誰もいないなら、自分がやるしかない

NPO桜ライン311 岡本翔馬

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津波は雇用促進住宅の5階まで達した(2013.10.22撮影)

「変える人」No.6は、津波によって市域の大半が壊滅してしまった陸前高田市で、津波到達地点への桜の植樹に取り組んでいる桜ライン311代表の岡本翔馬さんをご紹介します。
 
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なんでこんなところまで…
 
「お前、葬式の出し方知ってる?」
 
 震災から3日が経っていた。高校を卒業して、故郷・陸前高田を離れて10年。こんな形で、ましてこんな話をしながら家に帰ることになるなど、夢にも思っていなかった。
 
「震災が起きた直後に、首都圏にいる地元出身者で情報共有をしました。陸前高田に関する情報収集・情報発信のためのホームページを立ち上げて、SAVE TAKATAと呼ぶことにしたんです。そこで、とりあえず誰か現地に入って様子を見てこようと。とは言え、すぐに地元に向かえる人間はほんとうに一握りしかいなくて。僕は独身だし、車持ってるし、仕事の都合も何とかなりそうだったので、急いで帰ることにしました」
 
 陸前高田に住む家族と連絡がつかないまま、現地入りを希望した同級生2人とともに14日の深夜0時に東京を出発し、市内に入ったのはその日の夕方だった。
 
「リアルに考えたくないっていうのもあって、3人とも最初は超・希望的観測を持っていたんです。僕の実家は海から直線でも1km以上離れていたので、1階は浸水しても2階は無事だったりするかな、とか。いい方に、いい方に考えていました」
 
 だが、現実は淡い期待を打ち砕く、とても厳しいものだった。
 
「内陸側の住田町の方から入って行ったんですけど、まだ海なんて見えない山の麓のようなところなのに、すべてが瓦礫になっていたんです。駅や線路も流されてしまっていた。海から5kmくらい離れているところだったのに」
 
 地元をよく知る出身者だからこそ、「なんでこんなところまで」という驚きは、想像を絶するものだった。岡本さんの実家のすぐ傍にあった高田高校も3階まで津波にのまれ、全壊してしまっていた。
 
「テレビでひどいことになっているのは見ていたので、ある程度腹をくくっていたつもりだったんですけど。現地に入って、考えられないようなところまで瓦礫の山になってるのを見て、はじめて震災が超リアルなものとして迫ってきました」
 
 家はだめでも、人が生きていてくれればいい。それすら希望的観測かもしれないと思うほどの惨状だった。

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桜ライン311代表 岡本翔馬

「また市役所か」
 
 家族と顔を合わせることができ、同級生や親戚の安否をひととおり確認した岡本さんは、避難所の運営を手伝うことにした。
 
「僕の母校の一中(陸前高田市立第一中学校)に同級生が何人も避難していて、彼らが避難所の運営に関わっていたんです。そこを1週間くらい手伝わせてもらいました」
 
陸前高田市では市の本庁舎も全壊し、約1/3の職員が亡くなっていた。市としての機能が事実上停止する中にあっても、支援物資や人はどんどんやってくる。大量の物資の行き場を確保することも難しかった。  
 
「臨時の市役所を山の上の給食センターに置いて、物資もそこで備蓄していたんです。でも、置ける量にも限界があるから、そこがいっぱいになったら『一中に運べ』となる。それで一中に来たトラックもほんとうに多かったですね」
 
 通信手段が断絶された中で、それぞれの避難所同士で連携をとるのは不可能に近かった。
 
「しょうがないって頭では分かっていても、こちらももう受け取れないっていう状態で物資が届き続けると、どうしても『また市役所からか』ってなってくるんですよ。そして、それと同じことが物資の配布先でも起きてくる」
 
 物資の備蓄先を量的に振り分けてみても、今度はこちらは米ばっかり、あちらは野菜ばっかり、というようなばらつきが生じる。それも物資が過剰な場合はまだ良かったが、足りない場合は問題だった。追い詰められたぎりぎりの状況の中、小さな感情のささくれは、やがて大きく膨らんでいく。
 
「市に何とかしろとか、職員の仕事だろうとか、どうしてもそういう声が大きくなって。でも、市の職員だって被災者で、自分自身の生活をどうしようという状況に置かれて、通常の市役所と同じ動きなんてできるわけがないんですよね」
 
 震災直後の被災地で岡本さんがいちばん強く感じたのは、被災者と支援者を適切につなぐコーディネーターの必要性。通常なら、市役所や社協が担っていたはずの役割を務められる人材が、壊滅的な被害を受けたことで、圧倒的に不足していた。

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土地鑑のある「外の人」
 
 一中の避難所には2,000人弱の避難者がいた。そこには、毎日トラックで大量の支援物資が運び込まれる。避難所運営にあたる岡本さんたちは、日々その対応に追われていた。
 
「一日のうちに10トン車が4回来て、ぜんぶ食料だったりするわけです。そのたびに物資を降ろして、調理して、避難者の方々に提供する。それとは別に、個人で支援に来てくださった方とか、よその避難所で断られてこちらに物資を届けに来られた方もいる。こまごま対応することがたくさんありました」
 
 陸前高田市内には、大小あわせて70数か所の避難所が点在していた。一中のような大きくてわかりやすい避難所には物資が集中する。一方で、辺鄙な場所にあったり人数が少ない避難所には、支援団体も支援物資も、何も来ないという声も聞こえてくる。深く傷ついた町の中で生まれたひずみは、徐々に大きくなっていった。
 
「支援ってほんとうに難しいんですよね。物資の輸送で言えば、土地鑑のない人にどこそこの避難所に行ってくださいって言ってもわからない。山積みの瓦礫で道もなければ、目印になる建物も残っていない。ナビもぜんぜん役に立たないんですから」
 
 東京には東京の価値観や優先順位がある。被災地には被災地の価値観や優先順位がある。うまくかみ合う場合の方が稀で、支援する側とされる側との板挟みになり、苦しむケースも多かった。
 
「大量に集まってくる人やモノ、情報を整理して効率化して、うまく繋ぐ役割をやれるのは誰か。そう考えたら、地元の出身者で、しかも一回地元から出ている僕みたいな人間なんじゃないか、って思いはありました。だけど、そういう立ち位置にいて、なおかつ身軽に動ける人間って、案外少ないんですよね」
 
 当時、岡本さんは28歳。まわりを見ると、やはり家族のことや仕事のことなどそれぞれの事情があって、陸前高田に帰って支援活動をしたくてもできないという人がほとんどだった。
 
「自分でもぎりぎりのタイミングだったなと思います。結婚をしていたり子どもがいたりしたら、やっぱり躊躇したでしょうね。でも僕はそうじゃなかった。自分に出来ることがあるならやるしかない、という感じでした」
 
 自分こそ、という思いで始めた支援活動。ただ、このときはまだ、心のどこかに東京に帰ってもできるという思いがあった。

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明日の食べ物にも困る現地か、通勤ラッシュで渋滞する東京か
 
 被災地に入って数日、配備が進められた衛星電話を借りて、久しぶりに勤め先に連絡を入れた。
 
「上司は『おー、生きてたか』って笑ってくれました。現地入りを決めて東京を出発したのが日曜日だったので、ちゃんと相談できていなくて。月曜の朝、『僕これから被災地なので、しばらく連絡つかなくなるかもしれません、すみません』って電話したきりだったんです。理解していただけている様子で、とてもありがたかったです」
 
 岡本さんは8日間ほど避難所の運営を手伝ってから、東京に戻った。
 
「現地にいたのは、実質10日間くらいです。その間、明日の水や食料がどうなるかわからないというような状況が、現実として僕の故郷には存在していました。だけど、自分自身の仕事や生活もあるから、いったん東京に戻らなければいけませんでした」
 
 東京に戻り、勤務を再開したのは3月26日。だが、その朝通勤ラッシュの渋滞に巻き込まれた岡本さんは、すさまじい違和感に襲われた。
 
「3月の終わりには、東京はもうほとんど日常を取り戻していたんですよね。震災前と比べれば物流なんかに多少の差はあったかもしれないけれど、陸前高田に比べたらはるかに平常に近いかたちで世の中が回っていた。それは当たり前で喜ばしいこと。でも、自分自身はどちらにいるべきなのかって思いが頭を離れなくて。何度も考えた結果、やっぱり故郷だな、って思ったんです」
 
 4月の上旬には退職を申し出た。平日仕事が終わると、SAVE TAKATAのホームページに寄せられる安否確認のメールに返信し、土日になると有給を一日足して陸前高田へ向かう生活を続けた。正式に退職して陸前高田にUターンしたのは、5月末のことだった。
 
(第二回「『地元から出ていた人間』の強みを生かして」へ続く)
 
岡本翔馬(おかもと しょうま)*1983年、岩手県陸前高田市高田町生まれ。仙台の大学を卒業後、東京で就職。震災を機に陸前高田へUターンすると同時に一般社団法人SAVE TAKATAを立ち上げる。その後NPO法人桜ライン311を立ち上げ、現在は代表を務める。
 
【取材・構成:熊谷哲(PHP総研)】
【写真:shu tokonami】

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