明できていないことは多々ある。罹患した人たちのなかには、抗体が十分にできていない人たちがいるという。このメカニズム次第では、本当に効果のあるワクチンがつくれるかどうかわからない。ひょっとすると人間の遺伝子タイプ別、ウイルスの変異株別に多様なワクチンを使いわける必要があるかもしれないし、免疫系の側を支援する薬が効果的な予防や治療には不可欠かもしれない。

単一の抗原に対しての抗体、あるいはウイルスとその増殖防止薬をつくればよい、という前提が崩れれば効果の高いワクチンや特効薬登場までの期間が予想よりも長引く可能性があるとも考えられる。科学的知見があるからこそ、現段階で科学の力が及んだところと及んでいないところについても専門家の意見をきちんと理解できる。科学的知見とは情報峻別力でもある。

新型コロナが蔓延しはじめた当初、「人から人には感染らない」「若い人は重症化しない」と語られたが、いまでは周知のとおり事実ではなかった。初期段階では、単純に「わかっていなかった」だけだったのだ。データを集めたとき、いま何がわかっていて、何がわかっていないかを見極めなければ希望的観測で決断を下してしまう恐れがある。意志決定とは往々にして不完全な情報のもとで行なわねばならず、だからこそ科学的知見をベースとした情報峻別能力が必要なのだ。

ドイツのメルケル首相が国民に行なったスピーチが話題になったが、人びとに協力と行動変容を求めていくには、科学的知見を平易な論理で語る力、そして弱者への目配りを怠らず、論理だけでなく感情にも訴えるリベラルアーツ的な識見・能力も必要であることも明らかになった。メルケル首相は、それらを組み合わせたコミュニケーションを行なう力を示した。

デジタル化と掛け算になり、生命科学や物質科学をはじめ、科学が短期間に長足の進歩を遂げる時代に入った。一方、それを活かし受け入れる社会は、工業化時代の旧パラダイムに最適化されているゆえ、さまざまな軋轢が起こり、リーダーはそれをマネージせねばならない。パンデミック対応に留まらず、リーダーの科学的識見、リベラルアーツ的な識見が強く求められる時代に入っているということだ。

後藤新平というリーダー

リーダーという意味で、過去の日本人で思い起こすのは後藤新平だ。1894年に始まった日清戦争が終わりに近づくと、日本へ帰還する軍人のための検疫が問題となった。失敗すれば伝染病が日本に広がる恐れがあるなか、検疫事業を指揮した後藤は瀬戸内海の島を切り開き、帰国船のすべてを寄せて検疫をさせた。ドイツのヴィルヘルム2世が「この方面では世界一と自信をもっていたが似島の検疫所には負けた」と感嘆するほどの大事業であったが、当初は反対の声も上がった。しかし医師でもあった後藤はさまざまなステークホルダーを見事に説得して、日本を感染症から救ったのだ。

後藤はのちに台湾統治で重要な役割を果たし、南満洲鉄道総裁や東京市長として辣腕を振るうが、描くグランドデザインのあまりのスケールの大きさから「大風呂敷」と揶揄されることもあった。それでも彼は大きいプロジェクトを前に、必ず論理とデータ、そして感情と想像力を武器に果断に挑んだ。だからこそ周囲を巻き込めたのであり、その姿から学ぶべき点は多い。

リーダーの質が、社会や組織の未来を大きく左右する時期をわれわれは生きている。危機こそリーダーを育てる好機だとするならば、現在のリーダーの失敗をあげつらうだけでなく、次世代を含めたリーダーたちを励まし、質の高いリーダーに変容していく姿勢をもつことがわれわれ自身を助けることにもなるだろう。いまこそリーダーシップとフォロワーシップ、両側が問われている。

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御立 尚資(ボストンコンサルティンググループ シニア・アドバイザー)
御立 尚資(ボストン コンサルティング グループ シニア・アドバイザー)
京都大学文学部米文学科卒、ハーバード大学経営学修士。日本航空株式会社にて、経営企画部門などを経て、ボストンコンサルティンググループ(BCG)に入社、2005年より11年間日本代表を務める。現在、複数の上場企業の社外取締役とともに、京都大学経営管理大学院特別教授などを務める。経済同友会副代表幹事や観光立国委員会委員長などを歴任。『戦略「脳」を鍛える BCG流戦略発想の技術』(東洋経済新報社)、『使う力』(PHPビジネス新書)、『「ミライの兆し」の見つけ方』(日経BP)など著書多数。

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