家や学校を失った子どもたちに勉強の場を

特定非営利活動法人 NPOカタリバ 代表理事 今村久美

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校庭に仮設住宅が建つ被災地の小学校

やると決めれば、事態は動く
 
「最初は石巻でやろうと思っていました。でも、例えばタウンページも津波に流されてしまっていて、とにかく現地には手掛かりがなにひとつありませんでした。どうにか石巻駅の近くでインターネットが使えるところを見つけて、『石巻学習塾』とか『石巻教育委員会』とか、教育関係だと思われるところに片っ端から連絡していきました」
 
 石巻教育委員会と連絡を取り合い、何度も東京から石巻を訪れては打合せを重ねた。しかし、ここで行政の壁にぶつかる。公平性を重要視して、市内全域での取り組みが必要だとする市。内容云々ではなく、かたちの調整に時間が割かれるばかりだった。
 
「できるところから始めればいいじゃないですか。公平性も大事だけど、一箇所でもいいから、モデルをつくっていきましょうよ」
 
 そんな今村さんの訴えも、なかなか通じない。だが、行政が公平性にこだわったのにも、理由があった。当時、平成の大合併で大きくなった石巻市では、旧河北町に位置する大川小学校の悲劇がメディアで繰り返し報道されていた。一方で、旧石巻市の中心部に関心や支援が集中し、被害の甚大だった旧町の住民との間には亀裂が生じていた。そうした住民感情に配慮し、行政も支援の偏りには慎重にならざるを得なかったのだ。今村さんは別の自治体にも並行してアプローチすることにし、石巻市に隣接する女川町の教育長のもとを訪ねた。
 
「私たちの思いを伝えたら、教育長さんがその場で『やりましょう』と。やっぱり、リーダーがやろうって言ってくれたら、ものごとは動くんです。石巻市全域でいっぺんに学習支援に取り組むのはむずかしいから、いったん女川にリソースを集中してモデルをつくろう。それからほかの自治体に広げよう。そう決めて、とにかく女川に通いつめました」
 
 女川町の避難所に泊まり込み、教育委員会や住民の方々とコミュニケーションをとる日々が、ここから始まった。だが、教育委員会や学校との連携が第一と調整に努めたものの、外部との連携に二の足を踏む教員も少なくなかった。また、地元で開講していた学習塾が被災した塾講師を雇用したものの、それぞれに指導スタイルが異なるなど、悩みはつきなかったという。
 
「保護者の方々や生徒の皆さんにいろんな話をうかがったら、確実にニーズはあるという確信を得た一方で、信頼関係のできていないところには子どもを預けられないということも感じました。遠方から通ってのボランティアだと、交通費ばかりかかって、せっかくの寄付もそれで消えてしまう。住民の方たちを雇用して仲間になっていただこう、住民の方や行政の方と交流して信頼関係をつくっていこう、そのためには現地に住んで取り組む体制をとらなきゃだめだ、と強く思いました」
 
 こうした努力が実り、2011年7月4日、初めての放課後学校「コラボ・スクール」となる女川向学館が開校する。教育長の承諾を得たのが5月15日だから、驚くようなスピードだ。
 
「このとき、実は資金計画はまったく立っていませんでした。文部科学省の予算をもらえることになったのは11月でしたし。だけど直感的に、これなら大丈夫と思いました。被災地への支援に対する世の中の熱い思いを肌で感じていて、女川で学習支援をやりますってお願いすれば必要な資金は集まるはずだ、と思ったんです。そして実際に集まりました。旗を揚げればリソースは集まる。いないのは旗を揚げる人。それは2年半経ったいまでも同じなのではないでしょうか」

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