拡大フェーズの混乱と代表の交代を迎えて

NPO法人 e-Education 代表 三輪開人

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三輪開人さんのインタビュー第一回はこちら:「バングラデシュの村へ最高の授業を届けたい
 
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――東日本大震災で津波被害を受けた地域で、NPO法人カタリバさんが「コラボ・スクール」という学習塾を展開されています。しかし、東北地方の沿岸部では、高校を卒業したらそのまま地元で就職するのが親孝行という考え方が根強く、大学進学に対するモチベーションがもともと低かったので、学習塾なんていままでもこれからも不要だという人もいたというお話を伺いました。地元から出て行くということへの抵抗感のようなものが、日本の地方にはまだまだあるように思いますが、e-Educationが映像授業を提供しているバングラデシュの農村ではそのような壁はありませんでしたか?
 
三輪:あります。私も静岡県の掛川という田舎で育ったのですが、私が地元を離れて東京の大学に進学するということに対して、あまりよく思わなかった人もいたのではないかと思います。いまでもすごく感謝しているのは、両親が「やりたいことにはなんでも挑戦してほしい」と言ってくれたこと。両親は大学に行っておらず、小さい頃から勉強しろと言われた記憶は一度もないのですが、やりたいことをやれるようにと育ててもらう中で、私は自然と大学に行ってみたい、もっといろんなことを学んでみたいと思うようになりました。小さい頃からやっていた野球で甲子園を目指すように、大学受験で東京の大学に挑戦してみたいし、そこで出会った人たちとなにかできたらいいなあという思いもありました。
 
 そういう自分の実体験から、地方にいる子どもたちの多くが同じような思いを持っているんじゃないか、バングラデシュでもそうなんじゃないかと思って、ヒアリングをしていったら、とくに女の子に多かったんですが、「本当は大学に行きたい」「家を出て、キャリアウーマンになりたい」という子がたくさんいました。これは私たちにとっても誇らしい成果と考えていますが、e-Educationのプログラムで勉強している子どもたちは、いまでは女の子がのほうが多いんです。一年目は32人中、女の子は4人だけだったんですが。
 
――それは、もともと両親が進歩的な家庭の娘さんが通ってきているんですか? それとも、e-Educationさんの働きかけで、大人たちが変わりつつあるんですか?
 
三輪:後者です。そうした子たち、とくに女の子たちを教室に引っ張り出すために、いろんなことをやりました。いちばん効果があったと思うのは、ダッカ大学に通っている女の子だけじゃなく、その両親にもインタビューを行ったこと。なぜ娘を大学に行かせようと思ったのかという問いに、「いまは男女平等の時代です。女性も男性も働くのが世界では当たり前になっているし、バングラデシュでも当たり前にしていかなければならない。私の娘には、そういうバングラデシュの未来を担う、そんな女性になってほしいと思っているので、大学進学を心から応援しています」と答える両親の映像を、村で、生徒とその親に集まってもらった場で見せているんです。女子大生本人だけでなく、その両親の言葉をその村の人たちに届けてあげることで、なるほど、子どもを大学にやるのもいいんじゃないか、と思ってもらえるようになってきていますね。
 
――バングラデシュの大学進学率は18%程度ということでしたが、その中で女子学生の割合はどのくらいなんですか?
 
三輪:ものすごく低いです。理系だと1割以下、文系だと多くて2割くらいだと思いますが、もともと受験している人数自体が圧倒的に少ないんですよね。ダッカ大学入試当日の様子を見ていると、2014年度の入試では女の子の受験者も増えているようでしたが、2010年の時点では、本当に少なかった。これは本当にひどい話なんですが、入試に合格しても、親が実際の入学は許さないというケースもありますね。受験はさせてあげるけど、大学には出さない、というような。
 
――それは、イスラム教の価値観も影響しているのでしょうか?
 
三輪:宗教的な背景もあるとは思うんですが、どちらかというと、村の風習ですね。男性は外で働いて、女性は家を守る。これはもしかすると、地域によっては日本も同じかもしれません。
 
――働き手が減ると困る、というような理由もあるのでしょうか。
 
三輪:それはむしろ男の子に多い理由ですね。男の子が高校を退学する理由で最多なのが、親に働けと言われることなんです。男性は早いうちから外で働いているケースがけっこう多く、女性はずっと家事をしている。料理や洗濯のほかにも、介護、看護も病院ではなく自宅で娘さんたちが中心になってやっている家庭が多いんですよね。
 
 悔しかったのは、e-Educationに通っている生徒たちの中にも、「介護をしなければならないから、1か月塾を休みます」という子がいたことです。いまならポータブルDVDを渡して家でも勉強できるようにしてあげられたんですけど、当時はまだ、金銭的にも余裕がなく、そこまで整えてあげられなかったんです。

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――バングラデシュでは、現地の予備校の先生の講義を撮影して配信するかたちだったということですが、先生方の反応はいかがでしたか?
 
三輪:結論から言うと、うまくいきました。バングラデシュでは、いちばん最初の映像授業を、マヒンがアルバイトをしていた予備校の塾長にお願いしたんです。ザハンという英語の先生なんですが、彼はバングラデシュでは3本の指に入るほど有名な英語教師で、そのザハンの授業を映像で受けられるということで、村ではもう大フィーバーになりました。
 
 教え子であるマヒンと、日本からやってきたアツ、「この国の教育を変えるために先生の力を貸してください」と頼み込むふたりの若者の熱意に押されて、ザハン先生は一年目、ほぼ無償で授業の撮影に協力してくれたんです。
 
 その後も、ザハン先生をはじめ、先生方はかなり割安の授業料で映像授業に協力してくださっています。日本の予備校講師の相場と比べても、本当に破格の金額です。しかも、無償で子どもたちに届ける限りは永久にそれ以上のリターンは求めないということで、撮影した授業をどんなにたくさんの子どもたちが活用したとしても、先生方へのお支払が増えるということもないんです。
 
――それは税所さんやマヒンの情熱に動かされた部分に加え、社会貢献になるという部分が彼らのモチベーションになっているのでしょうか。
 
三輪:強いですね。バングラデシュの教育問題について、決してみんな無関心なわけではありません。ほんとうは、みんななんとかしたいと思っているけれど、手立てがなかったり、方法を知らなかったりした。だからこそ、そういう思いをもっていた現地の先生方から共感を得やすかったのだと思います。
 
――授業を撮影するにも、その映像を見るにも、デバイスが要りますよね。はじめはどのように調達されたんですか?
 
三輪:詳しくはアツの著書(『前へ!前へ!前へ!』木楽舎刊)に書いてあるんですが、私たちも資金調達の努力はしていたものの、やっぱり最初はお金がありませんでした。初期投資として100万円くらい必要だったんですが、どうしても自分たちだけでは用意できなくて、アツが日本に戻って、東進でお世話になっていた板野先生にお願いして、キャッシュで90万円ほど寄付していただいたんです。リターンは一切なしです。「若者が挑戦することを応援するために、僕は予備校教師になったんだ」と言ってくださって。予備校講師の鑑だと、心から尊敬しています。もう一人、一橋大学の米倉先生も、数十万年の資金を出してくださいました。最初の一年は、ほぼそのお二人にいただいたお金で動かし切りました。
 
――東進ハイスクールと、法人として連携することはないんですか?
 
三輪:調査費として資金をいただいたこともありますし、もっと大きな金額で協働のお話をいただいたこともあります。ただ、どうしてもどうビジネス化するかという方向に話が行ってしまいがちで、私たちは本当に届けたい層から離れてしまうかもしれないので、現時点では法人としての連携はしていません。ただ、私も東進のOBであり、何か東進や生徒の皆さんに恩をお返ししたいですし、途上国の教育課題を解決するために何かご一緒できないか、これからも考え続けます。
 
――いま、e-Educationの活動資金はどのように調達されているんですか? 映像授業の提供は、受益者負担ではないのですよね?
 
三輪:一部受益者負担モデルもつくり始めてはいますが、基本的には委託事業や助成金といったかたちで、外から資金をとってくるかたちになっています。

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――現在は何か国でe-Educationの活動を展開されているんですか?
 
三輪:現在はアジアの6か国です。いちばん多いときでは、アフリカや南米も含めた12か国へ映像授業を提供していたのですが、私が代表になってから、私たちの中で確固たる成功モデルをつくるまでは、一旦展開国数を抑えようということになったんです。
 
――バングラデシュで手応えをつかんで、一旦世界中へ拡大した後、縮小されたということになると思いますが、それぞれどんな転機があったのでしょうか。
 
三輪:e-Educationの活動が3年目を迎えた2012年、当時はアツが代表を務めていて、私はJICAとe-Educationの二足のわらじを続けていたのですが、元リクルートで日本ではじめて民間人校長になられた藤原和博先生が、その後の活動展開に悩んでいたアツに「お前はもっとクレイジーであれ、破壊的な人間であれ」とおっしゃったんです。その言葉に感化されて、アツは五大陸全部にe-Educationの映像教育を届けたいと、「五大陸ドラゴン桜」というコンセプトを掲げて、ヨルダンやルワンダへもプログラムの提供を始めました。
 
 実を言うと私は五大陸ドラゴン桜には大反対で、「アツは一体なにをやっているんだ」と思ったんですが、一方でその頃になると、アツも多少有名になってきていた。e-Educationの活動を知って、「自分たちも海外で挑戦したい」という学生が全国からどんどん集まって来てくれるようになっていたんです。半年や一年間大学を休学して、お金も要らないから、e-Educationの旗の下でドラゴン桜を咲かせたいというチャレンジングな学生たちから応募があり、私も彼らを応援したいと思ったことで、アツがやりたいことと、私がやりたいことが合致しました。アツはe-Educationのプロジェクトを広げたい、私は勇敢な大学生のチャレンジを応援したい。そこで、2012年からは、アツは海外で新しい道を切り拓く、私は日本で集めた学生をそこに送ってプロジェクトをマネジメントする、そういった役割分担へと流れが変わって行きました。
 
 しかし、そこから2013年になり、10か国を越えたあたりから、いろいろな面で限界を迎え始めました。
 
 ひとつはJICAとe-Educationのダブルワークで活動していた私自身の限界です。JICAの仕事も本当にやりがいのある、充実したものだったので、帰宅が終電近くなってしまうことも多かったのですが、さらにそこからe-Educationの活動をやるんですね。海外とスカイプミーティングをして、助成金の申請のための書類を書いて。休日はイベントなどでお話をさせていただいたり、企業の方と交渉したり。そういう生活をしていて、私自身がこのままではいけないと思うようになりました。
 
 考えた結果、2013年10月にJICAを退職してe-Education一本にシフトしたんですが、そうすると、次々と海外へプロジェクトを広げていく中で、一年目のバングラデシュでできていたようなクオリティやこだわりが徐々に薄れてきてしまっていることに気がつきました。自ら現地に行って、映像やプログラムのつくり方を一から教えるということはやはり難しくて、クオリティコントロールがままならないまま、国が広がって行っていた。さらに、このままでは半年以内に資金がショートすることもわかりました。現地でがんばっている学生が「こういうものをつくりたい」と提案してくれても、予算が渡せなくなりつつあった。
 
 また、「ゼロから作り上げる」というe-Educationの一年目の活動のイメージに憧れを持って入ってきてくれる学生が多かったんですが、活動が2年、3年と続いてくると、全然違うフェーズになってきていました。彼らが思い描いていたストーリーと、実際の仕事に乖離が生まれてきていたんです。
 
 税所篤快が思い描いてきたものをなんとかかたちにしたいと思ってやってきてはいたものの、かかわる人数が10人、20人になってくると、それぞれ思いも違うし、目指している社会像も違っていた。そうした中で、これ以上国を広げるということに難しさを感じるようになりました。

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――拡大フェーズを迎え、創業期とはまた違うさまざまな問題が起きてきたのですね。
 
三輪:それに追い討ちをかけるように、2014年、アツが早稲田大学を卒業し、ロンドン大学のに留学することに決まりました。彼としてはイギリスにもうひとつ拠点をつくり、そこで世界中の仲間を集めてe-Educationの活動をさらに広げたいと考えていたんですが、そうは言いつつ、やはりその状態で代表を務めるのは厳しいし、e-Educationも次のフェーズに移行しなければならない、ということで、代表を交代することにしたんです。
 
 このときのいちばん大きな問題は、e-Educationがどこを目指しているのか、誰も語れない状態になってしまっていたことでした。私はもともとあまりNOと言わない人間で、AとBという選択肢があったら、どちらかを選んでどちらかを捨てるのではなく、AもBも両方できる方法を考える、というやり方でこれまで生きてきました。極端に言えばなにかをやめる、捨てる、ということをしてこなかった人間なんですが、アツから私へ代表を交代したとき、誰もが私に決断を期待していることを感じていました。つまり、「プロジェクトを切ってください。国を絞ってください」ということですね。
 
 2014年11月、私もすごく悩んでいたのですが、「3年後のe-Educationの姿をみんなで一緒に考えよう」ということで、海外で活動するメンバーも含めて、これまででいちばん大きな会議を開きました。3年後e-Educationがこうなっていたらいい、と思い描く姿をみんなに出してもらったんですが、そうすると、やはり国を絞って活動を展開しているイメージが多かったんです。「これだけは本当にやれる。絶対に世界に広がる」というモデルをつくりたいという思いを誰もが持っていた。
 
 止めになったのは、インドネシアで活動していた学生の言葉でした。「もし開人さんが、インドネシアでの活動を止めると決めたのであれば、僕はその決定に従います」と。現地でがんばっているのに、せっかく始めた活動を止めるなんて絶対嫌だろうなと思ったんですが、僕以上に現地の学生たちが腹をくくってくれていたんです。たぶん、日本にいた僕以上に限界も感じていたんだと思います。
 
 それで、みんながこれだけ覚悟を決めてくれている中で、私だけが決断をしないわけにはいかないと思って、国を絞ることと、学生も前ほどは採用を増やさないこと、このふたつを決めました。やることというより、やらないことを決めた。これが、代表を交代してから一番の大きな変化だったんじゃないかと思います。

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――12か国から半分の6か国まで絞られたということですが、どのような基準で取捨選択されたのですか?
 
三輪まず、しっかりと僕らの目が届く範囲でプロジェクトを回さないといけないということで、アフリカと南米、中東のプロジェクトを一旦中止することに決めました。さらに3つの条件を設けました。ひとつは今後の中期計画がある程度練られていること。ふたつめは現地に信頼できるパートナーをすでに獲得していること。三つ目はそのパートナーと一緒にプロジェクトの目標を達成するための資金獲得の目処が立っていること。
 
 これまでがんばってくれた学生メンバーにとってかなり厳しい条件だったと思いますが、これらが揃っていない状態でプロジェクトを走らせるというのは、経営者としてやってはいけないことだと思ったので、条件が満たせていない国は、一旦中止する。ただし、こうして絞った国で成果が上がったら必ず戻ってくると約束しました。
 
 いまでこそ変わってきましたが、当初は私自身も、複数の国で展開していること自体がある種の正義というか、社会的インパクトの拡大だと考えていました。ですがやはり、継続的に回せるモデルというものがなければプロジェクトの未来はないと思ったので、非常に悔しいことではあったんですが、中期ビジョンの見えない国は一旦中止するということで、スリランカ、ベトナム、カンボジアの3か国も止めました。中には現地パートナーがずっと頑張ってきてくれていた活動もあったのですが、資金の目処が立っていなかったので、私からプロジェクトを止める説明し、謝罪しました。もう二度と繰り返したくない悔しい経験です。
 
 そうして絞ったのが、バングラデシュ、フィリピン、インドネシア、ミャンマー、ネパール、ラオスの6か国です。
 
――その6か国には、それぞれ、現地スタッフと日本からの駐在スタッフがついているんです?
 
三輪:日本人スタッフはついている国とついていない国があります。
 
――各国でプロジェクトが自立的に回るようになったら、e-Educationは将来的には手を離すようなイメージも持たれていますか?
 
三輪:完全に手が離れることはないと思っています。たとえば、いまいちばん早く独立できそうなのはバングラデシュです。バングラデシュではすでに会社ができていて、彼らだけで年間数百万円の売上を上げられる組織になってきています。同時に彼らはその資金をもとにe-Educationのプロジェクトを回し始めているので、あと数年もすれば、彼らは自走できる段階になると思います。
 
 ただ、私たちにとってはそこがスタートで、そこから全国に広げるために、彼らと一緒になにができるかを考えたい。これは2015年に始めた試みですが、ミャンマーのプロジェクトリーダーをバングラデシュに送って、インターンとしてe-Educationのノウハウを叩き込むというトレーニングをやっているんです。ミャンマーのプロジェクトはまだ本当に始まったばかりで、彼からすると、2年後、3年後、プロジェクトや組織がどんなふうになっているか、イメージがつかないと思うんですが、活動6年目を迎えたバングラデシュだともう有給職員が9人、アルバイトが4人いました。10人を超えた組織を一度見てもらうことで、自国に帰ったときに、どうしたら自分たちもそういう組織をつくれるか、イメージしやすくなるんじゃないか、というのが研修の狙いです。そうした国を越えた研修・交流プログラムを今度増やしていきたいと考えています。
 
――そうした取り組みから、さらに新しい知恵が生まれてきそうですね。
 
(第三回「大学合格者数のその先に、e-Educationが目指すもの」へ続く)
 
三輪 開人(みわ かいと)*e-Education代表理事
1986年生まれ。早稲田大学在学中にバングラデシュにて税所篤快氏と共にNPO法人e-Educationの前身となる活動を開始。予備校に通うことのできない高校生に映像教育を提供し、大学受験を支援した。大学卒業後はJICA(国際協力機構)に勤務しながら、NGOの海外事業総括を担当。2013年10月にJICAを退職し、e-Educationの活動に専念。14年7月同団体の代表理事就任。

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