誰もいないなら、自分がやるしかない

NPO桜ライン311 岡本翔馬

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土地鑑のある「外の人」
 
 一中の避難所には2,000人弱の避難者がいた。そこには、毎日トラックで大量の支援物資が運び込まれる。避難所運営にあたる岡本さんたちは、日々その対応に追われていた。
 
「一日のうちに10トン車が4回来て、ぜんぶ食料だったりするわけです。そのたびに物資を降ろして、調理して、避難者の方々に提供する。それとは別に、個人で支援に来てくださった方とか、よその避難所で断られてこちらに物資を届けに来られた方もいる。こまごま対応することがたくさんありました」
 
 陸前高田市内には、大小あわせて70数か所の避難所が点在していた。一中のような大きくてわかりやすい避難所には物資が集中する。一方で、辺鄙な場所にあったり人数が少ない避難所には、支援団体も支援物資も、何も来ないという声も聞こえてくる。深く傷ついた町の中で生まれたひずみは、徐々に大きくなっていった。
 
「支援ってほんとうに難しいんですよね。物資の輸送で言えば、土地鑑のない人にどこそこの避難所に行ってくださいって言ってもわからない。山積みの瓦礫で道もなければ、目印になる建物も残っていない。ナビもぜんぜん役に立たないんですから」
 
 東京には東京の価値観や優先順位がある。被災地には被災地の価値観や優先順位がある。うまくかみ合う場合の方が稀で、支援する側とされる側との板挟みになり、苦しむケースも多かった。
 
「大量に集まってくる人やモノ、情報を整理して効率化して、うまく繋ぐ役割をやれるのは誰か。そう考えたら、地元の出身者で、しかも一回地元から出ている僕みたいな人間なんじゃないか、って思いはありました。だけど、そういう立ち位置にいて、なおかつ身軽に動ける人間って、案外少ないんですよね」
 
 当時、岡本さんは28歳。まわりを見ると、やはり家族のことや仕事のことなどそれぞれの事情があって、陸前高田に帰って支援活動をしたくてもできないという人がほとんどだった。
 
「自分でもぎりぎりのタイミングだったなと思います。結婚をしていたり子どもがいたりしたら、やっぱり躊躇したでしょうね。でも僕はそうじゃなかった。自分に出来ることがあるならやるしかない、という感じでした」
 
 自分こそ、という思いで始めた支援活動。ただ、このときはまだ、心のどこかに東京に帰ってもできるという思いがあった。

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