被災地支援の現場から防災へ

一般社団法人 防災ガール 代表 田中美咲 (聞き手:PHP総研 山田花菜)

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田中さんのインタビュー第1回はこちら:「防災が当たり前の世の中をつくりたい
 
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1、生かされた学びと新たな課題
 
――4月に熊本で大きな地震が起こりました。防災ガールの皆さんも何度も現地に支援に行かれていますよね。東日本大震災の反省や教訓は熊本でも生かされていましたか?
 
田中:防災対策については、十分に生かされていたとは言えないと思います。南海トラフや首都直下ばかりが話題になるので、東海から関東以外のエリアに住んでいる人たちは、「自分たちは大丈夫」って、どこかで思っているんですよね。
 熊本の方も、阿蘇山の火山活動に対する意識はあっても、大きな地震はあまりない場所なので、皆さん「びっくりした」と言っていました。避難所の運営などを見ていても、全然ノウハウが共有されていなかったりしたので、防災マニュアルの徹底などが今後改めて必要だと思います。
 また、被災地からの情報発信が格段にパワーアップしていて、そのことが逆に混乱を招いた部分がありました。東日本大震災のときは、国や自治体が出す情報をキャッチアップして支援を行うという仕組みになっていたのですが、情報が出てくるのが遅くて、支援が現場に届くのに時間がかかり過ぎた。逆に今回の熊本では、民間からの情報発信が速過ぎて、行政が被害状況を把握してまとめる前に情報が拡散されて、情報のやり取りが多くなったことで、ミスや食い違いが生まれてしまったんです。
 
――東日本大震災では、通信機能そのものが遮断されていましたが、熊本では逆に情報が整理されないまま発信され過ぎて、捌ききれなくなっていたということですね。民間からの情報発信というのは、個人のツイッターなどですか?
 
:ツイッターやフェイスブックといったSNSが多かったですね。
 町長と社会福祉協議会の間で状況共有ができていなくて、町長が個人のSNSで発信した情報に応じて社会福祉協議会に物資が届いて「聞いてないぞ」ってなっているケースもありました。その情報整理に時間がかかっている間に、さらに民間から「粉ミルクが足りません」という情報が発信されて、でも物資は情報を発信した個人に直接届けられるわけではなく、社会福祉協議会やボランティアセンターに一旦集約されますから、センター側は「あれ、なんで粉ミルクが?」ということになってしまう。そうやって物資が過剰に集中したり、逆に本当に必要な人やエリアに届かなかったり、といったミスマッチが多く見られました。
 ほかにも、家屋の倒壊などなかった熊本市内の住民が「大丈夫」とツイートして、それを見た人が「じゃあもう支援は必要ないね」となってしまって、益城町のようなまだ支援が必要なエリアにも支援が届かなくなってしまうような食い違いも生じていましたね。
 東北の学びは生かされたけれど、また次の課題が見えてきたということだと思います。
 
――ボランティアなど支援に入る側の動きはいかがでしたか?
 
田中:東日本大震災のときの支援の失敗や課題が共有されていたので、物資の送り方やボランティアに参加する人たちの持ち物などは、比較的整えられていたと思います。
 たとえば、東日本大震災では、大きな段ボールにあれもこれも詰めて被災地に送るというパターンがよくありました。そうすると、段ボールを開けないと、中身がわからない。東北では、段ボールを開けて中身を分別するためのボランティアが大量に必要でした。
 
――一つの箱の中に、食品も入っているし、衣類も入っているし、おむつも入っているし、みたいな。
 
田中:そうです。さらに、たとえば下着ならサイズごとに箱が分けられた状態で届けば、そのまま保管場所に移動させるだけでいいんですが、いろんなサイズが混在していると、どのサイズがどのくらいあるのか確認するために、一つひとつ分けなければいけない。食べ物も、賞味期限がバラバラのものが一緒に入っていると、全部取り出して仕分けなければいけないので、賞味期限ごとに箱が分けてあるのが望ましい。
 そういった東北での反省がインターネット上でもたくさん共有されていたので、熊本では、受け取る側の作業負担を考慮して整理して物資を送ってくださる方が増えていました。外部からの支援に関しては、情報共有の質やスピードについても向上していたと思います。
まだまだ課題はありますが、前に進んでいるなと感じています。
 
――防災と減災、被災直後の支援と復興、というものは、本来シームレスにつながっているべきなんだろうなと思うのですが、それぞれのフェーズの取り組みレベルはどんな状況なのでしょうか。田中さんはやはり「防災」の観点から支援や復興に携わられるんですか?
 
田中:フェーズごとに必要なものが変わったりするので、ある程度分けたほうが理解しやすいと思いますし、防災ガールとしても、伝わりやすくするために「防災・減災」とか、「自助・共助・公助」とか、「災害前・後」というふうに区分けして呼んでいますが、実際は、「はい、じゃあここで支援は終わり。復興スタートです」みたいな明確な境界線があるわけではないですよね。だから、私たちは、フェーズにこだわらずに、「どんな状況でも生き抜く力のある若者が増えたらいいな」という考えを持って活動するようにしています。

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2、クリエイティブやデザインの力で課題を解決する
 
――防災ガール立ち上げ前は、東北で被災地の支援活動をされていたということですが、田中さんが「防災」に取り組むようになったきっかけをお伺いできますか? 
 
田中:私は2011年4月に新社会人になった年代なのですが、大学卒業・就職の直前に東日本大震災が起きました。震災直後は、30人くらいの仲間とスカイプをつなげて、「我々学生は何をすべきか」というミーティングを行ったりしていました。私を含め4月から社会人になったメンバーは現地にはなかなか行けなかったのですが、後輩の大学生たちが現地に入って、定期的にスカイプなどで連絡を取り合っていたので、現地の最新情報が入るような環境はつくれていました。そうして、現地に行っている大学生メンバーと、現地で内閣府と連携しながら情報支援している大人たちと、何らかの特殊スキルを持っている現地以外の若者とが、どう連携しコミットしていくかと話し合っていたんです。
 
――現地の情報をやり取りしていた仲間たちというのは、どのようなネットワークだったんですか?
 
田中:私は立命館大学に通っていたのですが、京都の大学っておもしろくて、どの大学の授業を受けても単位が取れる「大学コンソーシアム京都」という制度があるんです。私はその制度を利用して、京都精華大学の「クリエイティブの可能性」という授業を取っていました。「クリエイティブやデザインの力で社会課題を解決する」という内容で、500人くらいの学生が集まっていたんですが、課題解決やクリエイティブ・広告などに対する意欲の高いメンバーだったので、震災直後からどんどん東北に行っていたんです。
 
――そこから田中さんが会社を辞められて、現地に移住されるまでには、どんなストーリーがあったのでしょう。
 
田中:私が初めて現地に入ったのは、7月の初め頃でした。入社したサイバーエージェントの人事部が主催するボランティア活動に参加させていただいて、陸前高田に行ったのですが、それまでは現地の情報はメンバーから上がってくるものの、「気仙沼はこう」「陸前高田はこう」という局所的なもので、被災地の全体像が把握できていなくて。現地の状況を見て、どのエリアがどんな状態なのかようやく自分でも分かってきました。
 
 その後も基本的には現地に行かず、情報整理をしたり情報発信をしたりといった後方支援をしていたのですが、やはり現地に行きたいという思いがどんどん募ってきて、結局社会人2年目の7月いっぱいで会社を辞めて、「助けあいジャパン」という公益社団法人に入りました。会社に在籍したままでは、土日に単発でボランティアをすることしかできなくて、「これで本当に役に立てているんだろうか」ともやもやしてしまって。「クリエイティブの可能性」の教授が、助けあいジャパンの代表を務められていて、いろいろ相談していたら、「だったら選択肢をやる。会社を辞めて一人で東北に行っても、それは一人の女の子のスキルでしかない。でも、うちの団体でこういう立場でやれば、そのスキルが活かせるのではないか」と言っていただいたのがきっかけで、福島県への移住を決めました。

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3、どこに避難していても地元の情報を受け取れる仕組み
 
――甚大な被害を受けた岩手・宮城・福島の中で、福島県を選ばれたのには、何か理由があったのですか?
 
田中:大きく分けて二つ理由があります。
 
 ひとつは、私自身の実感としても、メディアの報道を見ていても、現地の仲間たちから話を聞いても、福島がいちばん復興が滞っていたことです。岩手と宮城は、「やるしかない」というか、「みんなでがんばろう」という雰囲気になっていたのですが、福島はそこまでいけていなかった。津波被害にあったという点では岩手や宮城も同じだったのですが、福島ではそれに加えて原発の問題があったので、直接津波被害を受けていなくても、危険区域や警戒区域に指定されたり、避難先が近隣自治体ではなくて、遠く離れた都道府県だったりしたので、全然知らない土地で、違う文化の中で避難生活を送ることに対するストレスがあるなど、ほかの2県とは違う問題を抱えていたんです。それを見て、この課題を解決しなければいけないと思ったことがひとつめの理由です。
 
 もうひとつは、タイミングです。「助けあいジャパン」は、岩手・宮城ではすでに支援事業に取り組んでいたんですが、福島県からの助成事業の進捗や放射線量の問題などで、福島県への支援はまだスタートしていませんでした。ようやく福島県庁の協力を得て事業を始められることになったタイミングで、私が事業責任者として現地に行ったというかたちになります。
 
――福島ではどのような活動をされていたのですか?
 
田中:福島では、県の広報課からお仕事をいただいて、情報発信に取り組みました。福島県では県外に避難する方が非常に多かったんですが、地元を離れてしまうと情報が全然入ってこなくなるという課題がありました。いちばん人気のある新聞が全国紙ではなくてその地域でしか購読できない地元紙だったり、生活に密着した情報になればなるほど、回覧板とか地元のチラシ、公民館の掲示板といったもので情報共有がされていたりしたので。
 そうした状況を受けて、どこに避難していても、地元の情報がちゃんと受け取れるような仕組みをつくるというお仕事を、福島県からいただいたんです。そこで、auさん、docomoさん、Softbankさんと連携して、避難している全世帯にタブレット端末を配って、福島県・沿岸部8市町村の広報課からもらった情報をわかりやすく編集して流すという、電子回覧板のような仕組みをつくりました。
 
――情報を翻訳して、「伝わりやすく」「取り入れやすく」発信するという防災ガールの活動につながる取り組みですね。
 
田中:そうですね。土木作業やがれき処理といったボランティアは、体力的にも限界があると思ったので、それよりも自分の強みを生かした支援のほうが、ずっと続けられるなと思って。そうしたら、デザインとか、クリエイティブとか、情報の整理とか、わかりやすく伝えるといったものが、ちょうど現場のニーズとしてあったので、やらせていただいたという感じです。

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4、おしゃれな防災、おもしろい防災
 
――助けあいジャパンには、どのくらいいらしたんですか?
 
田中:福島県に滞在していたのは1年くらいです。その後の半年ほどの間に、助けあいジャパンの中でもフェーズが変わっていって、被災支援から防災に力を入れようという方向になっていきました。私もせっかくの現場での支援経験を活かそうということで、防災のほうに移って活動に取り組み始めました。
 
 ただ、団体としてやるべきことは、私がやりたかったこととは違っていました。私がやりたかったのは、民間に防災意識を広めることだったり、生活の中ですぐに役立つ防災だったのですが、公益社団法人だったので、内閣府によってカテゴライズされた範囲の中で活動しなければならなかった。それはもちろんとても重要なことなんですが、私がやりたい防災とは違っていたので、団体の活動は仕事としてきちんとやりながら、プライベートで仲間たちを集めて、おしゃれな防災、おもしろい防災、自分がやりたいと思える防災ということを考え始めたのが、「防災ガール」の始まりです。
 
――最初の仲間たちというのは、やはりどんな方々だったんですか?
 
田中:復興支援仲間です。仲間たちもみんな、震災が起きた年は学生だったけれども、翌年には社会人になって東北まで行く時間もなかなかとれなくなったりしていたので、「いまいる場所でできることはないのか」って、もやもやし始めていたタイミングだったんです。
 「防災ガール」の活動は、災害が起きる前の普及啓発がメインなので、現地に行けなくても、インターネットさえあれば、どこででもできる。それはみんなの「やりたいけれど、やれない」というもやもやを解消するには、ちょうどよかったみたいです。一気にメンバーが集まりました。
 
――防災ガールを法人化する際に、NPOではなく一般社団法人を選ばれたのには、なにか理由があるのでしょうか。
 
田中:2013年8月から2年ほど任意団体として活動して、2015年3月11日に一般社団法人になったのですが、どの法人格にするかは、すごく迷いました。
 どの法人格でも活動しやすい空気は年々できてきているのですが、防災業界は古くから活躍されている方が多いので、その方々とライバルにはなりたくなかったんです。株式会社にすると、「営利目的でやっているんだろう」と嫌がられることになると思ったので、一般社団法人かNPOにしようと。
 
 その中で、これは「復興支援あるある」なんですが、震災を機に立ち上げられたNPOは、事業が回るようになった段階で、経営を乗っ取られるということが実は多かったんです。そこで、そういう制度が成り立たない一般社団法人にしようと。消去法ですね。
 NPOは会員を選ぶことはできないと法律で決められています。株式会社で言えば株主にあたる人を選べない。会員になりたいという人は、誰でも受け入れなければならないんですね。さらに、NPOでは代表よりも会員の権利が重いので、代表の意見に反対する人が会員に増えてしまうと、代表のやりたい活動は続けられなくなってしまうんです。
 なので、NPOのほうが助成金をとりやすいという面はあるのですが、助成金の獲得よりも、自分たちが本当にやりたい防災をやり続けられる団体にしたいと思って、一般社団法人にしたんです。
第三回「社会課題の解決が加速する社会を目指してに続く)
 
 
田中 美咲(たなか みさき)*1988年奈良県生まれ、横浜育ち。2011年、立命館大学卒業後、株式会社サイバーエージェント入社。ソーシャルゲームの制作を手掛ける傍ら、東日本大震災の被災地支援に携わる。2012年に同社を退社し、公益社団法人助けあいジャパン入社。福島県で支援事業に従事。2013年に防災に関する普及啓発を行う任意団体「防災ガール」設立。2015年に法人化し、代表に就任。現在に至る。
 
【写真:長谷川博一】

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