漁業のやり方を変えるところから始めよう

桃浦かき生産者合同会社 代表社員 大山勝幸

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峠から望む桃浦の浜

もう、廃業するしかない
 
 仙台市街から車で1時間ほど。牡鹿半島を南に進み、峠をいくつか越えると、エメラルドグリーンの美しい海が視界に飛び込んでくる。ここが水産業復興特区の最前線となっている桃浦湾だ。
 
「あの津波の被害は相当なものだったんですよ。この辺り一帯、家がなかったでしょう」
 
 震災前、桃浦地区には65世帯ほどの家があった。そのほとんどが津波で流されてしまったと、視線の先にあの日を見ているかのように、大山さんは振り返った。
 
「この浜では、6名が亡くなりました。いま桃浦に住んでいるのは、4軒だけ。津波の被害にあわずに済んだ高台の3軒と、リフォームできた1軒だけです」
 
 桃浦の暮らしと港を守ってくれていた防波堤は破壊され、その残骸が湾内に散乱し、船を出し入れすることもできなくなっていた。
 
「救援に来た自衛隊も、ホバークラフトでやって来たんですよ。海の中は瓦礫だらけ、かきの養殖棚は流されて浜に打ち上げられていて、本当にひどい状況でした」
 
 ずっと昔から桃浦の支えだった港をどうするか。そして、自分たちの生活をどうやって取り戻していくのか。
 
「浜に散らばる瓦礫やゴミを片付けながら、みんなでいろんな話をしたんですが、これからどうするかという話になると、みんな『もう廃業するしかない』ということになって」
 
 震災が起きたとき、大山さんは64歳。後継者もおらず、2、3年したら自分も定年だなと、ちょうど廃業を考えていたところに襲ってきた津波だった。

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かき処理場の作業場

ここを廃墟にするわけにはいかない
 
 担い手の高齢化と後継者不足。それは桃浦も例外ではなかった。
 
「もともと、ここの生業をどうしていくのか、みんな考えていました。そこに震災が起きて、家は流され、港は壊れて。いままでの生活を取り戻すだけでも、どう見ても5年はかかる。年齢のことを考えても、もうとても無理だなってね」
 
 ただ、仕事の第一線から退くことになっても、昔のような故郷を取り戻すことには真剣に向き合っていた。
 
「被災した漁港の数が多いから、大きな漁港から修復していって、集約的にしていこうという話が出ていたんです。そうしたら、自分のところはどうするんだと、いろんなところから反発が出て。結局、全部やることになって」
 
 そんな中、地元の漁師たちが廃業を決め、担い手のいなくなった漁港の再生には、復興予算がつかないという話が聞こえてきた。
 
「それじゃ瓦礫だっていつまでも片付かないし、復興なんてできない。桃浦は長年住んで、子どもたちを育ててきた私たちの故郷だから、まさかこのまま捨てるわけにはいかない。廃墟にしてしまうわけにはいかないんです」
 
 そこで、何かいい方法はないかと模索している最中に、村井知事が提唱した『水産業復興特区』の話を耳にする。

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震災以前に戻るなら、私はやらない
 
「水産業復興特区」は、震災復興のための選択肢の一つとして、漁協に対して優先的に与えられてきた漁業権を、民間企業と連携した地元漁業者主体の法人に与えることを構想していた。民間企業との連携によって投資や経営能力を漁業の現場に呼び込み、競争力を高め、復興とともに漁業の再興を促すことが狙いだ。
 
「直感的に、これだったら何かできるんじゃないかって。そしたら、知事が講演するというので、チケットも3枚残っているというので、話を聞きに出かけたんです」
 
 村井知事の講演を聞いた大山さんは、知事との直談判に臨んだ。
 
「桃浦はこの特区制度を使って復興したい、って申し入れたんですよ」
 
 故郷を取り戻すためには藁にもすがりたい、という思いがあったのかもしれない。
 
「知事が言うように、会社になって一歩も二歩も先に行ける。工場を建てて、生産から販売から加工までを一手にやれるようになる。そういう考え方で復興できるんだったら、一緒にやりたいと言ったんです」
 
 桃浦復興のためとはいえ、これまでと違った取り組みを始めることに、躊躇や懸念を示すメンバーも少なくはなかった。だが大山さんは、特区の活用によって桃浦に新しい価値が生まれることに期待を寄せていた。
 
「震災が起きる前から、いまの漁業のやり方は変えなきゃいけないと思っていて、仲間ともそういう話をしていたんですよ。だから、震災前と同じ状況に戻すだけだったら私はやらないよ、と」
 
 遅れている水産業を建て直すところから始めなくてはいけない。廃業を決意した彼らを漁業に踏みとどまらせたのは、故郷復興への思いと、漁業再興のためタブーに踏み込んだ知事の覚悟だった。

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仙台水産の島貫会長

消費者が見えていなかった
 
 大山さんは、これまでの漁業の慣習に限界を感じていた。
 
「これまで私たち漁師はね、言ってみれば漁協から漁業権というかたちで漁場を借りて、漁や養殖をしていたんです。獲れたものは、基本的には組合にすべて納める。漁師が個人で値段をつけて、直接売るということはなかったんです」
 
 組合に集荷されたかきは一括で入札にかけられ、価格が決まり、販売される。組合は、生産量に応じて販売金額から販売手数料を差し引いた金額を生産者に戻す。共販制度というしくみだ。共販制度には、漁協が一括して取引を行うので手間暇がかからず、かつ安定的な取引が見込めるというメリットがある。一方で、生産者に価格決定権がなく、品質の良し悪しが必ずしも評価されないというデメリットを抱えていた。
 
「生産者は相場次第で一喜一憂するんだけど、私たちが収入を上げようと思って手っ取り早いのは、量をつくることなんです。ひとりで品質を向上させても、私の分だけ高く引き取ってくれるわけではないからね。そこに、消費者は見えていなかったんです」
 
 与えられた漁業権の枠の中で生産量を上げるには、限られた海域でたくさんのかきをつくることになるため密植状態になり、身の状態はどうしても悪くなる。
 
「かきの消費を伸ばして収益を拡大しようとしたら、販路拡大はもちろんだけど、より美味しいものをつくって消費者に喜んでもらうしかない。でも、いままでのやり方から離れてひとりでチャレンジするのは現実的ではないし、年も年だし。だから、このまま辞めてしまおうと思っていたわけです」
 
 仙台水産グループの島貫会長もいう。
 
「魚離れとか言われていますけど、食卓からかきが姿を消したのは、ライフスタイルの変化とかノロウイルスのせいだけではないと思いますよ。美味しくないものが出回って食べさせられたから、消費者が離れてしまったんでしょう」
 
 長く続いた慣習や常識を変えるには、甚大な被害を逆手にとる今しかない。それぞれの思いが結びつけられ、桃浦から新しい挑戦が始まった。

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桃浦の浜に建つかきの処理場

「全滅」したからこそ生まれたまとまり
 
 民間会社に漁業権が与えられ、生産から加工、販売までを組織化して一手に担えるようなしくみをつくり上げる。これは全国でも初の試みだった。
 
「ある意味で、桃浦はやりやすかったんです。浜全体がみんな同じように被災しましたから。被災状況がまだら模様の地区では、生活再建の考えもバラバラで、なかなか話がまとまらないですから」
 
 とはいえ、漁師たちはみな起業はもちろん、会社に所属した経験もない。県の提示する試算結果などを見ても、半信半疑のまま。何もかもが初めてだらけだった。
 
「私たちもかなり悩みました。でも、いつまでも悩んでばかりいられないから、浜を片づけて、使えそうな資材を拾い集めて海に入れておいたりして。そうしたら、種がきがついてくれたので、残っていた資材18台分を海に入れました」
 
 だが、ようやく足がかりをつかんだと思ったところに、さらなる天災が襲いかかる。
 
「台風が直撃したんですよ。地盤沈下している海岸沿いは危ないので、なけなしの資材を少し高台になっているところに運んだんです。そうしたら、台風で川が大氾濫して、それで結局みんな流されてしまいました」
 
 震災と台風のダブルパンチだった。だがこの出来事が、足踏みしていた「桃浦かき生産者合同会社」の立ち上げへの一歩を踏み出す、ひとつのきっかけとなった。
 
「せっかく拾い集めてきれいにした資材もみんな流されてしまって、新しいものを買うしかない。それには、みんなでお金を出し合わないと、とても間に合わない。そこで、会社組織の前に復興会を立ち上げて、ひとり100万円ずつ出し合うことにしたんです」
 
 これは資金集めとともに、結果としてほんとうにやる気があるのかどうか確かめる踏み絵にもなった。口座を設けて3日ほどで、16人が100万円ずつ振り込んだ。
 
「集まった資金を元手に、さあ資材を購入しようというときに、県の紹介で仙台水産さんが協力を申し出てくださったんです。そこから、販売ルートや加工の方法とか、いろんな話が具体化しました。このとき、ほんとうのスタートラインに立ったのかもしれません」
 
 かきの生産だけに専念してきた大山さんたちに、加工や販売のノウハウはまるでなかった。卸大手の仙台水産と手を組むことができれば、こんなに心強いことはない。ようやく会社の立ち上げが現実のものになろうとしていた。
 
(第二回「漁業を張り合いがあって楽しい仕事に」へ続く)
 
大山 勝幸(おおやま かつゆき)*1947年宮城県石巻市桃浦生まれ。父親の後を継ぎ、19歳からかきの養殖に従事。合併前の桃浦地区漁協の監事を23年務めた後、7つの漁協が合併した石巻地区漁協の監事・理事を経験。また、かき部長として地区漁協の管理に携わる。2011年より、水産業復興特区を活用し新たな技術や価値観を取り入れた新しい漁業を目指す「桃浦かき生産者合同会社」の立ち上げに携わり、現在代表社員を務める。
 
【取材・構成:熊谷 哲】
【写真:shu tokonami】

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