地政学的要衝研究会
「大人の海」としての北極海
「地政学的要衝研究会」は、日本の対外政策や日本企業のグローバル戦略の前提となる情勢判断の質を向上し、平和と繁栄を考えるうえで不可欠の知的社会基盤を形成することをめざして、鹿島平和研究所と政策シンクタンクPHP総研が共同で組織した研究会です。第一級のゲスト報告者による発表をもとに、軍事や地理をはじめとする多角的な観点から主要な地政学的要衝に関する事例研究を行ない、その成果を広く社会に公表していきます。
他地域の4倍の速さで温暖化が進む北極
2022年8月26日に北大西洋条約機構(NATO)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は、「北極におけるロシアの軍事力増強はNATOにとっての戦略的な挑戦だ」と述べて強い警戒感を露わにした。また、ウクライナ戦争以降の新たな地政学的変化の結果、北極においても中国とロシアが戦略的な連携を強化してNATOの価値観や利益に挑戦しているとして懸念を示した。
かつてイギリスの地政学者ハルフォード・マッキンダーは、ユーラシアの内陸部を「ハートランド」と呼びその重要性を説いたが、彼が当時使った地図で描かれた北極海は、夏でも氷が解けない凍ったままの海だった(図1)。
連載第12回は、「凍ったままの海」だった北極海が航行可能になることが、軍事地政学的にどのような意味をもつのかを明らかにする。またストルテンベルグ事務総長が指摘するように、気候変動とウクライナ戦争が、二重の地政学的な大変化を北極海に及ぼしていることを詳述し、北極海をめぐる大国間の知られざる闘争の一端をお伝えしたい。
2020年10月に木造の帆船が、史上初めてロシアよりの北極海航路でウラジオストクからベーリング海峡を通りムルマンスクまで航行したことがニュースになった。しかもこの帆船は北極海航路横断の途中、ほとんど氷を見なかったという。
実際NASAのデータによると、氷の面積が10年毎に13%減っており、単に氷の面積だけでなく多年氷が急速に減少している。本来、何年も凍ったままであれば圧縮されて解けにくい氷になるのだが、4年以上の多年氷がほとんどなくなり、密度の薄い一年氷が増えているという。
さらに最新の研究によれば、北極海の温暖化は地球上の他地域より早く進行する。氷雪の融解により太陽光の吸収が一層進むことで、負のスパイラルに陥り、地球全体の温暖化に比べて4倍の速さで北極の温暖化が進むのだ。
気候変動と安全保障は現在、世界中のシンクタンクや研究所、公的機関が取り組むテーマだが、1990年に米海軍大学が発表したのがこの種の最初の報告書だったとされている。
なぜ海軍大学だったのか。北極の氷を長年調査していたのが海軍だったからであり、潜水艦の作戦のために氷について知る必要があったからだ。潜水艦は、ミサイルを発射する際には氷を割って水面まで浮上する必要があるため、米海軍はどの辺の氷が薄いのか、厚いのか、時期によってそれがどう変わるのか等、氷の厚さに関するデータを長年収集・蓄積してきた。
その結果、北極の氷が減っていることに気づいたわけだが、これは当然軍事的なトップ・シークレットであり、この種の情報は米海軍と米中央情報局(CIA)が管理していた。それを当時上院議員(のちに副大統領)だったアル・ゴア氏が科学者の研究のために公開させ、そうしたデータを元に2006年に『不都合な真実』として映画化し、反響を呼んだ。
ロシアとNATOが睨み合う海
では氷が解けてくると、実際にどのような影響があるのだろうか。主に「資源開発」と「航路開発」、すなわち北極海航路を使った物流や人流が増えることになるため、それを見越して各国の軍事活動が活発になり、利権確保、影響力確保のための国家間競争が熾烈さを増すことになる。
北極海に面しているのはロシア、北欧のスカンジナビア半島でノルウェー、グリーンランドのデンマーク、カナダ、アラスカのアメリカであり、ロシアとNATOが睨み合う海が北極海である。
アメリカの地質調査所(USGS)が2008年に行なった発表によると、北極海に世界の未発見の天然ガスの30%、石油の13%が眠っているという。それ以降、北極の資源が世界中でブームとなり、話題に上るようになった。
南極は大陸であり、南極条約によりどの国も開発せず、自然環境を保護することが定められているが、北極は海である。そこで、領海、接続水域、排他的経済水域(EEZ)、もしくは大陸棚の権利を主張するなど沿岸国や関係国の思惑がぶつかる。
2008年には、沿岸5カ国が「領土問題や資源開発は沿岸国の問題だ」と主張。海洋については、国連海洋法(条約)〈UNCLOS〉に準ずるべきという宣言(イルリサット宣言)を出した。その後、沿岸国同士の対立だけでなく、中国まで巻き込んだ覇権争いの舞台になっていく。
北極海航路をめぐる国際政治
次に、北極海航路の概要を見てみよう。横浜港からドイツのハンブルク(港)まで南回りでマラッカ海峡を通りスエズ運河を通っていくと2万1000㎞になるが、北回り、すなわち北極海航路では1万3000㎞で約6割の距離に短縮できる。また海賊のリスクも低いことから、コストも安く抑えられる可能性がある。
実際に北極海航路がどの程度使われてきたのか、取引量をヤマル(LNG)プロジェクトで見てみると、2017年時には993万トンだった出荷量が、2020年には3300万トンで過去最高を記録するなど過去数年間は右肩上がりで進んでいた。
このまま順調に伸びていくかと思いきや、21年の11月に突然の寒波で海が凍りついてしまい、20隻あまりが氷の海に閉じ込められてしまう事態が発生。これに対しロシアが、原子力砕氷船を派遣して船を救出した。この事件は、寒い時期になると急に海が凍りついて身動きが取れなくなるリスクを示した一方で、沿岸国の役割の重要性も認識させることになった。
ベーリング海峡からロシア沿岸を通り欧州に至る北極海航路において、ロシアは沖の島と大陸をつないで直線基線を引き、その内側はロシアの内水だと主張している。また、国連海洋法条約234条には、氷に覆われた半閉鎖海条項があり、沿岸国に一定の管轄権があるとされている。
たとえば氷と衝突して船体に穴があいた場合、油が漏れ甚大な環境汚染が引き起こされる恐れがあるので、特定の規格の二重底船以外の航行を認めない、エスコートを義務づける、などの主張が可能だ。ロシアはこの条項に基づき、ロシアの砕氷船をエスコートとして付けることを義務づけ、その対価まで細かく規定しており、米国の主張する「航行の自由」とは逆行する。
他方、2010年4月にはロシアとノルウェーが、バレンツ海と北極海の境界画定及び2国間協力に関する協定に合意、9月に署名した。
ロシア海域では露ロスネフチ社がライセンスを取得。その後、海域南側の中央バレンツ鉱区でイタリアの国営石油会社エニ社と、北側のペルセエフ鉱区ではノルウェーのスタットオイル社(現エクイノール社)と、それぞれ共同探鉱を進めることで合意した。ロシアは海の境界線で妥協することで、ノルウェーが長年もっていた北海油田や海底油田の開発技術、ノウハウの獲得を狙ったものと思われた。
しかし2014年、ロシアによるウクライナのクリミア半島併合から、西側諸国による対露経済制裁が科されると、ノルウェーとの協力は立ち消えになり、代わりに中国が名乗りを上げた。
中国は2013年、露ロスネフチに資金だけでなく、技術やモノを提供して北極海の3つの鉱区の資源開発に参入した。2017年12月にはヤマルLNGのアジア向けのタンカーが北極海航路を東に出港して資源輸出が始まった。
軍事的プレゼンスを示し競い合う沿岸国
ヤマル半島やシベリアから北極海航路を通りアジアに向かう北極海航路沿いには、冷戦期に置かれた旧ソ連の軍事基地が残っており、冷戦後に一時期閉鎖されていたものをロシアは再開して稼働させている。
またロシア軍は2021年3月、3隻の原子力潜水艦が厚さ1.5mの氷を割って徐々に浮上する様子を公開した。アメリカや中国などが北極圏の開発に関心を抱くなか、北極圏におけるロシア軍の存在感を示す狙いがあったと見られている。
さらに22年7月31日には、プーチン大統領が新たな海洋戦略を公表。55頁の文書のなかで22頁分を北極に割き、北極海の支配がロシアにとって最も優先順位の高い問題であることを示した。「第1にこれらは私たちの北極海だ。私たちはこの海をあらゆる手段を用いて守ることを確実にする」。
プーチン大統領はこのように述べ、ロシアが北極と世界の海での海軍の戦闘能力を強化するためのさまざまな措置について説明した。
これに対して、西側諸国も負けていない。カナダは2000年代初頭から税関等政府機関を含む統合演習を実施しており、2007年からは主権を示す目的で「主権誇示(sovereignty operation:SOVOP)」演習を毎年行なっている。2009年に当時のスティーヴン・ハーパー首相は、「我々は北極の主権に関する原則について、行使するか、さもなくば失うかであることを確信している」と発言した。
またカナダ海軍は22年9月2日、新型哨戒艦「マックス・バーネイズ」が就役したと発表した。同艦は、北極海域におけるカナダ海軍のプレゼンスとグローバルな運航能力を強化する目的で建造された新艦種(AOPV)で、通年にわたって北極海域を航行できるよう、優れた耐氷・砕氷構造を有しているとされた。
なぜカナダがこの地域のプレゼンスを主張しているかというと、その1つはデンマークとの間でハンス島という島の領有権争いをしていたからである。2005年にはカナダの国防大臣が同島に上陸、その直後にデンマーク海軍が哨戒艇を派遣するなど緊張が高まった。
その後、両国間で「ウイスキー戦争」と呼ばれる島の領有権をめぐる対立を強めるようになる。互いにNATOの同盟国であり、直接的に対峙・衝突することは避け、1カ月交代で同島に部隊を駐屯させるようになった。たとえばカナダ軍が部隊を1カ月駐留させて出ていく際に、意図的に飲み残したウイスキーを置き「ようこそカナダへ」というメッセージを残すと、今度はデンマークの部隊が同様の措置を繰り返したため「ウイスキー戦争」と呼ばれるようになった。
北極海の海底にはロモノソフ海嶺という大陸棚があり、グリーンランドから続いていればデンマークのもの、カナダから続いているとなるとカナダのものであり、ロシアも自国領から続いていると主張している。
鍵を握るグリーンランド・アイスランド
NATOとロシアが睨み合う北極海において、安全保障上の鍵を握っているのは、グリーンランド北西部チューレにあるアメリカ空軍基地だ。アメリカ軍は、冷戦期にここに爆撃機や戦闘機を配備し、現在はミサイル防衛のレーダーサイトを置いている。
このグリーンランドとアイスランド、そして英国の3つの陸地の間の海域は「GIUKギャップ」と呼ばれ、冷戦時代にはソ連の潜水艦が大西洋に出ようとする際の唯一の出口となったため、ここを封鎖することが当時の米英海軍の主要な任務の1つだった。
一方、ロシア(当時のソ連)側からは、スヴァールバルというノルウェーの島とスカンジナビアの間の海域を「Bear Gap」として、ここから東側をロシア(ソ連)の原潜の作戦海域として聖域化することが重要だった。北極海域は、ロシア軍がBear Gapを境に米英等NATO陣営の潜水艦の侵入を阻もうとし、両陣営が睨み合う海なのだ(図3)。
アメリカは2013年に『北極国防戦略』を公表し、2021年1月には「a Blue Arctic」という戦略文書を発表した。「持続的な米海軍のプレゼンスやこの地域におけるパートナーシップなしでは、北極圏における平和と繁栄は、激しさを増す中国やロシアの挑戦を受けるだろう」と述べ、この海域での軍事活動を活発化させると宣言している。
実際に2018年のNATOの実動演習では、冷戦後初めてアメリカの空母機動部隊がバレンツ海に入ったことが報じられた。GIUKギャップから入り、ノルウェー沖の北極海で作戦を行なったとされているので、両陣営の潜水艦が海中で緊迫した探り合いを展開したのだと思われる。
これに対し、最近になって北極海域での活動を活発化させているのが中国である。2015年、アメリカが北極評議会の議長国だったことから、当時のバラク・オバマ大統領がアラスカを訪問していた際、中国の軍艦5隻が初めてアリューシャン列島のアラスカ沖を通過した。米国の横面を叩くような挑発的な行動だったが、中国が北極海域に関心のあることを行動で示したのだった。
さらに2018年1月に中国政府は、北極政策に関する初の白書を発表し、巨大経済圏構想「一帯一路」の一環となる「氷上シルクロード」の推進など、積極的な北極開発への関与を打ち出した。海洋強国化を掲げる中国は、南シナ海やインド洋と共に、北極海を経済、安全保障の重点海域に位置づけ、米露など沿岸国主導の開発ルールの策定に異議を唱え、「域外国も活動の権利と自由が尊重されねばならない」と強調したのである。
じつは中国は、これ以前から北極海地域に足場を築き始めていた。2016年にアイスランドにオーロラ観測施設を建設したが、両国の友好関係は2010年にアイスランドが金融危機に陥ったのが始まりだったという。
当時のアイスランドは為替レートの急落や失業率の急上昇によって、国際通貨基金(IMF)と欧州連合(EU)に救援を求めざるをえなくなった。米欧はアイスランドを冷遇したのだが、すかさず支援の手を差し伸べたのが中国だった。両国は2010年に通貨スワップ協定を締結し、2013年には自由貿易協定(FTA)を締結した。あまり知られていないが、これが中国と欧州国家との初のFTAだった。
また2017年5月に中国は、グリーンランドにも人工衛星の地上局を建設している。中国は、科学的な調査や科学的な協力を前面に押し出してグリーンランドへ進出。さらに2019年にはグリーンランドの主要民間空港の拡張工事に中国系企業が参入する計画がもち上がり、さすがにデンマーク政府や米政府が警戒感を示すようになった。
2016年8月にはチャイナオイルフィールドサービス(COSL)所有の最新型調査船「HYSY720」が100日に及ぶ北極海域での調査を完了させ、中国史上最北の記録として三次元地震探査データ収集に成功したことが報じられた。また2021年には、中国科学院瀋陽自動化研究所が主導して開発した自律型水中ロボット「探索4500」が、中国の第12次北極科学観測で活用され、海氷に覆われた高緯度地域での観測任務を無事完了したことが公表された。
潜水艦の活動には、こうした海底のさまざまな科学的調査が不可欠であり、中国は軍事的な作戦の前提となるデータ収集に力を入れているものと思われる。
北極政策を発表し、グリーンランドやアイスランドへの影響力を強め、この海域での活発な調査活動を展開し始めた中国を、米国が警戒するのは当然であろう。2019年8月に当時のドナルド・トランプ大統領がグリーンランドの買収に言及して話題になったが、トランプ氏は単なる思いつきで発言したわけではなく、こうした北極海をめぐる勢力争いが背景にあったのである。
米国のご都合主義と中国の影響工作
第二次世界大戦期に、米軍はドイツ軍のUボートを攻撃するためにグリーンランドやアイスランドの飛行場から対潜哨戒機を飛ばした歴史がある。また、冷戦時代にはソ連をGIUKギャップで封じ込めるため、グリーンランドは極めて戦略的に重要な場所と見なされていた。
グリーンランドの人びとは、冷戦の最前線にあって米国に協力したが、その過程ではさまざまな”副作用”にも悩まされた。たとえば1968年、米軍の爆撃機B-52がグリーンランド上空で火災を起こし、水爆を搭載したまま墜落する事故があった。
当時4発積んでいた水爆のうち1発は未発見のままだと言われ、回収された3発の水爆も三重に設置された安全装置の2つが外れており、一つ間違えれば大惨事になっていた可能性があった。
しかし、冷戦が終結すると米軍はグリーンランドから撤収してしまい、2006年には地元の反対にもかかわらずアイスランドのケフラヴィークの米軍基地も閉鎖された。2008年から19年までの間、米国との間でハイレベルの閣僚による会合は一切なかったので、米国は最近までこの地域を冷遇していたと見なされても仕方あるまい。
2019年5月にトランプ政権のマイク・ポンペオ国務長官が2年に一度開催される北極評議会に参加し、北極海における中国の脅威を強調した。「中国は非軍事の科学的な調査や研究と称して将来潜水艦を送り込み、軍事的なプレゼンスを増強させることを狙っている」「北極海沿岸国をスリランカのような債務の罠にはめようとしている」「皆さんは北極海が南シナ海のようになるのを許すのか」と挑発的に述べて、中国の進出に対する警戒感を露わにした。
続くバイデン政権は、さらに北極重視の姿勢を打ち出し、北極海航路開発やこの地域の資源開発、それに北極海の安全保障に力を入れると宣言。21年5月にはアントニー・ブリンケン国務長官がグリーンランドを訪問した。グリーンランドではデンマークからの独立の議論が盛んだが、独立の可否にかかわらず、アメリカはグリーンランドとの連携を深めると伝えたという。
こうしたアメリカのご都合主義に対し、グリーンランドやアイスランドが欧米諸国に”無視されていた”ときに手を差し伸べた中国がどの程度の影響を保持しているのか、今後、この地域をめぐる米中の綱引きの行方は、北極海の安全保障を左右する重大事と言えよう。
AFP通信は2022年9月、グリーンランドの地元民イヌイット系の女性たちが強制的な避妊手術を受けていたというニュースを発信した。本人の同意もなしに避妊具を強制的に体内に装着された女性が、約4500人もいたという驚くべき情報である。真偽は不明だが、グリーンランド人の間で、こうした仕打ちをしたデンマーク本国に対する反感が強まるような内容であることは間違いない。
英ロイター通信は、ロシアや中国が、デンマーク本国やアメリカとグリーンランドの対立を煽るような誘導工作を仕掛けていると報じていたが、この強制避妊手術の情報がそうした工作活動の結果なのかどうかはわからない。ただ、北極海をめぐる安全保障上の対立激化に伴い、そうした中露の情報戦も今後エスカレートすることが予想される。
アイスランドの人口は37万人程度、グリーンランドの人口は5万5000人にすぎない。そんな小さな地域を、アメリカや中国のような大国が自陣営に取り込もうと激しい影響力をめぐる戦争を展開しているのだ。
日本は非軍事分野で関与せよ
最後に、ウクライナ戦争が北極海をめぐる安全保障情勢にどのような影響を与え、また、我が国にどのようなインパクトを与えているのかについて見ていきたい。
1つポジティブな影響として、22年6月、ウイスキー戦争でいがみ合っていたカナダとデンマークが、領有権をめぐって争っていたハンス島を分割して領有することで合意した。ウクライナ戦争を受けて、「領土問題は話し合いにより平和的に解決できる」ことを、民主主義国であるカナダとデンマークが示したという意味で、日本でもっと注目されても良い事例だろう。
ネガティブな影響としては、欧米諸国とロシアのいわゆる「新冷戦」が北極海にも及び、各国がこの地域における軍事的な関与を増大させ緊張が高まっていることである。
イギリスは22年3月29日に新たな北極軍事戦略を発表、4月にはフランスも『気候変動と国防戦略』を公開、EUも3月21日に『安全保障戦略指針』を出してウクライナ戦争で厳しい情勢下にあっても、気候変動や北極の安全保障に関与する姿勢を明確にした。
日本に対する影響も小さくない。ロシアが発表している北極海航路の実績データによれば、ヤマル半島を出航する船は、日本周辺の宗谷海峡や津軽海峡を通行しており、この海域の通行量が増加している。
それに伴い、ロシア軍や中国軍が連携してこの海域での活動を活発化させている。22年7月4日には中国とロシアの海軍艦艇が沖縄県の尖閣諸島沖の接続水域を相次いで航行。中露の海軍艦艇は同年6月以降、同じようなルートで日本列島を周回する動きも見せた。
ウクライナ戦争の影響でロシア軍の軍事演習「ボストーク2022」における露軍の兵力は6分の1の規模に縮小したが、極東や北方領土を舞台にした演習では露軍のプレゼンスは減っていない。ロシアは、アジアではオホーツク海を戦略潜水艦の作戦区域に設定しているが、北方領土のすぐ北の松輪島の軍事基地の再開発を計画したり、国後・択捉の軍事力増強のためにミサイルを配備したりするなど、この地域の軍事的な影響力をむしろ増大させる傾向にある。
こうした状況で、日本が北極海における軍事的なプレゼンス確保に動くことは現実的ではない。北極海はあくまで強力な軍事力を有する大国がせめぎ合う「大人の海」であり、日本は非軍事分野での関与にとどめるべきであろう。
日本は長年、北極のスヴァールバル諸島に観測所を設置し、同地域における観測を継続してきた。我が国はこうした科学調査の実績や貢献を前面に打ち出し、国際協調の枠組みを活用すべきではないか。もちろん、千島周辺あるいは我が国周辺での中露の軍事活動増加に対する警戒・監視は強化する必要がある。
今後、米国は北極海航路等における「航行の自由(Freedom of Navigation)」を主張すると思われるが、現在ロシア政府の方針に従って同国のエスコートを受け入れている日本の商船会社の事業にも影響が及ぶと予想される。そうした事態も考慮して、日本政府としての方針をいまから検討しておくべきである。
さらに日本がこれまで民間ベースで築いてきたグリーンランドやアイスランドとの関係を活用して、少しでも中国の影響工作に対抗することはできないか。ウクライナ戦争と気候変動で激しさを増す北極海をめぐる覇権争いに日本としてどう関わるのか、現実を見据えた議論を早急に始めなければならない。
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